渡来 徹 | 花道家

Watarai Toru いけばな教授者、花道家。鎌倉二階堂を拠点に活動中。 いけばな…

渡来 徹 | 花道家

Watarai Toru いけばな教授者、花道家。鎌倉二階堂を拠点に活動中。 いけばなを通じて思考の垢を落とす、五感のリハビリ。 いけばなという鏡を人前に置くのが私の役目。 インスタグラム@watara_ikebana

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カツカレーを素直によろこべない大人になっていやしないか。

子供の頃、とんかつやハンバーグにカレーがかかったプレートを前にすると、テンションが爆上がりしたものです。とんかつだけでもワクワクが止められないのに、ハンバーグだけでもよだれが口の中に溢れるのに。さらにカレーがかかっている、だなんて最高にもほどがある。好きなものと好きなものが一緒くたになって口に入ってくる。歓喜。パンケーキにアイスクリーム、ソーダフロート、苺大福、あたりも同じ範疇でしょうか。 さて、いけばなです(僕は花道家です)。 右手にお気に入りのうつわ、左手には大好きな旬

    • 学ぶこと、教えること。

      いけばなを始め、伝統芸能は「学ぶこと」と「伝えること」が両輪となり過去から現在に繋がっています。そして未来に繋げるためにも当然この両輪は必要となります。しかしながらはなを学ぶこと、深めることには熱心ながらも、生徒を取らない、教えないという人は、ますます増えているように感じます。 限られた家柄の中での繋いでいく伝統芸能の姿も確かにあります。他方、いけばなは家元制度はあるにせよ、ある時から教えは開放され、市井の人が過去から繋がれてきたものを学び、未来へと繋いでいくことができる姿

      • 美しさよりも心地よさ。

        ここ数ヶ月、お稽古では"美"や”美しい”という言葉を控えるよう心がけています。大前提として私は、美しい存在に触れることが大好きです。これまでいけばなの魅力を伝える場においては「日本人が育んできた美意識」「植物の持つ機能美」などと説明もしてきました。それを今は共生や心地よさ、"生きるためのかたちそのもの。それだけ。"などと置き換えています。 私が自然に惹かれてる存在には時に万人が"美しい"と頷いてくれぬものも少なからずあります。例えば花の盛りを終えて朽ちゆく百合の花弁。これを

        • ちょっとした不注意も許されない。修理受付終了製品。

          4月の半ば、サウジアラビアへの出張用に購入したFUJIFILM X100S。 花を撮るための大きなカメラ以外にもう一台、携帯性に優れたコンデジを、と探し始めたものの最近のものはおいそれと手が出ない価格。 「そもそもプロでもない自分が常に最新の機種を持つ必要はあるのかな?」とか「当時はそれで必要十分とされていたのに、今では足りないとされる理由ってなんだろう?」「多くは写真として日の目を見ることないだろうなぁ」みたいなことを考えながらたどり着いた中古の一台でした。発売日は201

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        カツカレーを素直によろこべない大人になっていやしないか。

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        • 今日のいけばな
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          保水キャップの花留め、或いは思考の余白

          市場で仕入れたアンスリューム。足元は一本一本丁寧に保水キャップがはめられ、仲卸のロゴが入ったフィルムでぐるりまとめられていた。 挿さっていたアンスリュームをいく本か使っていくうちに 「あれ、これそのまま具合の良い花留めになるのでは?」 なんて思えて、フィルムを適当な長さでカットしたのち、うつわに据えていけなおしてみました。当然ですが挿す位置によって表情が変わります。重心も変わる。 いい感じに収まっている気がするし、気のせいな気もする。 ここから、日常の当たり前の姿にも美

          保水キャップの花留め、或いは思考の余白

          意識をよそにそらすためのひと手間。

          12月のある日、美味しそうなパンを手に入れた。 写真に収めようとお手製のゆずジャム、ゴルゴンゾーラを用意するなど粋がったものの、パンの断面に対して皿が小さすぎるという初手からのミス。ジャムはすでに皿に盛られ、ゴルゴンゾーラに添えたはちみつはスプーンに溜まっている。引き返すことなどできない。パンを減らす? いや、気になっているのは断面のサイズ感。枚数を減らしたところで根本的な解決にはならない。 そこでふと、背景に季節の植物などおいて雰囲気を盛ればよいのでは、と思い立つ。クリス

          意識をよそにそらすためのひと手間。

          SNS、スタートダッシュに失敗すると埋もれる。

          私のnoteは、ほとんど誰の目にも止まりません。なんせフォロワーさんはわずか75名。当然、リアクションをとってくださる方は片手で数えられるほど。 インサイトが確認できないとあってはこのわずかなフォロワーさんすら届いているのか疑問ですし、ましてやオススメに乗ることもなく、webのテクストゴミを作っているに過ぎないと、自覚せざるを得ません。ごめんなさい。 またnoteとの連携で相性が良いとされてきたexTwitter=Xのフォロワーさんは268名。2012年から10年以上続けて

          SNS、スタートダッシュに失敗すると埋もれる。

          生鮮品で嗜好品、花はフルーツと同じ。

          一部のゆとりのある人にしか手の届かないものになりつつあるのかもしれない。 今では市場で花を仕入れる機会はめっきり減ったけれど、行くたびにその値上がりっぷりには舌を巻きます。 これは主役に、これはボリュームつけにスパイスに、と選び分けるのが正直難しいほどどれもが値上がりしている。加えてこれから冬に向かってはハウスの燃料代なども乗っかってくるでしょうからいっそう手の出しずらい状況になりそうです。 売れ残った花は、花屋の店頭か仲卸でか、はたまた農家の畑でなのか、廃棄されること

          生鮮品で嗜好品、花はフルーツと同じ。

          "正確ないけばな"ってなんだろう? 知ることと分かることと出来ることはそれぞれ違う。

          ”正確ないけばなを知りたい”という雲を掴むような質問が来た。それはいけばな、Ikebanaと冠されていながら、SNSほかで目にするアウトプットが多種多様すぎるからだろう。 “正確ないけばな”を”真理”と置き換えて考えてみる。いけばなに限らず、書き記された真理は結構残っているし、私たちをそれを読むことができる。しかしそれで真理をわかった、得たことにはならない。真理は常に体験を伴ったその先にしか待っていない(得られるかどうかは別問題)。 いけばなのアウトプットの複雑さについて

          "正確ないけばな"ってなんだろう? 知ることと分かることと出来ることはそれぞれ違う。

          Gucciにみる永遠と循環と。

          表参道ヒルズに寄ると、地下で#GucciBambooSummerなるイベントが開催中。竹をハンドルに使ったハンドバッグにフォーカスしたインスタレーションです。暗闇に無数のライト、浮かび上がる青い地球、そして透明な球体に包まれたヴィンテージのバッグ、スペーシーな空間なぜに。 バンブーハンドルバッグは先の大戦後、物資不足を解決する手段として竹にフォーカスして開発されたそうですから7~80年近い歴史を持ちます。 使い込むほどに飴色の鈍い輝きを放つ竹は、花道家としては花材としての

          Gucciにみる永遠と循環と。

          植物は切られてもすぐには死なない。

          3ヶ月経ってなお生命力残るスカビオサ  写真のスカビオサは2023年2月2日に撮影したものです。伝票を確認すると仕入れたのは2022年11月5日ですからまるっと3ヶ月経ってる。その間、水を入れたガラス瓶に挿して日当たりの良い軒先に放置してありました。雨に吹かれ風に揺れ、1月は氷点下で霜が降りる日、氷が張る日も数日ありましたがお構いなし。  淡いベージュ色だった花びらはさすがに日に焼け寒さに焼けてますが、中に除くシードポットは青々としてわずかに膨らんですらいます。いまだ上向い

          植物は切られてもすぐには死なない。

          一人歩きする言葉。例えば『陰翳礼讃』。

          個展最終日、皆さんがお帰りになってから名残のはなを撮影しました。 さて、作家 谷崎潤一郎は著書『陰翳礼讃』を以下のように締め括っています。 “われわれがすでに失いつつある陰翳の世界を、せめて文学の領域へでも呼び返してみたい。文学という殿堂の檐を深くし、壁を暗くし、見えすぎるものを闇に押し込め、無用の室内装飾を剥ぎ取ってみたい。それも軒並みとはいわない。一軒ぐらいそういう家があってもよかろう。まあどういう工合になるか、試しに電灯を消してみることだ。” 陰翳とはある種のあい

          ¥200

          一人歩きする言葉。例えば『陰翳礼讃』。

          Inside Outside

          来る個展に向けて花材の準備をする日々です。先日は薮に入って立ち枯れた竹を切り出し拙宅前で下拵え。5~7mの枯れ竹の表面にみっちりついたあれやこれを洗い流して拭いて乾かして、と繰り返しているうちにInside Outsideなんてフレーズが浮かんできました。昭和初期に建てられた日本家屋に鎌倉の竹藪を持ち込み設ることで共生を可視化するイメージです。 このフレーズ、COMME des GARCONS HOMME PLUSのコレクションテーマにあった好きな響き。調べてみると98AW

          葉は光を浴びるために上を向く。

          キウイ。気ままに線を描く蔓。どれだけ行ったり来たりしたとて葉っぱが向くのはいつも上。重力と逆の方向に向かって萌える。 うつわの上でも同様の姿でいける。

          葉は光を浴びるために上を向く。

          先生への感謝と流派の行末と自然描写。

          今日は久しぶりに親先生のところへ。先日神戸で行われた授与式で授かったお免状と土産を持参しました。小原流の技術資格としては最高位に当たる一級家元教授者、21年目でようようの一区切りにして、スタート地点。 「わざわざ持ってきてくれたの、まぁ」と、喜んでくださって何より。お世話になった人の笑顔は嬉しいものです。 私の先生は技術的に優れ知識も豊富。そうした先生は少なからずいらっしゃいますが、出色は花の捉え方です、実にうまい。いきいきとした姿でうつわの上に現れる。花への愛情だと言って

          先生への感謝と流派の行末と自然描写。

          花道家、PRADA MODEへ行く。

          旧知のお招きで5/12、13の2日間、東京都庭園美術館で開催されたPRADA MODEに行きました。ファッションを扱う編集者時代の名残で送られてきたであろう招待メールながら、この時期の庭園美術館を愉しむよい機会。トークセッションやワークショップなどのプログラムも興味深く12日に行ってきました。 とはいえ、ファッションや建築、公共事業の持続可能性の模索、そのいずれにもコメントできる立場にありませんので、ひとまずリンクを以下にぺたり。 "東京都生活文化スポーツ局文化振興部長の

          花道家、PRADA MODEへ行く。