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【晒す日記「SNS」-- 解説『日記をつける』『にょっ記』を読んで】

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【解説】

 いわゆる「日記のつけ方」と「日記の実例」の組み合わせで書かせていただきました。

 さて、日記といえば「秘密のノートに書く」のがセオリーですが、現代でノートに書く人はどれぐらいいるのでしょうか。だいたいの人はブログ・Twitter・Instagram・note・FacebookなどSNSに書くと思います。ノート代かからないですし、文具店の営業時間も気にしなくていいですし。

 ですが、荒川氏は『日記をつける』内でブログに対して懐疑的な見解を述べています。

 例えば谷崎潤一郎の名作『鍵』は、ある夫婦が互いの日記を読むように仕向けて、互いの内面に刺激されて、出会った頃のようなときめきを取り戻す話です。つまり他人の日記を読むことは、それほど神聖な行為だと言います(関係ない話ですが、中公文庫の『鍵』紹介文には「妻の肉体に死をすら打ち込む男と、死に至るまで誘惑することを貞節と考える妻。性の悦楽と恐怖を限界点まで追及した問題の長編」と書いてある)。

 ただ、この神聖な行為も裏を返せば相手のデリケートな部分に触れる行為、つまり相手のタブーに触れる行為でもあります。タブーを安易に触れたせいで、人は数々の大きな争いを生んできました。遡れば旧約聖書『創世記』のアダムとイブだって、ヘビにそそのかされて知恵の果実を食べたせいで神様から楽園追放されました(おかげで人類は文明を持てましたが)。

 荒川氏曰く、情報発信というのは本来はそれほど多くあるものでもなかったと言います。

 良い例が新聞。今は夕刊もありますが、元々新聞は朝刊だけでした。もう考えられないでしょうが、国民ほとんどが全国24時間のニュースを知れるのは、この朝の一回だけです。今に比べると何とも情報の少ない時代です。そのかわり会社員も主婦も学生も朝刊一部分さえ読めば十分社会を渡り歩けましたし、朝刊一部に込められる情報量と精密性は現代では考えられないほどでした。

 報道記者が現場の最前線で取材し、編集部が集合した記事から一面など構成を考え、校閲部が誤字脱字・事実確認し、印刷所に納品して淀みなく大量に発行し、早朝の配達で各家庭に届きます。この一連の作業を24時間、しかも安定して毎日です。それは新聞に関わるプロフェッショナル集団が成せる巧みの技です。

 では、SNSが発達した現代はどうでしょう。

 SNSでは何より速度に重きを置かれます。俗にいう「バズる」の世界ですね。カップ麺もですが即席料理というのは目先の味付けだけで、どうも栄養面などが足りません。カップ麺ばかり大量に食べ続けると体調崩すように、即席の情報ばかり大量に取り続けると脳が処理しきれなくて思考面で体調崩します。

 最初に新書版で2002年に発行された本書で、荒川氏は「ブログ」という日記の新媒体(当時)を通して、一種の予見のような警鐘を鳴らしています。

 ブログの日記の文章は、厳密には書かれていない。思うまま自由に書く。第三者のチェックも入らないので、誤字も多い。他人の文章を引用するときでも吟味しない。誤りが多くなるが、どこまでも「自分」が基準なので、情報が正確である必要はないのだ。事実を創作してもよい。それがもとで人に迷惑をかけてもいい。匿名でもいいので、責任を追求されることもない。ともかく書いたままなのだ。人を傷つけても自分を傷つけたくはない、という気持ちもあるのだろう。そこで生まれるものを文章と呼んでいいのかどうか。そもそもブログで日記を公開する人の多くは「文章と呼んでいいのかどうか」というようなことを考えることがあまりないはずだ。
 ブログは、ブログにかかわりのない人にも影響を及ぼすことになった。人の世界が変わりはじめた。

 以降は自身が体験した話に続きます。パーティーに出席した際、他者の書いたブログ記事によって、その日初めて出会った知らない人が自分のその日の行動を把握していたことに何か危機感を感じたとのこと。

 ブログどころかSNSはその傾向が強いでしょう。荒川氏も「その人がブログを書いている人かどうか」「ツイッターを使っているかどうか(2010年の文庫化に追記されたと思う)」を確かめてから話す必要があると述べています。

 もちろん新聞など特権的な文章だけだと読者と意見が合わない場合もあるので、情報の改善として、様々な意見を述べる自由な場として「ブログ」の期待面もあるかもしれないと考えていますが、いかんせん、まだ信用できない。

 執筆素人は情報発信してはいけないのならば、我々国民には発言権はないのかっ!? という話になりますけど……そこは荒川氏なりの提案を出しています。

 もし職業的な、あるいは既成の書き手の書くことに不満があるときは、その書き手にむけて、(チェックが働く)活字メディアなどを通して意見をいう。それを繰り返していく。時間はかかるものの、それがもっともたしかな方法ではないか。書き手としての条件をしっかりみたしている人に、すべてをゆだねるのだ。条件をみたしていない人、たれながしのブログを書いても平気な人のもとには、言論の舵を渡さない。そのほうが社会は大きな傷を負わないように思う。ぼくは何も一部の人たちだけが文章を書くべきで、他の人は書いてはいけないと述べているわけではない。条件をそなえた人たちの内部には、無形の能力がうめこまれている。最低限のルールとマナーもある。まだまだそこに期待していい、ゆだねていいと述べたいまでである。

 なるほど、もしかしたら最良の炎上対策かもしれません。ですが、最低限のルールとマナーをそなえていた活字メディアもほとんどがSNSによる情報発信を行っています。さらに発信された情報にもモラルあるのかどうか疑問を抱く記事も時おり見かけます。その記事に対して全うな意見を述べたとしても「不採用」で公表前に消されたら元も子もありません。

 これはSNSという即席情報が持つ魔力なのか、現代では何が正しい情報なのか、より一層分からなくなっています。分からないから余計に情報が溢れかえってしまう。ちなみに現代ビジネスパーソンが一日に触れる情報量は江戸時代農民の一生分と言われています。

 情報の産地偽装ともいうのでしょうか、現代社会に生きる私たち情報の庶民には少々荷が重い時代です…。

 そういえば、穂村氏の『にょっ記』に時たま「天使」という純粋無垢なキャラクターが出てきます。

 天使が、私の背広をみている。
 背広の襟をみている。
 いつまでもみている。
 やがて、何かがわかったらしく、その顔が輝く。
 これ、大切なの?
 と、社章を指して云った。

『7月31日 理解』

 これは穂村氏の創作なのかと思いきや、解説代わりの『偽ょっ記』を担当した作家・長嶋有の日記によると、この天使は実在の人物とのこと。

 しかも穂村氏と長嶋氏が吉祥寺で待ち合わせした際、向こうから穂村氏が天使と仲良く並んで歩いてきて、そして互いの苗字ではない名前を呼びあって仲良く並んで帰ったことから、おそらく穂村氏の奥様かと思われます。「何だって!?」と改めて最初から読み直すと、タイトルと目次の間に一言だけ「かよに」と書かれたページを見つけました(初読だと100%見逃す…)。

 つまり、この日記は天使こと奥様である「かよさん(仮名)」へ宛てたラブレターでもあるのでしょうか。しかし、これも私の勝手な推測だから一方的なミスリードかもしれない。うーん、情報を正しく見抜くのは難しい…。

 ちなみに、そんな穂村氏はSNSをやっていない。

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