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物語『老人ホームで起こった奇跡』

 一匹の猫が老人の元にやってきて、奇跡と幸福をもたらす、『夫婦の愛の物語』
 老人ホームのトラブルメーカーだった男性(森田モリオ)が、一匹の猫と一緒に生活を始める。すると、その途端、森田さんは模範的な入居者に急変する。職員に一切、迷惑をかけなくなり、「オレにかまうひまがあったら、助けが必要な入居者の面倒を看てあげてほしい」と言うまでになる。
 一体、森田さんに何が起きたのか? どのようにして猫は森田さんを生まれ変わらせることができたのか? 果たして猫の正体は一体、何者?
 老人ホームの職員(三輪レオ)が森田さんと対話を重ねる。その結果わかったことは、なんとも信じられない奇跡の出来事だった。

第1章 鼻つまみ者の入居者
 
 

 ボクの名前は三輪レオ。老人ホームに勤める介護職員だ。現在、二十七歳。
 今から話しをする『奇跡』は三年前、ボクがまだ新米の介護職員だった時に起こったことだ。その時、ボクは神奈川県の、とある老人ホームに勤務していた。その老人ホームの名前を仮に「M町ケアパーク南風」としておこう。
 正直に言うと、当時、ボクは思っていた、「介護職員を辞めたい。異業種に転職したい」と。なぜなら、介護の仕事は給料が安いし、仕事内容がきつくて、体力的にも精神的にもつらすぎたから。介護の仕事を始めて三ヶ月が経って、ボクは「介護職に向いていないのではないか」と毎日、思っていた。
 そんなボクが担当していた入居者の一人が、「ホームのトラブル・メーカー」と呼ばれていた男性入居者だった。ここではその人を、「森田モリオ」という名前で呼ぶことにしたい。
 はっきり言って、ボクは森田さんに苦しめられた。口に出して言うことは決してしなかったけれど、「ホームから出て行ってくれたらいいのに」と思うことが何度もあった。
 森田さんは一体、どういう人だったのか? 見た目は「普通の高齢者」だったが、中身は「皆から嫌われる鼻つまみ者」だった。
 見た目は本当に「普通」だった。森田さんは八十四歳。髪の毛は白くなっていて、頭頂部は禿げていた。顔も体もシワだらけで、皮膚はたるんでいた。猫背で、すり足で歩いていた。森田さんが他の高齢者と異なる外見と言ったら、黒縁の丸メガネをかけていることくらいだった。
 見た目は「どこにでもいる高齢者」だったけど、しかし、その性格は「大変」だった。森田さんと一緒に生活すると、誰もが散々迷惑をかけられて、他の入居者も介護職員も看護士もみんな、森田さんのことを嫌った。
 なぜ森田さんは皆から嫌われていたのか? それは、森田さんがあまりに自己中心的だったからだ。森田さんは「要介護2」の判定を受けていたけれど、実際には能力的に自立できていた。それなのに、認知症が進んだふりをして、すべての職員に依存し、職員をこき使っていた。
 例えば、森田さんは十分おきにナースコールを鳴らした。電話では用件は一切伝えない。仕方なしに職員は居室まで行く。すると、森田さんは言うのだった、「歩けないから、食事は居室で食べたい」とか、「食堂ホールに連れていくのなら、車椅子を準備して」とか、「喉が渇いたから、水を飲ませてほしい」とか、「トイレに連れて行ってほしい」とか。
 要するに、森田さんは考えていたのだ、「介護保険制度は使わなければ損。職員を自分のために働かさなければ損だ」と。それが森田さんで、職員も看護師もみな、森田さんになるべく近づこうとしなかった。
 それから、森田さんは職員や看護師だけではなく、他の入居者にも厳しかった。食事やレクリエーションの時など、ホールに入居者が全員集まると、認知症の進んだ方が「居室に帰りたい、帰りたい、帰りたい」と連呼して、騒ぎ始めることがあった。その時、森田さんは、認知症の入居者に向かって、「うるさい、うるさい」「とっとと帰れ」「叫ぶな」と怒鳴る。そして、森田さんはボクに向かって言うのだった。
「あいつら、こんな時だけ認知症が進んだふりをしやがって。三輪さん。あんな奴らにサービスする時間があったら、オレにサービスしてよ。オレは高い金、払ってるんだから」
 だけど、ボクは思っていた、「一度、森田さんとゆっくり話がしてみたい。じっくりと話を聞いてあげれば、森田さんのことを理解できるかもしれない。森田さんも変わってくれるかもしれない」と。
七月七日、七夕の夜。ボクは就寝時間前に森田さんの居室に伺って、ドアをノックした。
「職員の三輪ですけど、お休み前の時間にすみません。少しだけお話したいんですけど、よろしいですか?」
 部屋の中からしばらく答えはなかった。
 ボクはもう一度、ノックしてみた。すると、部屋の中からぶっきらぼうな声が聞こえてきた。
「何の用?」
「ちょっとお話したいことがあって、三分だけ、お時間いただけませんか?」
「三分だけ? それなら、いいよ」
 ボクがドアを開けて、居室の中に入ると、森田さんは椅子に座って、本を読んでいた。
 ボクは頭を下げた。
「すみません。お忙しい時に、お伺いしてすみません」
「三分間だけだよ。ちゃんと時間、守ってよ。それで、用事って、何よ?」
 森田さんは腕時計を見てから、顔を上げて、ボクを冷たい視線で見た。
 ボクは思い切って、言った。
「森田さんに聞きたいことがあるんですけど、今のホームでの生活を、どうお考えですか?」
 森田さんが「キッ」とボクを睨んだ。
「『どうお考え』って、どういうこと?」
「ボクは森田さんは『もっとできる人だ』と思うんです」
「もっとできる人? それ、どういう意味?」
「はい。それは、介護職員の支援が減っても森田さんは能力面で高いものをお持ちですから、一人でやっていけるんじゃないかと思うんです」
 森田さんが立ち上がり、すごい剣幕で言った。
「おいおい。オレは『要介護2』の判定を受けてるんだぞ。職員の支援が必要な人なんだよ。それを忘れるな」
 ボクはひるまずに丁寧に言った。
「森田さん。森田さんは確かに『要介護2』の判定を受けていますけど、実際には生活面で自立できる人じゃありませんか? 職員から車椅子を押してもらうんじゃなくて一人で歩くと、行動範囲も広がり、ここの生活がもっと楽しくなるのでは・・・と思うんですが」
「いいや。オレは歩けないんだよ」
 ボクは穏やかに行った。
「そうなんですか? 朝起きて、一人でベッドから出て、洗面台までサッサと移動して、顔を洗い、歯を磨いていることもあるでしょう? どうして、自分でできることは自分でやろうとしないんですか?」
 すると、森田さんは目玉をギョロッと突き出した。
「はあ? オレ、自分で洗面なんかしてないよ。オレは何にもできないんだから、あんたたちがオレの面倒看てくれなきゃ、困るよ」
「そんなことないですよ。森田さん、自分でできることはいっぱいあるはずですよ」
「いいの。オレは何もできないし、わからないから。そんなことより、三輪さん。ホーム長に行ってよ、『ここの飯はまずくて、食えない』って。『全く人間の食うものじゃない。もっと美味しいものを食わしてよ』って、言っといてよ」
「そうですか? ここの食事はけっこう美味しいと思いますけど」
 森田さんはキッとボクを睨んだ。
「ここの料理が美味しい? バカ言っちゃいけないよ。うちの嫁さんの手料理に比べたら、段違いだよ」
 ボクは驚いて、言った。
「森田さんの奥さんの手料理、そんなに美味しんですか?」
 森田さんが「フーッ」と息を吐いた。
「『美味しかった』んだよ。清子の作る食事は天下一品だったんだよ。残念ながら、清子は二〇年前に死んでしまったけど」
「そうですか」
「うん。うちの嫁さんが長生きしていたら、オレもこんな所に入らなくてよかったのになあ。そしたら、ここのまずい飯も食わなくてよかったのに。とにかく、ホーム長に言っといてよ、『飯をもっと美味しくしろ』って」
「わかりました・・・」
 ボクはガックリと落ち込んで、居室をあとにした。
 その後、ボクは気分がどうしてもスッキリしないので、ホーム長の佐伯さんを訪ねた。佐伯さんは四〇代で、いかにもスポーツマンという感じの人だった。
 ボクはホーム長の部屋を訪ねて、佐伯さんに言った。
「夜分、遅くにすみまさん。今、お時間、よろしいですか?」
 佐伯さんはでかい体を揺すって、笑った。
「今晩は私も君も夜勤だ。時間はたっぷりあるよ。どうしたんだい?」
「私はまだ勤め始めて三ヵ月なんですけど、仕事をうまくやっていけなくて・・・」
「具体的に言うと、どういうこと?」
「介護の仕事って、思っていたよりタフなんだと思って・・・」
「うんうん。そうだね。夜勤もつらいし、入浴介助とか、移住解除とか、レクリエーション指導とか、体力使うもんな。腰痛になる人も多いし」
「どうしたらいいですか?」
「時には休みを取るんだよ。ここのホームが忙しいことはみんなわかってる。『休みを下さい』と言い出しにくいのもわかる。しかし、休みを取って、体も心も整えないと、長く働けない。きつい時は休みを取ってくれ」
「はい。ありがとうございます。しかし、正直言って、『辞めたい』と思うこともあるんですが・・・」
 佐伯さんが息を吐いてから言った。
「そうなのか。だけど、弱音を吐いて、相談するって悪いことじゃない。君は働き始めて、まだ三ヵ月だ。最初からうまくできないで、当たり前だよ。これから色々な経験を積むことで、問題を解決しながら成長していけばいいんだ。そしていつか『あの時、辞めないで良かった』と思える時が来るよ」
「そうですか」
「それで、特に困っていることは何?」
「はい。担当している森田さんのことが気になっているんです」
「うん?」
「森田さん、自立できているのに職員に頼り過ぎるでしょう。それに、他の入居者にも厳しすぎるんです。どう対応していいのか、わからないんです」
 佐伯さんは両腕を胸の前で組んで、しばらく目を閉じてから、言った。
「私なら、『対話』だな。相手の話にきちんと耳を傾ける。そして、自分の考えも丁寧に伝える。そうして、好ましい関係を築いていけば、状況は変わっていくんじゃないかな」
「対話・・・ですか。実は今、森田さんの居室に行って、話してきたところなんです」
「なんだ、そうだったのか。そいつは素晴らしいよ」
「そうですか?」
 佐伯さんは拍手してくれた。
「本当にそれは素晴らしい。それで、森田さんと話してみて、どうだったんだい?」
「全然ダメでした。何を言っても、森田さんはいうんです、『オレは要介護2で、動けないんだ』って・・・」
「継続は力なり、さ。三輪君。一度話したら劇的変化が起きる・・・なんてことはありえない。繰り返しと長い時間が必要だよ」
「わかりました。忍耐強く話してみます」
 佐伯さんはボクの肩をポンポンと叩いた。
「君なら大丈夫。きっとうまく行くよ。報告をちょくちょくしてくれよ」
 ボクは頭を下げて、ホーム長の部屋をあとにした。

第2章 茶色の老いた雌猫


 七月十日。
 真夏のように熱い日が続いていた。
 森田さんがニコニコ笑顔でボクの方に近づいて来た。ボクは頭をかしげて考えた、「一体、何があったんだ?」と。
 森田さんがボクに言った。
「三輪さん。外泊許可をもらいたいんだけど、どうしたらいいんだい?」
「えーっと。書類に記入して提出をお願いします。『外出・外泊届』っていう書類があるんですよ」
「それ、一枚、ちょうだいよ」
「いいですよ。一体、どうしたんですか?」
 森田さんは軽くうなずいて、目を細めてから言った。
「息子から電話があってね。外泊して、何か美味しいものを食べようっていう話になってね」
「良かったですね」
「うん。こってりした中華料理でも食べようと思って・・・」
「うらやましいなあ。中華って、美味しいですもんねえ。それで、いつ外泊するんです?」
「うん。今週末。十六日、土曜日の午後から、翌日まで。息子が午後三時に迎えに来てくれる」
「わかりました。じゃあ、記入用紙持って来ますね。待っていて下さい」
 そんなふうにして、森田さんは翌日の午後、車に乗って息子さんの家に向かった。
その日の夜と翌日、ホームは平和に時間が流れて行ったに。正直に言ってしまうと、森田さんが居なくて、ボクは清々していた。でもそれは、ボクだけじゃなくて、他の職員や入居者も思っていることだったと思う。
幸せな時間はアッという間に過ぎ去り、七月十七日の夜がやって来た。午後七時、森田さんを乗せた車がホームの玄関に着いた。
ボクは玄関で出迎えた。森田さんが車を降りて来る時、森田さんが何かを抱いていた。目を凝らして、ボクは森田さんの腕の中のものを見た。それは、黄色くて、そして、動いた。
「ニャーオ」
 猫だった。その猫は子猫ではなく、大きな猫で、明るい茶色に縞模様のある猫だった。そして、その猫はおとなしいようで、森田さんに静かに抱かれていた。
 息子さんが車から降りて来たので、ボクは息子さんに走り寄って、小さな声で言った。
「あの猫は一体・・・?」
「すみませんが、今晩から父の居室で猫を飼わせていただけませんか?」
「は・・・、はあ?」
 息子さんは「フーッ」とため息をついた。
「父がどうしてもあの猫をホームで飼いたいと言い張るもので・・・」
「どうしたんですか?」
「昨日の夜、近所のモールに中華料理を食べに行ったんですが、たまたまペットショップの前を通った時、父があの猫を見て、全身が震え始めたんです」
「痙攣・・・、あるいは、引き付け・・・ですか?」
「うーん。何とも言えません。でも、震えはすぐに治まったんです。でも、その後が大変だったんです」
 ボクは黙ったまま、息子さんの目を見つめた。息子さんはうつむいてから、顔を上げた。苦虫をかみつぶしたような顔をして言った。
「父はペットショップの前で大声で叫び始めたんです、『あの猫を買ってくれ。あのネコがワシを呼んでいる。あの猫をホームに連れて帰るんだ』って。何度も何度も叫んだんです」
 ボクは「ハアー」と長く息を吐き出した。
「それは大変でしたね」
「本当に。父はこちらが何を言っても聞き入れてくれませんでした。私は言ったんです、『猫じゃなくて、ハムスターか犬にしたら?』って。しかし、父は言い張りました、『老人ホームは犬でも猫でもなんでも飼っていいんだ。それにオレはあの猫じゃなきゃあ、イヤなんだ』と・・・」
「お父様の言う通りで、このホームはペットの飼育が許可されていまして、犬や猫を飼っていらっしゃる方がいらっしゃいます。しかし、森田さんが猫が好きだったなんて、知りませんでした」
 息子さんは頭を横に振った。
「いいえ。猫が好きだなんて、私も知りませんでした。私が幼い時、猫を飼っていたこともありますが、それは母がどうしても飼いたいと言ったので、飼ったんです」
「じゃあ、森田さんは猫をそんなに好きじゃないんですね」
「そうなんです。それに、なぜかあの猫にこだわるんです」
「どういうことですか?」
「私はさらに言ったんです、『もっと若くて元気の良い猫にしようと言ったんですが、聞かないんです。父は『絶対にあの猫しかダメだ』と言い張るんです」
「なぜ、あの猫なんですかね?」
息子さんは両手の手のひらを天に向けて肩をすくませた。
「わかりません。何度も聞いたんです、『なぜあの猫じゃなければいけないの?』って。でも、答えは『あの猫がワシを呼んでいる』の一点張りです」
「あの猫は若くないんですか?」
「歳は十六歳です」
「十六歳! それって・・・」
「はい。それって、猫にしてはかなり高齢です。キナコは人間で言えば、八十歳ぐらいに当たります。」
「キナコ?」
「あっ! 猫の名前、まだ言ってませんでしたっけ? あの猫の名前、『キナコ』っていうんです」
「なぜ『キナコ』なんですか?」
 息子さんが頭をかしげた。
「父が名付けたんですけど、理由はわかりません。でも、あまり深い意味はないと思いますよ。多分、色が茶色なので、『キナコ』にしたんだろうと思います」
「そうですか・・・」
「ペットショップの店員さんが言うには、猫の寿命は十八歳くらいで、キナコも老い先長くないということです。ペットフードや猫用のトイレなどなど、猫の飼育に必要な道具もすべて準備して持って来ていますので、どうぞよろしくお願いします。
「わかりました」
 ボクは弟さんから離れて、森田さんのところへ近づいていった。森田さんはキナコを抱っこして、頭をなでながら、キナコに話しかけていた。
「キナコ。おうちに着いたよ。これからは一緒の部屋で暮らすんだよ」
 キナコは見慣れない場所に来て、キョロキョロとうかがっていた。
 ボクは森田さんの顔を見ながら言った。
「その猫、可愛いですね」
「えーっ。三輪君、本当にそう思うかい? そう言ってもらえると嬉しいねえ」
「名前はなんて言うんですか?」
「キナコ! いい名前だろ?」
「いいですね。ところで、なぜ『キナコ』っていう名前なんですか?」
 森田さんはニコッと笑った。
「それは秘密だよ。ひ、み、つ」
 森田さんはキナコを抱いて、上機嫌で自分の居室へ上がっていった。

第3章 大変身


 キナコがホームに来た日から、森田さんは「完全な愛猫家」になった。森田さんの生活はキナコが中心。一日中、キナコをそばを離れずに可愛がった。
 例えば、息子さんに言って、ドーム型猫用ペットハウス、ネコ用のエサ入れ容器、水入れ容器、それから、ネコ用のデオドランド・トイレなどを準備させた。また、息子さんに高価なキャットフードを購入させて、朝、昼、晩とエサやりを定刻通りにやっていた。キナコが餌を食べてるのを見ながら、森田さんはニコニコ笑顔でキナコに話しかけた。
「キナコ。美味しいかい? たくさん食べろよ」
 そして、キナコを頭をやさしくなでてあげるのだった。また、暇があれば、キナコを抱いてブラッシングするのだった。
 しかし、キナコがやって来て、森田さんの生活態度がすべて一変したわけではない。相変わらず十分おきにナースコールを鳴らし、そして、職員に文句を垂れ、職員を嫌というほど、こき使っていた。しかし、小さな変化は徐々に起こっていった。ボクが「あ、なんか違うな」と感じたのは、キナコが老人ホームにやってきて、一週間くらい経った頃だった。
 まず変わったのは、食事。森田さんは職員に手を煩わせることなく、自発的に食堂に来るようになった。朝、森田さんが洗面と着替えとキナコへのエサやりを済ませて、自分で歩いてホールにやってきた。職員は目をまん丸にした。
 森田さんは食卓に着くと、大きな声で言った。
「みなさん、おはようございます。今日も一日、どうぞよろしくお願いします」
 それから、目を細め、口角を上げて、ニコニコ笑顔で席に着いた。
食堂にいる人たちが一斉に森田さんを見た。そして、何人かの入居者さんたちが頭を寄せ合って、ひそひそ話を始めた。
 森田さんは自分が注目の的になっていることなど気にしない様子で、朝食を元気よく取り始めた。前や横に座っている入居さんを明るく談笑しながら、朝食を平らげた。
 その後も、森田さんは以前とは別人のような行動を取った。たとえば、朝食後のお茶の時間だ。老人ホームでは十時からはお茶の時間が始まり、同時に職員は居室の清掃を行う。今まで森田さんはお茶の時間にホールに出て来ることはなかったので、森田さんが居室にいるまま掃除が行われてきた。しかし、この日から森田さんは職員に言われなくても自分から移動を始め、ホールに来るようになったのだった。しかも、他の入居者と明るく談笑するのだった。
 十二時になると、昼食。森田さんは時計を見て、自らホールに移動してきて、自分の席に着いた。
 そして、昼食後は、要介護の入居者さんたちへの口腔ケアと排泄介護。森田さんは「要介護2」の判定を受けているので、ケアの対象だ。今までは森田さんは介護者の手を借りて口腔ケアと排泄を行ってきたけれど、この日の森田さんは違った。ボクの方を向いて言った。
「三輪さん。オレは自分のことは自分でできる。だから、あんたはオレにことは気にしないでいいよ。その代わり、困っている入居者が居て、あんたの手助けを必用とする人がいたら、必ず助けてあげてほしいんだ」
 ボクは目を大きく開いて、森田さんを見た。
「す・・、素晴らしいですね、森田さん。他の入居者さんのことを考えてあげて・・・」
 森田さんは右手で頭をボリボリと掻きながら、顔を赤くして行った。
「そんなことないけど、オレ、最近、思うんだ。『オレにかまう時間があったら、介護が必要な人のことを面倒みていあげてほしい』って・・・」
 ボクは思った、「森田さん、なぜ急に変わったんだろう? 理由を知りたいな」と。ボクが口を開いて質問しようとした瞬間、森田さんは言った。
「この後は入浴介助が始まるだろう? お疲れさん。なんか、オレにできることがあったら、いつでも言ってよ」
 そう言って、森田さんは居室に戻っていった。
 そうこうしているうちに、午後三時になった。三時からは「レクレーション・タイム」。レクリエーションには、「体操」や「絵を描く活動」や「歌を歌う活動」などがある。以前の森田さんはレクリエーションなんか大嫌いで、いつも次のように言っていた、「レクリエーションなんか、ちっとも面白くない」とか、「めんどくさい」とか。
 しかし、イメチェンした森田さんは言うこともすることも、以前とはまるっきり反対だった。以前だったら、「歌を歌ったり体操をしたり絵を描いたりするのなんて、バカバカしい。幼稚園児みたいなこと、やってられるか」と言っていた。今では、真逆だ。なんと、他の入居者に次のように言っているのだ。
「レクリエーションはリハビリの時間でもあるんだから、自立して生きていくためには必要な活動。どんなレクリエーションでも積極的に参加しよう」
 森田さんは以前は「老人ホームのトラブルメーカー」だったのに、今では「老人ホームの模範的入居者」に変身していた。
ボクは何が森田さんを急変させたのか、不思議に思って、変身の原因を知りたいと思った。それで、翌日の夕食後、ボクは森田さんの居室を訪問した。
 ボクはドアをノックして、言った。
「職員の三輪です。森田さん、起きていらっしゃいますか?」
「はい」
「短時間、お話がしたいんですが、よろしいですか?」
 すると、部屋の中から「ニャーン」というキナコの鳴き声が聞こえた後、森田さんの返事があった。
「どうぞ」
 ボクがドアを開けて、中に入ると、森田さんはベッドの上に座っていた。膝の上にキナコを乗せて、キナコの頭をやさしくなでていた。
ボクは思い切って尋ねてみた。
「あの、すみません。失礼ですけど、最近の森田さんの具合について伺っていいですか?」
 森田さんは口角を上げて、白い歯を見せた。
「ああ、何でも聞いていいよ。でも、体調の事なら、聞かなくてもいいよ。とっても調子がいいから」
 ボクはホッとして言った。
「いいえ、今日は体調のことを伺いたいのではなくて、森田さんの・・・最近の生活というか、心境について伺いたいんです」
 森田さんが目を大きく開いて、頭をかしげた。
「どういうこと?」
「はい。私は思うんですけど、最近、森田さん、変わりましたよね。自分のことは自分でどんどんされますよね。それに、他の入居者のことを温かく心配してくれますよね。それって、一体・・・?」
「ジコチューだったオレがいきなり天使みたいになったから、びっくりしたんだね」
「いいえ。そういうわけではないですけど、何かお考えの変化があったのなら、教えていただきたいと思って・・・」
ボクがそう言うと、森田さんは視線を下げ、キナコを見て、小さな声で言った。
「オッケーかい? キナコ?」
 その瞬間、キナコが顎をピクンと小さく動かした。
 森田さんは顔を上げて、ボクを見て言った。「実を言うと、一週間くらい前から、キナコがいきなりオレに話しかけてきたんだ」
心臓がビクンと痙攣して、右肩がヒクヒクと小刻みに震えた。ボクは心の中で密かに思った、「猫が話しかけてくるって、人間の言葉で? そんなこと、あるのだろうか? いや、あるはずない。もしかしたら森田さん、ついに認知症の症状が出て来たのかもしれない」と。
しかし、ボクは三輪さんの目をのぞきこみながら、言った。
「そ・・・、それ、ど・・・、どういうことですか? それって、つまり、キナコが人間の言葉をしゃべったっていうことですか?」
 森田さんはゆっくりとうなずいた。
「そうなんだ、キナコが日本語をしゃべったんだ。オレも最初はたまげたよ。キナコに尋ねたよ、『今しゃべったのは、お前なのか』って」
ボクは森田さんの目を見た。認知症が進んでいるという感じはなかった。ボクは恐る恐る言った。
「そ・・・、それで、キナコは何と言ったんですか?」
「うん。三輪君。話をする前に、約束してくれるかい、これからオレがしゃべることを誰にも言わないって。なぜって、『ネコが人間の言葉をしゃべった』なんて言うと、『森田の奴、頭がおかしくなった』って言う奴がいるから」
 ボクは口をつぐんで考えた、「どうしようか? 安易に約束していいのかな?」と。ボクは森田さんの顔をジッと見た。森田さんは目を光らせて、真剣なまなざしでボクを見つめていた。ボクは思った、「ああ、森田さん、話をきいてもらいたいんだな。それに、この状況でボクが『秘密は守れません』なんて言ったら悲しむだろうな」と。
それで、ボクはうなずいて、言った。
「大丈夫です。秘密は守ります」
すると、森田さんは白い歯を見せて、ニコニコ笑顔になった。
「こんなこと言うと、頭がおかしくなったと思われるかもしれないんだけど、嘘じゃないんだ。本当のことなんだ。三輪君は秘密を守ってくれると思ってるし、それに、三輪君はオレのことを頭がおかしくなったなんて思わないだろうから、言うんだ」
「は・・・はい・・・・」
 ボクは唾を「ゴクン」と飲み込んだ。唾を飲み込む音が体の中で大きく木霊した。握りしめた右手のこぶしの中が汗まみれになっている。
 森田さんは目を閉じて息を「スッ」と吸い込んで、右手で鼻の下をゴシゴシとこすった。そして、目を開けてボクの目を真正面から見据えて言った。
「オレがキナコを連れて帰った日を覚えているかい?」
「はい。たしか、今から一週間前ですよね?」
「七月十七日。それから、三日間はキナコはしゃべったりしなかった。しかし、四日目、七月二十日の夜、キナコがいきなり人間の言葉でしゃべり始めたんだ、『モリオさん、びっくりしないで。私は清子の生まれ変りなの』って・・・」
 ボクは思わず視線を下にやって、キナコを見た。キナコは森田さんの太ももの上に座っていて、頭を横に倒した。そして、その後、ボクの方を「チラリ」と見た。キナコは「ニャーン」と鳴いて、頭を森田さんの太ももの上におろし、目を閉じた。
 ボクは頭の中を高速回転させて考えた。そして、言った。
「『清子さん』って、森田さんの奥さんのお名前ですよね。キナコは本当に言ったんですか、『私は清子の生まれ変りです』って?」
 森田さんが目を閉じ、うなずいた。
「信じられないだろう? でも、本当なんだ。小さくて甲高い声。あれは確かに女の人の声だった」
「つまり、キナコが言ったんですね、『私は現世では猫ですが、前世は人間で、あなたの奥さんでした』と・・・」
 森田さんが顎をゆっくりと下げた。
「そうなんだ。キナコははっきり言ったんだ、『私は清子の生まれ変りなの』と・・・」
ボクは舌を口から出し、乾いた唇を舐めた。
森田さんはボクの目をのぞきこんでから、言った。
「三輪君は笑ったりしないでくれるね。うれしいよ」
「そ・・、そ・・、それから、キナコはなんて言ったんですか?」
「うん。最初の夜はそれで終わりだったんだ。体の震えが治まった後、オレはキナコに話しかけてみた、『キナコ、お前、さっき日本語しゃべったよな? オレの聞き間違えじゃないよな? 幻聴じゃないよな?』って」
「キナコはなんて答えたんですか?」
 森田さんは両手の手のひらを天井に向けて、肩をすくませた。
「ミャーン。それの繰り返しだったんだ」
「そうですか?」
「そして、それから翌日の夜、再びキナコがしゃべり始めたんだ」
 喉が「ゴクッ」と鳴った。左足の貧乏ゆすりが始まった。ボクは左手で膝を押さえたけど、震えを止めることはできなかった。
 森田さんがつぶやいた。
「キナコは言ったんだ、『モリオさん。落ち着いて聞いてね。こないだ言った通り、私は清子の生まれ変りなの。現世では猫だけど、前世では人間の女だったのよ。あなたの妻だった清子なの』って」
「ほ・・・、本当ですか?」
 森田さんは頭を上下に振った。
「ああ、もちろん。だけど、オレもその時、こんなふうに尋ねたんだ、『キナコ、質問していいかい? オレがしゃべったことを理解できるかい? もし理解できるなら、答えてくれ。お前が清子の生まれ変りだっていう証拠を見せてほしい』と・・・」
 ボクは息を飲んで、黙っていた。
 森田さんが再びしゃべり始めた。
「キナコはうつむいてから、顔を上げて、言ったんだ、『あなた。残念だわ。私の言うこと、信じてくれないのね。ペットショップに現れた私を飼いたいと息子に頼んでくれたから、私、あなたは私のことがわかってくれたんだと思ったのに』と・・・」
「キナコがそう言ったんですか?」
 森田さんはうなずいた。
「うん。そしてキナコはこうも言ったんだ、『信じてほしい。私は清子だったの。私が清子の生まれ変りだっていう証拠になるかどうかわからないけれど、言うわ。私はしっかり憶えている、私達の息子の名前はモモタロウ。そして、モモタロウの誕生日は十二月二十三日だわ』って・・・そんなふうに、キナコが言ったんだ」
 森田さんはそう言うと、口を静かにつぐんだ。
 ボクは口をポカンと開いたまま、森田さんを見つめた。
「キナコの言った、息子さんの名前と誕生日は正解なんですか?」
 森田さんが目を閉じ、ゆっくりと大きくうなずいてから、言った。
「もちろん。それで、オレはキナコの頭をなでながら言ったんだ、『ごめん。清子』って。そして次の日からずっと夜になると、オレとキナコはしゃべり続けてきたんだ」
「そうなんですか」
「オレはキナコに質問したんだ、『清子。なぜ、君は猫として生まれ変わって、オレの前に再び現れたんだい?』って・・・」
 ボクは身を乗り出して、森田さんの口元を見つめた。
 森田さんは右手で後頭部をボリボリと掻いた。
「清子はこんなふうに言った、『私は老人ホームでのあなたの様子を観察したわ。私はびっくりした。あんなにやさしかったあなたが、すっかり変わってしまっていた。あなたは老人ホームに入居されている方や介護職員の肩に対して、ひどい態度を取っていると思わない?』って」
 ボクは右手で喉を押さえ、左手で額の汗をぬぐった。
「清子さんがそんな風に言われたんですか」
 森田さんが右の口角を上げて、小さくうなずいた。
「ああ、そう言われたよ。清子は続けて言ったんだ、『あなたが取っている今の態度を改めてほしい』と」
「ええっ!」
 口から叫び声が勝手に飛び出してきた。
 森田さんは左手でキナコの背中をやさしくなでた。
「清子はオレに言ったんだ、『お願いよ。明日から、態度を入れ替えてほしいの。あなたは自分のことは自分でできるでしょう? だから、自分のことは自分でやるのよ。そして、さらにやってほしいことがある。できたら、職員の人にこう言ってあげて、自分にかまう暇があるんなら、その時間を他の困っている入居者に使って、その人の面倒を看てあげてほしい、と・・・』」
 ボクは一歩前に乗り出した。
「キナコが本当にそう言ったんですか?」
「三輪君。オレの言うこと、信じてくれるかい?」
 ボクは口を開けたまま、固まってしまった。口から言葉が出て来なかった。
 ボクは一旦、口を閉じて、考えた、「猫が人間の言葉をしゃべったりするだろうか? 森田さんの奥さんが亡くなって、そして、猫として生まれ変わることなんて、あるんだろうか? そんなこと、あるわけない。やはり、森田さんは認知症が進んできているんだろう。だから、あるはずもないことを信じ込んで、ボクにしゃべっているんだろう。でも、認知症が進んでいる人が言っていることを否定しても仕方がない。それに、今、森田さんは毎晩、幻聴を聞いているせいで、とても落ち着いている。森田さんにとっても、他の入居者にとっても、今の状況はとてもいいのだから、このまま森田さんのあるがままの状態を受け入れていこう」と・・・。
 森田さんは泣き出しそうな顔をしながら、ボクを見た。
「やっぱり三輪君もオレの言うことを信じてくれないんだね。どうせオレのこと、『認知症が進んできてるんだ』としか思っていないんだろうね」
 胸がドキンと鳴った。しかし、ボクは頭を横に振った。
「奥様は生まれ変わっても森田さんのことを心の底から心配されているんですね。お優しい方ですね。森田さん。奥様のためにもご自分のためにも、今後も頑張っていきましょうよ」
 森田さんが目を細めて、口角を上げて白い歯を見せた。
「ありがとう、三輪君。信じてくれてうれしいよ」
 ボクは腕時計を見て、言った。
「それじゃあ、森田さん。ボクは他の仕事があるので、失礼させていただきます。」
 森田さんは頭をペコリと下げた。
「ああ、三輪君。忙しいのに、長い間、話しを聞いてくれて、ありがとう。うれしかったよ」
「それじゃあ、森田さん。また、明日」
 ボクは下げた頭を上げて、森田さんの顔を見た。森田さんは微笑んだまま、だまってままだ。
 ボクは再び、言った
「それじゃあ、また明日」
 森田さんは右眼を細めた。目がうるんでいるようで、キラリと光った。
「オレのこと、忘れないでよ」
 ビクンと右の頬が痙攣した。ボクは言った。
「なぜ、そんなこと・・・」
 森田さんはジッとボクの目を見つめた。
「おかしなこと、言うだろう? でも、キナコが言うんだよ、『あなた。残念だけど、あなたに残された時間はわずかしかないのよ』
って」
「それって!」
「そう。オレがもうじき死ぬっていうことなんだ。オレはキナコに聞いたよ、『オレはあとどれくらい生きられるんだい?』って」
 ボクは口を開けたけど、言葉が出て来なかった。
 森田さんは目を閉じ、頭を横に振った。
「キナコは言ったんだ、『それはわからない。でも、もう少しなの。だから、私はあなたにお願いしたい。今日が人生の最後の日だと思って、一日一日を大切に生きてほしい。そして、今日、出会えた人を思いやってあげて』って」
 そう言うと、森田さんは壁の時計を見た。
「そろそろ、他の入居者さんの部屋を見て回らないといけないだろう?」
「は・・・はい・・・」
「それじゃあ、キナコ。おやすみなさいの挨拶をしようね」
そう言うと、森田さんは右手でキナコの右腕を持ち上げボクに向けた。そして、キナコの腕を左右に振りながら、言った。
「ありがとう。おやすみなさい」
 キナコが鳴いた。
「ニャーン」
「今日はありがとうございました。おやすみなさい」
 ボクは頭を下げ、居室のドアを閉め、森田さんの部屋から出た。
 しかし、ボクは歩き出せなかった。誰もいない廊下で呆然と立ち尽くしていた。

第4章 奇跡の朝


次の日、8月5日の朝。
朝食の時間になっても森田さんが居室から食堂へ降りて来ない。ボクは森田さんの部屋に行った。そして、ドアを「コンコンコン」と叩いてから、ドアを開けた。
「失礼します。森田さん。おはようございます」
 森田さんがかぶっている布団が「ゴソゴソッ」と動いた。そして、キナコが布団から頭を出した。
「ニャーン、ニャーン」
 ボクは布団が動いたので、勝手に思い込んでしまった、「ああ、森田さん、目が覚めているんだ。それでも布団から出て来ないということは、まだ眠たいということなのだな」と。それで、ボクは言った。
「森田さん。それじゃあ、あと三十分したら、もう一度、起こしに来ますよ。その時は、起きて下さい」
 その時、布団から顔を出していたキナコが鳴いた。
「ニャーン、ニャーン、ニャーン」
 その時、胸の中がモヤモヤしたイヤな気分になった。ボクの口から大声が勝手に飛び出した。
「森田さん! 森田さん! 起きて下さい!」
しかし、返答はない。森田さんはピクリとも動かない。
心臓が「ブルブルッ」とけたたましく震えた。森田さんのベッドに走り寄った。そして、布団を剥いだ。そして、森田さんの胸と腹部を見た。しかし、全く上がりも下がりもしない。ボクは自分の耳を森田さんの口元に寄せて、呼吸音を聞こうとした。しかし、森田さんは呼吸をしていなかった。
次の瞬間、ボクはナースコールのボタンを押した。そして、大声で叫んだ。
「緊急事態です。森田さんが呼吸していません。意識不明です。誰か、すぐ来て下さい」
 そう言って、ナースコールを切った。
 その時、猫の鳴き声が聞こえた。
「ミャーン」
 ボクは振り返って、キナコを見た。キナコは森田さんの傍らに座っていた。窓から朝日が差し込み、眩しい光線が差し、キナコはキラキラと輝いていた。
キナコは森田さんに寄り添ったまま、顔を上げた。そして、ボクの方を向いて、口を開いて、パクパクと動かした。
 同時に女の人の声が聞こえた。
「ありがとうね、三輪さん」
そして、キナコは頭を下げた。
体に稲妻が走った。それからしばらく体全体がビクビクと震え続けた。
 次の瞬間、キナコは目を閉じ、パタンと横向きに倒れ、森田さんの胸に覆いかぶさった。
 ボクはキナコに近づいた。
「キナコ? 今、お前、確かにしゃべったよな?」
 キナコは動かない。キナコは目を閉じ、頭を森田さんの頭に摺り寄せたままだった。ボクはキナコのお腹を見た。お腹は全く動いていなかった。
 それからしばらくして、事務所からホーム長や職員や看護師が部屋に入ってきた。そして、森田さんに近づき、心肺拍動停止や呼吸停止、脳機能の停止などの検査を行い始めた。
 ボクはホーム長に向かって、言った。
「キナコがさっき・・・」
 その瞬間、ホーム長が大声でしゃべり始めた。
「森田さん、最近、生まれ変わったように明るく親切になったのになあ。それなのに、急にこんなことになるとはなあ」
 ボクは、開いていた口を閉じた。
職員や看護士が森田さんを移動式ベッドに乗せた。キナコはベッドに横になったままだった。
森田さんを乗せたベッドが居室から運び出されていく。ボクは叫んでいた。
「待って下さい。キナコも一緒に連れて行って下さい。森田さんがボクに言い残していったんです、『お願いがあるんだ。キナコをオレの墓に入れてくれ』って」
 ホーム長がボクをジッと見た。そして、看護士に向かって言った。
「そうか。それなら、キナコも一緒に連れて行ってやってくれ」
 ボクはキナコを抱き上げ、森田さんの横にやさしく寝かせてあげた。
 ホーム長はボクの方に向き直って、言った。
「三輪くん。森田さんの息子さんが来た時にキナコのことをきちんと話すよ。きっと息子さんはキナコを手厚く葬ってくれると思うよ。だって、森田さんはキナコを心の底から可愛がっていたからなあ」
「そうですね。森田さんにとってキナコは家族の一員だったと思います」
 ホーム長はボクの目を見据えてから、森田さんに視線を移した。
「ほら、森田さんの顔を見てごらん。なんて安らかな顔をされているんだろう」
 ボクは森田さんを見た。森田さんはニコッとほほ笑んで、幸せそうだった。
 それから、看護士が森田さんを乗せたベッドを動かし始めた。
ボクは両手の手のひらを合わせ、頭を静かに下げた。
看護士さんたちが森田さんとキナコを乗せたベッドを居室から廊下へ静かに運び出した。
ホーム長は居室から出て行かずに、ドアを閉めた。そして、ボクの方を向いた。
「三輪君。森田さんが亡くなってしまったけど・・・」
 涙がこぼれそうになるのを必死でこらえた。
「人の一生って、あっけないものだと思いました。昨日まであんなに元気だったのに。人間の命って、ロウソクの炎のようにはかないんですね。フッと簡単に消えてしまうものなんですね」
「そうだね」
「だから、ボクは『今日が人生最後の日』だと考えて、生きていきたいと思いました」
「今日が人生最後の日? それは、一体?」
 ボクは息を吸い込んでから言った。
「いずれ自分は死ぬということを忘れないでいたら、自分にとって本当に大切なものに気づき、毎日を充実させることができるのだと思います」
「それは、森田さんと関係のあることなの?」
「はい。森田さんは『もうすぐ自分が死ぬ』ということがわかっていたんです。昨日の夜、ボクが森田さんと話をした時、森田さんは言ったんです、『オレのこと、忘れないでよ』って」
「そうなのか。そんなこと、言ったのか」
「はい」
「君は森田さんの担当が辛くて、仕事を辞めたいって言っていたけど、今はどうなんだ?」
「自分は介護職には不向きかもしれないと思っていましたが、今は思っています、『入居者の方と対話を重ねていきたい。たとえあまり役に立てなくても、その場から逃げずに、入居者の方と共に楽しみも苦しみも味わうことで、入居者の方のお手伝いができるんじゃないか』と・・・」
「そうか」
 ボクは息を長く吐いた。
「キナコのことなんですが・・・」
「キナコのこと?」
 ボクは息を飲んで、目を閉じて、考えた、「『キナコが人間の言葉をしゃべりました』とホーム長に言ったら、ホーム長は何て言うだろう? 信じてくれるだろうか?」と。
 ボクは目を開いて、言った。
「ボクは思いました。人生の最後の日が近づくと、『大切なもの』が現れてくるんだと」
「はい。森田さんにとってはキナコが『大切なもの』だったんです。キナコは森田さんにとっては『家族』だったんです。森田さんにとって、キナコは『猫』ではなかったんです」
ホーム長が怪訝な顔をして言った。
「キナコが猫ではなかった?」
「はい。森田さんにとってキナコは『猫以上』のものだったんです。森田さんにとっては、キナコは奥様の生まれ変りだったんです」
「そうか。森田さん、随分、認知症が進んでいたようだな。キナコのことをそんなふうに思い込んでいたから、森田さん、生まれ変わったように穏やかになれたんだろうな」
「いえ。そうではなくって・・・」
 そう言って、ボクは口をつぐんだ。ボクは思った、「今から、ボクが『キナコが人間の言葉をしゃべったのを聞いたんです。キナコは奥様の生まれ変りだったんです』と言ったら、ホーム長は信じてくれるだろうか」と。
 ボクは舌で唇を舐めてから言った。
「でも、森田さんは本当に幸せだったと思います。自分の奥さんの生まれ変りだと思っていた猫に看取られて死を迎えることができたんですから」
 ホーム長が目を細めて、うなずいた。
「そうかもしれないな。森田さん、愛する人に看取られて死を安らかに迎えられて、ある意味、うらやましいよな」
「そうですね。私もそう思います」
 ホーム長が目を細めて、「チラリ」とボクを見た。
「それで、これからどうするつもりだい? 介護の仕事を続けていくのか?」
 ボクはニッコリ微笑んで、頭を上下に振った。
「もちろんです。こちらでいろいろ勉強させていただいて、経験を積んでスキルアップしていきたいです。よろしくお願いします」
 ボクはホーム長に頭を下げた。
「こちらこそよろしく。一緒に頑張ろう」
 そう言うと、ホーム長はボクの肩をポンポンと叩き、居室から出て行った。
ボクは一人、居室に残り、窓から外を見た。朝日が差し込んできて、キラキラと輝いていた。
ボクはキナコの声について考えていた、「
猫が人間の言葉をしゃべるなんてこと、あるはずない。そんなこと、ありえない。しかし、それなら、さっきのキナコの発した声は一体、何だったんだろう? あれは、単なる空耳だったのか? あるいは、ボクは幻聴を聞いたのだろうか? でも、ボクは確かに聞いた、女の人の声を・・・。ボクは確かに森田さんの奥さんの声を聞いたんだ」と。
さらに、ボクは思った、「奥さんが死んでも、森田さんの中で奥さんはずっと生き続けていたんだ」と・・・。
 ボクは誰もいない居室で一人、静かに目を閉じた。

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 ・・・・・・・・・・
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三年後。
時の経つのは本当に速いもので、森田さんとキナコが亡くなってから、「アッ」と言う間に三年が過ぎた。
あれから一年後、「M町ケアパーク南風」は、収益が悪すぎるという理由と近所にホームがたくさんあるという理由から、大手の事業者から合併・買収されてしまった。
ボクは結局、その大手の事業者の職員として採用された。そして、川崎市の老人ホームに移動して、二年が過ぎた。
自分で言うのもおかしい気がするけれど、今、僕は思っている、「辞めたいなんて思っていたのが嘘のようだ」と。
ボクは毎日、高齢者の方と接しながら、感じている、「すべての人が老いていく過程で病を得たり、死を目前にして苦しんだりする。でも、他者と助け合い、苦しい過程を乗り越えて、人は自分の人生を成熟させていくんだ」と。
そして、ボクは思っている、「出会いを大切にして、今日を精一杯生きよう」と。




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