深夜だから、自分に向けた本音

どうにもこうにもならない今を生きている人と相対すと、感情が動く。

自分にできることはないか?と探し、なければ作ると意気込む。でもそのほとんどは、ぼくのキャパシティを超えていて、いつからか自己犠牲のラインを越える。

大学時代までは自己犠牲をカッコ良いと思っていた。80人を超える地域貢献団体を作り、その代表で、24時間体制で地域の困りごとを解決してた。

真冬でゴミ捨てに行けないおばあちゃん、雪が降ると「排気口が埋まって死んでしまう」と昼夜問わず電話をしてくるお爺ちゃん、生きがいがなく「死にたい」と呟くおばあちゃん。

僕らのいた地域の冬

そういう人たちと相対すと、ぼくは自分のことをそっちのけにして活動していた。テスト勉強も傍に置き、国家試験にも向き合わず、そうやって人のために動いていた。

ただ、ぼくはそれを仕事にしようとした時に、責任という言葉の本当の意味を知った。身をもって、身を傷付けて。

ぼくの善意は美しかったし、褒められたし、否定する人なんて誰もいなかった。でもだからこそのめり込むし、自分の生活も、お金も無視をする。

でもそれが続いているのは、ぼくが元気な時だけで、ぼくが倒れればそれは終わる。つまり、ぼくが支えてきた人たちの支えも、ぼくと同時に終わるのだ。

これは責任感が強く、社会を変えたい若者ではなくて、そのお面を被っていただけで、本当は無責任で、社会を変えたい自分でいたかっただけだと、今は思う。

少々キツイ言葉かもしれないけど、これはぼくがぼく自身に向けて言っているから、許してほしい。

そして「困っている人」のためならさまざまなことを犠牲にする。ぼく自身の時間やお金ならまだしも、反対意見の人や心配してくれる人の声までも、聞かないようにしていた節もあったと思う。

そう。「なんとかしたい」という感情のエネルギーは、どう働くかわからない。想いが強ければ強いほど、色々な壁を越えれる。

でもたぶん、そこには超えなくてもいい壁もある。そうなんだと、ぼくは思う。

だからまず知ることから。ぼくが飛ばそうした、知らずに越えようとした現場から。そして社会を。

社会を変えるのではなく、まず知ること。知ってみること、それが大事だとつくづく思う。

そして、そう思うと、ぼくが知っていた社会なんてほんとちっぽけで、それにイライラしていたぼく自身がすごくちっぽけに見えた。

なんか、そんなことをふと書きたくなった。

ぼくはやっぱり地に足をつけて生きていきたい。なにをやるかではなくて、どう在るか。自分の在り方を見つめながら、社会や人、この世界の知らないことをたくさん知っていきたいと思う。

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