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「多様性」に縛られず生きていく#【正欲】感想


「普通」に生きてみたい


30を過ぎたら、産むのも難しいから早めに産んどいた方が良いと、
子どもを産むことを前提に話してくる隣の雑貨屋の販売員。
今の時代は多様性の時代だから、結婚しなくても普通であると
理解しているフリがうまい両親。

「なければならない」ことなんてこの世に一つもない。
誰かに何かを強制されることが許されるはずないのに、
前提がそもそも人によって違うから、
知らず知らずのうちに傷つけたり、傷つけられる。

傷ついてしまうのなら、前もって、私という「人間」について
言えばいいのかもしれない。
しかし、理解されないのはわかっているから、
登場人物たちである夏月と佳道、大也は誰かに言うことさえも諦めてしまっていた。

「どうせ私のような存在は受け入れられないだろう」と
端から諦めているのだ。

逆に、八重子のような、自分はどんな人でも理解できるという人がいたとしても、大也は八重子を信じることもできない。
理解されるわけないと大也は思い込んでいるからだ。
理解を示そうとしてくれている八重子に対して大也はむしろ嫌悪感を示して、自分は社会にもともと適応できない身であることを憂いている。

世間一般の「普通」からかけ離れていると自覚している登場人物たちは、
普通に、誰かを好きになって、誰かと生きて、普通に町を歩いてみたかったと、
自分が自分らしくいられることを保証される社会に自分が属していないことを憂いている。

私は、『正欲』という映画を見て、また小説を読んで気づいたのが、
私も普通になりたかったということだ。

私はこの物語と共通する点が多くあった。
例えば、私は佳道と夏月と同じように、自分の周りが恋愛の話ばかりしていることがひどく煩わしい。
作中の言葉でいうと、みんな「セックス」の話ばっかりしている。
私自身、セックスについて興味が全くないわけではないが、
話題が出るたびに、どうしてセックスが話題として
正当化されているんだろうと思ってしまうのだ。

私は百合作品が好きだが、人に話したことがない。誰かと話したいが
百合作品が自分の周りと嗜好が違うとなんとなくわかっている気がするから
話せない。

私が、恋愛の話題が出るのを煩わしいと思っているが、
恋愛が普通に当たり前のものとして
多くの人から考えられていることが、
私は心の底ではうらやましいのかもしれない。

百合作品が当たり前に話せるようになったら、
きっと楽しいだろうなと思ってしまう。

一方で、百合作品が好きだと周囲に言えないことで
起こっている不利益にも本当は私も気づいている。
自分の嗜好が周囲のそれと異なると決めつけていることで、
自分の楽しみを周囲と共有する機会を
失っているのかもしれないと。

なんなんだろうな。
わかってほしいのに、
わかってもらう機会をつくれないなんて矛盾してるよな。
ほんとは自分と同じ嗜好を持つ人がいるかもしれないのに、
そんな人は身近にいないという自分の思い込みに気づいていない。
いわば、「幻想」に縛られて生きている人が多い。
私も「自分の嗜好を周囲からきっと否定される」という幻想に
縛られているうちの一人なんだ。

「多様性」という言葉に縛られるな。

人と違う趣味嗜好だからこそ、近年盛んに使われる「多様性」という言葉は
どんな人にとっても味方となりえたらいい。
しかしながら、どうもこの多様性という言葉は
図々しさを孕んでいるような気がしてならないのだ。

例えば、「多様性」が使われるような場面としては、
「LGBTQの人に対して理解を示そう!」
だとか、
「ドラマの「きのう何食べた?」ってめっちゃほっこりする!」
とかだ。

確かに、これらの言葉は間違ってない。
私も理解を示そうとすることから、誰しもが安心して生きていけるような
共生社会が生まれると思っている。
しかしながら、「多様性」という言葉には影があると私はいつも思うのだ。

例えば、あなたの近所に、ゲイの人が引っ越して来たら、
あなたは受け入れることができるのかと。

他人事だから受け入れたり、楽しんだりできる。
自分事になんかしてないし、普通そんなことしないのはわかっている。
私だって、そこまで真剣に考えたりしないからだ。
もちろん私も近所にLGBTQの人が引っ越してきたら、
理解に努めたい。
しかし、実際はそんな簡単ではないことも思いつく。

また例えば、私がLGBTQに当てはまっていたとしても、
そのことを両親は受け入れないだろう。
なぜなら、私のことを異性愛者だと信じてやまないからだ。
孫が楽しみだとさりげなく言われている日々だ。

このように、私は、他者が、
実際にリアルで「多様性」に遭遇した時に、
きっと他者はその「多様性」を
受け入れることができないと思っている。

だから、容易に多様性という言葉を使えば寛容的な立場に自分が立てていると思っていることに苛立つのだろう。
「多様性」という言葉でどんな人も理解できるのだという
多様性の言葉一つに、思考を持ってかれてはならないという思いに
なってくる。

多様性は、きっと実際は、受け入れがたいのだ。
いとも簡単に、理解できるとか思わない方がいい。
私は、『正欲』の映画をみるまで、
自分のことを「理解できる側」だと思い込んでいた節がある。
だから、私は、『正欲』に出会ったことで、
自省できる機会をもらった気がするのだ。

そもそも想像したこともないような
趣味嗜好の人のことを理解することなんか
できるはずないんだ。
接した経験すらないのに、すんなりと受け入れられるわけがない。
だからといって、否定するかといったら、
そんなこと絶対にしてはいけない。
それは断じてだ。

なぜなら、

「あってはならない感情なんて、この世にないんだから」

(朝井 2023:455)

映画と小説で一致していたこのセリフ。
理解しがたい人の一面を知ってしまったときにこの言葉を私が思い出したい。
感情は自由だ。どんなことを思ってもいい。
感情を制限してしまったら、どうやって生きて行ったらいいんだ。
私は、理解できない人が表れたとき、
相手のことをまるごと全部わかったふりはしないでいたい。
具体的にどうしたらいいのかはまだわからない。
きっと一生わかんないままだろう。
わかったふりだけはしたくないことだけは確かだ。

人生を生きるために

一人一人趣味嗜好が全然異なる生き物だからこそ、
どこか一部分でも
どこかの誰かと一致しているのであれば、とっても幸せだ。

夏月と佳道がこの世界を生きるために、手を組んだように、
私も手を組める同志が欲しい。

人生を生き抜いていくための同志がこの世界のどこかにいると
信じ続けよう。

『正欲』という物語から、この世界に私の趣味嗜好と一致する同志がどこかにいることを教えてくれた気がして、私は勇気をもらえた。

「普通」に当てはめることなく。
「多様性」に思考を止めることなく。
私がわたしらしく生きられるように自分で自分の居場所を創っていこう。

これからを生き抜く上で、『正欲』に出会えて本当によかった。

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