"正確ないけばな"ってなんだろう? 知ることと分かることと出来ることはそれぞれ違う。
”正確ないけばなを知りたい”という雲を掴むような質問が来た。それはいけばな、Ikebanaと冠されていながら、SNSほかで目にするアウトプットが多種多様すぎるからだろう。
“正確ないけばな”を”真理”と置き換えて考えてみる。いけばなに限らず、書き記された真理は結構残っているし、私たちをそれを読むことができる。しかしそれで真理をわかった、得たことにはならない。真理は常に体験を伴ったその先にしか待っていない(得られるかどうかは別問題)。
いけばなのアウトプットの複雑さについてはどうか。
流派のフィロソフィーは”花型”に込められている、と考えることができる。それぞれの哲学に基づき、後世に残したいと花型に込めた。繰り返し花型に従い花をいけることは、その哲学の一端に触れることになる。
物事を複雑化させている一端は、流派を横断するように採用されている”自由花”の存在かもしれない。
海外からの生徒さんで〇〇流を学んでいます、なんて言われて写真を見せてくれる。すると大概が自由化だったりする。そうかー。入手できる花材に限りがあることにもよるのだろう。
花型を教えるのに制約があるのならば、流派の看板ではなく、”いけばな自由花連合會”みたいな看板でやってもらえると、少しは整理される気もする。
そしてこの”自由花”と”いけばなは引き算の美学”という標語? 迷信? の掛け合わせが、およそ私の求めている花とは遠い存在を生み出しているんだなと、腑に落ちました。
さて。日本には”言わぬが花” なんて言葉もあります。過度に突っ込んだ話をしても誰の得にもなりませんのでこの辺で。
ありがたくいただき、世界のどこかにタネを撒こうと思います。