「知る」ことの難しさについて

毎日本を読む。忙しい日でも、1ページはめくるようにしている。
本を読むと、さまざまなことを知れる。最近だと、方丈記とか遺骨収集の問題とか、沖縄と戦争のこととか。

自分の無知さにも気づくということもあるけど、新たなことを知るということに対しての少しの狂気性をぼくは感じたりもする。(てか、それを今更言葉にするんかい。)


知ったからこそ

大学時代に地域活動をはじめたきっかけは、地域で暮らすおじいちゃんが「死にたい」と言ったから。身体が健康でも、お金に困っていなくても、そういう気持ちになる人がいるということに衝撃を受けた。

ぼくはそれを知ったから「いやぁ。。俺ら毎日大学に適当に行って、いっつも酒飲んでいるだけだし、そういうおじいちゃんのために何かするか」となり、それが地域貢献団体の設立につながった。

ぼくらみたいにただの酒飲み大学生でも、その現実を知ると、何か動き出すパワーをもらえたりする。それを大学生活で学んだ。


見えるもの、見えないもの

話は少しズレるが、今日は秋田で竿燈祭り。ぼくは相談支援の仕事をしながら、その事務所のビルの3階から竿燈をちらっと見た。ビルの3階ということもあり、とても綺麗だった。

でもその横で「死にたい」という言葉が聞こえる。なんとも不思議な現象だなぁ~と少し思ったり。

この前まで秋田で水害が起こった。今も困っている人がいると、さまざまな情報から見るし、ぼくも仕事でそういった人の支援にあたる。でも、水害が起こる前の日も、そのずっと前の日も、地域には「死にたい」と思っている人はいる。

明日に絶望して、居場所がなく、親にまで否定される。そんな子たちが本当はいるんだよなぁ。でもその子たちの多くは、自分の胸の奥に閉まっているから、見えない。見えているのはぼくらのような現場にいる人たちだけ。

見えていれば多くの人が動いてくれる。それでも人手が足りないと色々な情報から見るけど、でも誰かは動いてくれる。本当の課題は、誰も見えないものだったりして、それは誰も動けない、知っている人しか動けないよなぁ〜と、そんなことをぼくは竿燈の心地良い音を聴きながら考えていた。


だからこそ、知るって難しい

「目の前の現実を知ったから逃げれなくなった」ぼく自身そういった経験があるし、社会課題を取り組んでいる人のプレゼンとかでも聞いたことがある。

それ自体は美しいし、えらい。切実な想いだし、大切なことだとも思う。ただ、ぼくは「知りすぎないこと」も同時に大切なんじゃないかなと思ったりする。

「知る」ことによって、例えば福祉なら「この人をなんとかしたい」という強烈なエネルギーが生まれる。もしかするとそれは、さまざまなことを無視して、飛び越えてしまうエネルギーかもしれない。

ただその飛び越えた先に「成功」が待っていると、多くの人たちは、飛び越えてしまったもの、無視してしまったものに目を向けなかったりする。それって、どうなんだろうと少しソワソワする。

過程に目を向ける。目の前の現象や課題、現実と自分自身の今を擦り合わせる。「ぼくはその課題に相対すことができる自分か?」と、一度立ち止まって考えることが大切だと思う。

悩みの原因の多くに周りと比べたり、誰かのSNSを見たり、情報に過度に触れたりするというのがある。そう考えると野球に打ち込みスマホを持っていなかったぼくの高校3年間は、ほとんどそういった悩みがなかった。

クラスのいざこざも、誰と誰が付き合ったかも、ぼくに届くのはみんなのずっと後だった。でも、それって幸せな部分もあったんだと思う。大好きだった野球に向き合って、自分と向き合って、グローブやスパイクを大切にして、野球ノートに自分の思いを殴り書き。そんな毎日だった。

「知ること」は大事。でも「知ったこと」をどう扱うか。自分と「知識」の距離感を、これからも考えながら生きていこうと思います。


お知らせ。

なんとAKITA"KARA"で「話す〜」というイベントを企画しました。
「まぁまぁごちゃごちゃ言わずに、会っていろいろ話しましょう」という謎イベントです。

軽いテーマはありますが、目的や目標は置かずに。自分の知らない人や知らないことに触れるのをちょっと楽しみましょうという感じで、柔らかめに企画しています。こちらもぜひ、覗いてみてください〜。



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