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<東京風俗帖> 木村荘八 ちくま学芸文庫(2003) その1.

はじめに

 私が「線スケッチ」をするジャンルの一つに「街歩きスケッチ」があります。街をぶらぶら歩きながら、興味を引いたもの、関心のあるもの、驚いたものなど、美しいと思ったものなどをスケッチをしたいと思ったら、スナップ写真を撮るように描いています。

 どのような観点で街の景観を私が描いているのかについては、<はじめての手帳スケッチ>シリーズの下記の記事の中で詳述しましたので、時間の余裕がある方はお読みください。

 さて、もともと北陸、関西、中部地域で育った私が高校生の時に初めて訪れた昭和30年代の東京の街は、なんという薄っぺらなトタン屋根とスレート瓦の家ばかりなのだろう(東京育ちの方には大変失礼な表現で申し訳ありません。今の東京ではありません。まだ戦争直後の建物が残っている時代です)と思ったのがそもそもの発端です。
 昭和50年代に関東に移り住んで以後、東京の街歩きを楽しみ、その後線スケッチを始めて東京の街並みの変遷を深く考えるようになりました。特に瓦屋根の変遷です。

 その後幕末の江戸、震災前の明治の東京の古写真、小江戸と称される川越の巨大な鬼瓦が乗った瓦屋根の土蔵造りの商家群をこの目で見て、関東大震災、第2次大戦の大空襲、高度成長期の大開発を経てほとんど関東大震災以前の東京の街並みは消えてしまったことを実感しました。

 現在では、東京の下町をスケッチしながら、その場所には川越のような商家群があったのに今はその景観を見ることはできないという感慨を抱きます。

 今回は、私の東京の瓦屋根に関する仮説(後述)について、明治に生まれ昭和30年代まで生きた著者が、当時の瓦屋根の商家について、同じ時代を生きた人として貴重な記述がありましたので取り上げることにしました。

 なお、余談ですが幕末の写真は解像度が悪く、当時の景観を現場にいるようには感じることが出来ません。むしろ、外国人画家が描いた絵の方が、その写実性のために、ありありと当時の光景を目にすることが出来ます。

 参考までに、ロシア人画家が描いた日本橋近く、江戸のメインストリート通町筋の街並みを下に示します。(2010年撮影、八重洲地下街で見かけた絵です(原画は東京国立博物館所蔵とのこと)。川越で見られるような商家が描かれています。

幕末の江戸、通町筋の街並みの油彩画

 江戸の商家の瓦屋根について、もう一つ付け加えることがあります。実は、正確な場所を忘れましたが、仙台でみた江戸期の巨大な瓦屋根を持つ土蔵造りの町屋や、川越の巨大な鬼瓦を冠し、鬼瓦と鬼瓦との間を埋める何層も分厚く重ねられた瓦の造形からは、正直な感想として優美さは感じられず、よく言えば重厚、悪く言えば武骨で脅かすような雰囲気が迫ってくる感じです。

 実をいうと、4,5年前に関西に3年ほど住んで街歩きスケッチをしたときに、ついつい昔の家の瓦屋根を見てしまいました。東京と無意識に比較しているのです。京都の町屋は勿論、奈良の今井町など江戸期の商家が残っている寺内町の古い家を見ても、これほど大きな鬼瓦や威圧的な雰囲気を受ける瓦屋根は無いように思いました。

 はたして、私のこの見方は正しいのかどうか、少なくとも私は、今までこの点を論じた文章を見たことがありませんでした。

 今回は、その観点も入れて本書を紹介します。

著者「木村荘八」について

画家、挿絵画家として

 木村荘園八については、線スケッチに出会うまでは、日本の絵画史、文芸史上の人物として、名前しか覚えていませんでした。

 ところが、十数年前、「線スケッチ」の新宿永沢クラスに入ってから、先生より参考となる画家として、都会を生き生きとした線で描く素描を紹介されました。 
 中でも永井荷風の「墨東奇譚」の挿絵の魅力に惹かれるようになりました。

 実際、その挿絵は永井荷風の本文よりも喝采を博したとの記事をどこかで読んだ記憶があります。実物を見ると、その闊達な線による情景描写は素晴らしいものがあります。

 最近では生誕120年展が2013年に東京ステーションギャラリーで行われましたが、残念ながら行くことが出来ませんでした。もう一度大規模展で実物を見たいものです。

 なお、「墨東奇譚」の挿絵は、「文化遺産オンライン」で見ることが出来ます。例として、下記挿絵15の闊達な線をご覧ください。

文筆家として

 一方、文筆家としても、この著書や「東京繁昌記」など、特に江戸、震災前の東京、震災後から東京大空襲、戦後の高度成長による景観、風俗の変遷を独特の語り口で記した著書が有名です。

 私がこの著者を素晴らしいと思うのは、滅びること、変化することをいたずらに嘆かず、きちんと受け入れて昔を美化することなく、街並みの変化、人々の暮らし、風俗の変化を、観察と記憶、実感にもとづいて独特の文体で書いていくことです。(ある場合には、過去から現在の流れを書いた後未来までも予測しています)

 おそらく、素描家としての目がそうさせているのではないでしょうか。

東京の瓦屋根に関する10年前の私の仮説

 さて、ようやく本題です。

 「なぜ、東京の家並みの屋根は、うすっぺらなスレートやトタンばかりなのか?」

 どなたでも思いつく内容と思いますが、一応11年前に以下のような説明をしました。

仮説:江戸期の瓦屋根は、明治の近代建築の建築にも拘わらず、関東大
震災まで瓦屋根の街並みが続いていたが、大震災により壊滅する。震災
後、大正から昭和初期にかけて、耐震性を考慮してコンクリート建築が増
加、昭和初期の東京の街並みが作られるが、太平洋戦争の空襲により壊
滅する。
戦後の復興の過程で、東京では即効性の、トタン屋根、スレート製の瓦が
応急的に用いられる。(この頃に、東京の屋根のイメージができる)
昭和30年代になり、高度経済成長の波に乗り、大量生産、安くて軽く、規格
が維持できる新建材による瓦が開発され、普及していく。さらに東京オリン
ピック開催のため、この傾向はさらに強くなり、新型瓦が主流になり、現在
まで続く。東京では、もはや昔ながらの瓦が用いられることはなかった。

以上が、東京で本格的な和様の瓦屋根が少ない理由の仮説ですが、関東
大震災、空襲に加えて、戦後の資本主義経済原理による安価で軽い瓦の規格品の大量生産が、追い打ちをかけたと思われます。特に、高度成長の
信奉が、古いものを捨て去り、新しいものに建て替える度合いが、東京が
大きかったと思われます。
(一方、東京以外では、小江戸と呼ばれる川越の商家や、千葉県の田舎の
立派な瓦屋根の家々が思い出され、瓦屋根に関する限り、東京はかなり特
別な状況なのではないでしょうか)

2013-08-27
ブログ「線スケッチの魅力」より

 次回の記事、その2.では、本書の中から、以上の仮説や、著者の考える東京の商家の瓦屋根家屋について紹介します。


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