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早稲田卒ニート62日目〜知恵とスキル〜

新たな仕事を探していると、自分には何も無いという現実にどうしても直面する。「何も」とはいってもせめてもの学歴だけはある。もしこの学歴さえ無かったらと想像すると恐ろしい気分にはなるのだが、むしろ学歴が無かったらこれだけ勝手気ままな生き方はせずに済んだだろうとも思う。

とにかく、「何も無い」というのは、何かしらの「不足感」が私を襲うということであり、それは大概は「スキル」の不足なのだろうと思う。実績やら業績やらが無いことには何らの不安も抱かない。それは、まだ社会人2年の経験しかないわけで、無かろうが大した問題ではないと納得できる。が、例えば履歴書の「資格・免許」の欄に書けるものが無いのである。この「空白」が、確かな「不足感」を私にもたらす。転職サイトに登録しても、資格やら語学スキルやらを書く項目が必ずあり、しかしそんなものは持っていない。苦し紛れに「英検3級」なんて書きでもしたら、それは笑い者である。

そもそも「シューカツ」なんてやつをマジメにやらなかったし、やるつもりも無かったせいではある。恐らくそれを熱心にやる学生は、TOEICだかTOEFLだか知らないが、英語の勉強を盛んにやったり、その他資格検定を何かしら取ったり、そうしてシューカツを少しでも有利に進めようとするだろうか。確かにそれも一つのあり方であり、その点で言えば私など怠惰極まりない。が、そういう目的合理主義の勉強は苦手なのである。何より面白くない。こんなに尊い大学生活の時間を、シューカツのための勉強なんかに費やせるものか。それを放棄したがゆえの財産なら授けてもらったと思う。とりわけ、バーという空間において。従って「シューカツ不良学生」だったことに後悔は無い。

それにどうせ新卒の大学生である。どんなに優れたスキルを獲得しようと、そんなものは高が知れている。それを企業の人事がわからないはずがない。所詮はどんぐりの背比べにしかならない。

私は銀座のバーでアルバイトをしていたから、誰もが知っているいくつかの大企業の会長、社長、その他役員の方々とお喋りする機会があったわけだが、大学生ごときがどれだけ上辺を取り繕おうと、この方たちの目は誤魔化せないなと確信した。どんぐりの背比べに勝とうとして必死に背伸びをするくらいなら、むしろ等身大で堂々としていた方がいい。大企業で上へ行く様な大人の「人を見抜く目」は、大学生の背伸びなんかで霞む程度のものではない。大人をよく見ず、大人を軽んじて恥じずに生きてきた学生にはわからないことと思う。(まあこれも仕方がない。「生徒の目線に立って」などとは言われても、「大人を見てよく学べ」とはあまり教わらない。私は何かおかしいと思う。大人の言葉づかいや立ち振る舞い等をよく観察するのが、子の仕事ではないのか。そういう子が減ると、ガキみたいなガキが増える。尤も、規範的な大人に出会えるかどうかが鍵である。)

また、そもそもスキルを求めたことが殆ど無い様な気がしている。私が欲するのは「スキル」ではない。「知恵」である。ところが、知恵はスキルとは違って、カリキュラムに従って進んでいけばいずれは獲得し得るといった性質のものではないから、そこが知恵の獲得の難しさである。今のところ、その知恵さえも何一つ持っていない始末である。が、致し方ない。まだ25歳の若造である。知恵の無さを悲観するのは幼稚なエゴイズムだ。



名づけるとは、物事を創造または生成させる行為であり、そのようにして誕生した物事の認識そのものであった。

(市村弘正『名づけの精神史』)

名前が与えられて初めてその物は生成される。名づけることは、物に生命を吹き込むことである。人間はそうした名づけによって世界を分節化し世界の輪郭を描き上げ、出来上がったその言語的秩序を「世界像」として認識し共有するのである。その意味で、我々は「言語共同体」である。(英語の文法が他の西洋語に比べて極めてシンプルであるのも、あれだけ多くの異民族がそれを共有する必要からであろう。異の統一。まさしくUnited Statesとは、言語の共有なくしては果たされ得なかった。なお、それを世界規模に拡張したものがグローバル化である。世界的言語共同体。)

(※関連記事。猫を眺めての話。言語の共有不可能性に由来する不安。人間と動物は、根本的に分かり合えない。)

しかし、名づけることが生成であり創造であるとしても、原理的に名づけることのできないものもあるはずではないか。なぜなら、名づけることは世界の創造であるが、ここでいう世界とは、あくまで人間にとっての世界を意味するからである。しかし世界は人間の占有物ではないし、人間がこの世界の頂点でもないということを忘れてはならないだろう。そんな根拠はどこにも与えられていない。が、人間を超越した存在を忘却した近代人には理解し難いことである。僕らは生きる時に、人間を超えた存在を前提として生きてなどいない。

(前略)そのことは、民俗学が教える象徴的な事例、すなわち特定の聖域を「ナシラズ」といい、また特定の神木を「ナナシノキ」と呼ぶ習俗の存在によっても裏書きされるだろう。これはむろん神聖な場や物に対する人々の畏怖が、日常的な名前の世界からの敬遠と遮断を強いたのであるが、同時にそこには、空間や事物の存在のありかたを決定付づけ、それを経験世界へと占有せずにおかない名前の威力が表明されている。名づけることは、「所有すること」であったからである。

(同上)

人間を超えたものは人間の所有にはできない。即ち名づけられない。そこで、「ナナシ」という名を与えるのである。「名前が無い」という名前を与えておくことで、人間と神聖な物との関係に折り合いを付けられる。つまり、人間の所有を超えた物を、人間の所有を超えたままの状態で人間の所有とすることが出来るのである。これは全く、人間が神聖な物と対峙する時に編み出した「知恵」であるに違いない。しかしひょっとして、「『名前が無い』という名前を与えるなど、子供でも思い付く様なくだらない屁理屈だ」と合理主義者は言うかも知れない。が、それも当然だ。合理主義者とはそもそも、まさしく「知恵」が欠けている人たちのことなのである。

どうすれば知恵を獲得できるのかはわからない。方法的に得られるものではないからだ。が、少なくとも合理性を徹底した先には見えてこなさそうだ。それと、やはり古典に学ぶ必要がありそうだ。勉強の科目としての「古典」に限らないで。

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