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「田舎は野菜がタダでもらえる」なんて考えてはいけない

いわゆる「地方」に移住して7年になる。
もう、ずっと昔からここに住んでいるかのような感覚になるくらいの人間関係ができてきた。
皆さんと日々やりとりをしている中で、都会の人が田舎を評してよく口にする言葉に違和感を持つようになってきた。

「田舎では野菜がタダでもらえる」という幻想

「田舎では野菜がタダでもらえる」とよく言われる。
”旧き良き日本”。
”人のいい素朴な農家”。
「田舎っていいよね」。都会人はよくそんなことを思う。
僕自身がそうだったので気持ちはよくわかる。

確かに、地方では農家が多いし、退職後に趣味で農作物を育てている一般の人もたくさんいる。
そういう生産者を家族、友人、知人に持っていると、野菜をいただく機会は実際に多い。「収穫のアルバイトに行ってきたから」とご近所のおじさんから、商品にならない規格外のサクランボやネギを持ち帰って、おすそ分けしてくれることもある。

「田舎は野菜がタダでもらえてラッキー!」

いや、そんなことはない。
これらはすべて、「いただきもの」である。
僕はいただきものを「タダ」だと思ったことはない。

「いただきもの」に備えてお礼を買い置き

人から何か物をもらえば、恩を感じる。恩は、「負債」と言い換えられる。負債と言うと聞こえは悪いが、実際、もらいっぱなしは自分の中で気持ち悪さを覚える。
だから、受けた恩はきちんと色をつけてお返しをする。

時には自宅用に買っておいたお菓子やら食材やらをあげてしまうことだってある。なんだったら、いただきものがいつあってもいいように、人にあげて恥ずかしくない商品を買い置きしておくことだってある。
いただきものに備えて、あらかじめお金を払っているわけだ。
そんなことをしていると、スーパーで野菜を買うよりも、かえって高くつくことすらある。

もちろん、誰も見返りなんて期待していない。
いただきものへのお礼で、うちから何か品物を持っていくと、
「(そんな気を遣わせてしまって)かえって気の毒なことをしてしまった」などと申し訳なさそうにされる。

相手がかなり年かさの人だと、
「私たちだって、若い時にさんざん人から世話になったんだから。あんたたちも近所の子たちが大人になったら同じことすればいいんだよ」
なんて言ってくれる。

都会生活にはないコミュニケーションツール

「いただきもの」の押し付け合いは、人づきあいそのものである。
人づきあいに割くエネルギーは、けっして小さくはない。どんな些末な「いただきもの」でも、負債感を抱えて暮らすのは、それなりに精神的な負荷がかかる。

都会的な生活にはこれがない。
あらゆる商品・サービスにお金が介在する。商品・サービスの対価としてお金を払っている(あるいは、あらかじめ「税金」として徴収されている)ので、恩を感じる必要もない。
お金と商品のやりとりは交換であって、コミュニケーションではない。
だから、都会的生活では、コミュニケーションの一貫として物のやりとりがなされることは少ない。

そんな都会的な感覚からすると、「田舎は野菜をタダでもらえていいな」と見えるのかもしれない。
それは、野菜を金銭で買うべき「商品」として見ているからに過ぎない。
田舎において、野菜は「商品」以外の機能がある。
野菜は、コミュニケーションツールの一つである。
野菜のやりとりを通じて、人間関係を維持している。

野菜をもらうためには労力が要る

コミュニケーションは、物が行ったり来たりするからこそ成り立つ。
もし、野菜を「タダ」だと感じ、恩をもらいっぱなしで次へつなげないでいると、その人はだんだんと周りから相手にされなくなる。

「田舎の人は、最初はやさしいけど、だんだん態度が変わる」
そんな移住者の捨てゼリフをよく目にするが、ここには都会人の田舎に対する幻想と、田舎ならではの経済感覚に対する無理解が少なからず起因しているように思う。

田舎でもらえる野菜はタダではない。
人間関係を維持するために、それなりの金銭と労力が使われているのだ。

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