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「鉛を抱き、我はゆく②」

「てんめぇ!っっざけんなよ、馬鹿にしてんのかぁぁ!!」

その夏私は仕事の資格のために、大学の講習に週6日間通っていた。
その日は講習も大詰め、いよいよ明日は前もって難しいと釘を刺されていた単元の試験日であり最終日、という正念場だった。

翌日の試験の準備と緊張で、イライラしていた私は、ちょっとした会話のボタンのかけ違いから棘のある言い方をしてしまい、夫の激昂スイッチを押してしまった。
一度スイッチが入ると、際限なく怒鳴りまくる夫のことだ。
明日のことを考え、なんとか軌道修正しようとした私は、

「分かった、分かったよ。悪かったから、謝るから、ごめんなさい。
お願い、明日ね、大事なテストがあるの。一番採点が厳しいって言われてる先生で、これを落としただけで、単位がもらえない。お願いだから、勉強させて!
お願いです。」

そう言って玄関近くの子供部屋に逃げ込もうとするが、夫は鬼の形相で追いかけてくる。子供達は慣れたもので、不穏な空気を察知し、リビングですでに息を潜めている。

もうだめた、失敗した、あとどのくらい続くだろうか。ちらっと時計を見る。
勉強しなければいけないのに、頭が混乱し始めている。
こうなると、嫌なことから逃げたいためか、頭に霞がかかったように思考が鈍る。これでは本当に単位を落としてしまう。一夏の苦労が水の泡になってしまう。
ひとつでも単位を落とせば、資格はもらえない。

ダメもとで閉めたドアを勢いよく開け、夫が怒鳴り込んでくる。

「なぁにが勉強させて、だよぉぉ!!誰がやめてやるかよぉぉ、ええ?
てめぇが怒らせたんだろうがよぉぉ!!!謝れよぉ!!」

耳をつんざく怒号。この夏をなんとかこなしてきたのに、なんで今日に限って…

「……ごめんなさい。」

逆らうと長くなるので力なく言う。できるだけしおらしく振る舞った。

「それが謝るやつの態度かよぉぉ!もっとちゃんっと謝れ!」

「ごめんなさいっ。 」

45度に腰を曲げ、迫真の演技で謝罪する。

「ちゃんとだっつってんだろうがよぉぉ!!心がこもってないだろうがよぉぉ!!」

「ごめんなさいっ」「すいません」「すみませんでした」

立って90度のお辞儀をしながら何度も謝る。
この時間を終わらせたくてしている謝罪だから、気持ちが付いていかず、屈辱と虚しさが込み上げる。

「すみませんでした。すみませんでした。」

バッカみたい。
私いい歳こいて何やってんだろ。
子供達にも、親のこんな醜い姿を見せて、機能不全家族もいいとこだ。

「全くなってない!!もっとちゃんと謝れ!土下座して謝れ!!」

私は即座に土下座をして、

「すみませんでした、ごめんなさい、申し訳ありません。」

と繰り返す。

「てめー、言葉だけで謝る気持ちとかないだろぉぉ!!なめてんのかぁぁ!!」


しつこすぎて、とうとう私は耳をふさぐが、すぐ側で、唾が飛んでくる至近距離で大声を上げるので、全く効力がない。

私はフローリングの冷たい床に倒れ込んで、耳をふさいだままで、あーあーあー、と繰り返す。
こうすれば声があまり聞こえない。
子供の頃、これで周囲の音が聞こえなくなることが不思議で、一人でよくやっていた。
今になって、それをこんなふうに使うことになるとは。


怒鳴り声は続いている。人格否定のフェーズに入ったようだ。
はっきり聞きたくない。


あーあーあー、あーあーあー


真夏の熱帯夜のせいか、緊迫のせいなのか、鼻の下と首と脇からじっとりと嫌な汗が湧き出てくる。

夫は懲りずに何かを叫び続けている。
音が聞こえないため、夫の血管が切れそうな怒り顔が口パクしているみたいで実に滑稽だ。
酒が入っているから、顔色が赤黒い。


もう無理、こいつ許す気なんかない、私が単位落とそうと知ったこっちゃないんだ。気がすむまで怒鳴る気だ。
このままでは今日が終わってしまう、勉強しなきゃ本当にヤバい。
いや、むしろ心を落ち着かせてもう寝なきゃヤバい。

土下座しても解放する気のない夫に、私は強行突破を試みた。

隙をうかがい、目だけで位置を確認していた自分のリュックを掴み取り、パジャマのまま、一瞬で外に飛び出す。

夫は内弁慶で密室でしか怒鳴らないから、外に出れば追いかけてこない。


着たおして糸がほつれだるんだるんのパジャマにサンダル、素顔でパンツも履いていない風呂上がりの壮年の私は、そのまま自転車で駅へと向かった。
その姿で電車に乗る。さすがに誰にも見られたくなくて下を向く。
見知らぬ土地に逃げてきた犯罪者のように、身の置き所がない。

4駅先で降り、母と妹がすむマンションのインターホンを押した。

「明日大事なテストなのに、もめちゃって…ハハ…ごめん、泊めてくれる?
朝になれば大学へ行くだけだから。ほんと、ごめん。」

夜更けの不意打ちに母は、またなの、と舌打ちせんばかりの表情を浮かべつつも、家に入れてくれた。
妹も起きていたが、しょうもな、と言わんばかりにこちらを一瞥し、すぐ自室に姿を消した。

情けないが、明日の試験のためには、蔑まれてもここにいる方がマシだろう。
夫は私がいなければおとなしくなるから、子供達は大丈夫だ。
夫のターゲットは、いつだって私ひとりだから。私だけが孤立して、惨めな思いをすることが目的なのだ。

まずは頭を冷やさなければ。
怒鳴り声と土下座によって壊された自尊心を、少しでも回復させて明日に備えなければ。
忘れなければ。
別に殴られたわけじゃないんだし。平常心。平常心。

母が私のために用意してくれた布団に潜り込み、なんとか心を落ち着かせようと、
我を取り戻そうと試みる。

平常心、平常心。
きっとこんなの、大したことじゃない。もっと酷い目にあってる人が世の中にはいるし、私は現に講習にだって通えてるんだから。それもあと1日で終わる。

平常心。平常心。

自分ちにいる化け物ドナリーから逃げてきたところで、実家でも結局はこうして軽蔑され、呆れられる私。

もう実家に頼るのは金輪際やめよう。どうせどこに行ったって歓迎されないし、誰かに頼っても、最後は虚しくなるだけだ。
いい歳して親に心労を負わせるのも、いい加減いやだ。

講習に通う毎日は、確かに希望に満ちていて、前向きだったはずなのに。
何かが変わると思ったのに。
虚しい。消えてしまいたい。

私には自分を肯定できる場所が、いつの間にかどこにもなくなっている。

翌朝私は、母に服を借りて最終日の試験に臨んだ。
テストはよくできたけど、最終日ということで試験終了後に講習生全員で撮った集合写真には、やけにおばあちゃんチックなサマーセーターを着て、ぎこちなく微笑む私が写っている。

ひと夏を共に乗り越えた学友のグループラインに、奇しくもその集合写真がシェアされた。

一月して、無事修了証が届いた。

「おめでとう。頑張ったね。」

あの最終日の挙動をすっかり忘れたみたいに、夫は私のためにコーヒーを淹れてくれる。

「うん、ありがとう。仕事も頑張るね。」

夫の淹れるコーヒーは美味しい。だけど。
激昂と相反する、その不気味な優しさと奉仕とが、鉛を飲んでいるような気持ちを連れてくる。

修了証が届く前に、資格取得予定として職場を決めていたが、資格と仕事を手にしても、思っていたほど、それらが私に自己肯定をもたらすことはなかった。


それから数年後、私は夫を精神的に捨てた。
実家にも、以来一度も行っていない。

去年、資格の補完のために再び講習に通った。
丸2ヶ月半、週6日授業のハードな夏だった。
私が家にいると自室から出てこなくなった夫と、その間接することは一度もなかった。
皮肉にも前回よりは、確実に勉強に集中できた。


でも、この家の閉ざされた北側の部屋を見ると、家族への罪悪感から、今でも3日に一度は死にたくなる。

私はいつか絶対この家から一人で出て行く。
そのことだけが、私が夫にしてあげられる、最後の愛情だと思う。

新たに手にした修了証と、ここ数年の仕事のキャリアは、今度はほんの少しだけ、自分の心に火を灯した。


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