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早稲田卒ニート25日目〜知の劣化〜

1日でも読書をサボると、自分の知がみるみるうちに衰えていく。それが自分で手に取るようにわかってしまうことが何より居た堪れない。ニートもそんなに勤勉ではいられない。

いやいや、私の様な勉学のろくに出来たことのない人間の知など、それは仰々しいものなどではないし、私ごときが知を語るなど笑い話みたいなものだ。が、少なくとも知や教養を求め獲得し、それを常に向上させむという意志くらいはある。

勉強なんか嫌いだという人は、初めから知性や教養を獲得することなど願わずにいた方が、かえって幸せかもしれない。一度でも求めてしまうと、もう取り返しがつかない。

読書しないでいると内部が空虚になっていく。

(倉田百三『青春をいかに生きるか』)

この言葉がよくわかる。せわしない日々は生活から暇を奪い、読書の時間を減らすことで、我々から内的充実を削り取っていく。教師生活の頃もそうだった。

読書には沈黙が必要である。沈黙は孤独によって授けられる。孤独になれない奴は思考できない。いつも誰かと一緒でないと落ち着かず、独りでいることに耐えられない奴などに思考の発達は無い。

3/31で、21年間の歴史に幕を下ろした。
ありがとう、ルネッサンス。寂しいな。

私もよく通った早稲田の古本屋「ルネッサンス」で文庫棚に目をやっているとき偶然飛び込んで来た本の書名が、猛烈に私の目を引いて離さなかった。青春に悩み、迷い、苦しみ、どうしようもなくなっている青年の目の前に突然、『青春をいかに生きるか』と問いかけてくるのである。しかも倉田百三だ。パラパラめくっていると、

読書しない青年には有望な者はいない。

(同上)

こんな言葉が書かれている。何とも勇気付けられたことだ。こうして読書をしている私は、全く有望な青年に違いないと思い込ませてくれた。すぐに買い取って持ち帰った。

倉田百三の本は警句に溢れている。青年への刺激を掻き立てる。

生の真理の重要な部分はむしろ非合理的の構造を持ち、それを把握するためにはそれに対応する直観的英知によらねばならぬ。

(同上)

うちでは猫を2匹買っている。マンチカンとサイベリアン。私はたまに、その2匹の挙動をボーッと眺めてやる。やがてどうも苦しくてたまらなくなってくるのである。彼らは言語を持たぬ。それはつまり、人間との相互的理解は遮断されているということだ。

言語とは世界の輪郭である。人間は言語によって混沌の世界を分節化し、そこに「世界像」を描き出す。そしてそれをひとつの秩序とみなすことで世界を「理解」したことにする。しかし本来は混沌である世界の実相に、後から言語的秩序を見出すに過ぎないのであるから、その「世界像」は「実存」ではなく「虚構」である。つまり人間は、言語によって構築されたこの「虚構」を共有することによって相互理解を果たしているのである。そうして作り出された分節的「世界像」は合理的なものだ。

しかし、猫や犬などは決して言語を持ち得ぬ。つまり、我々が言語を通して見ている合理的世界とは違う世界が彼らには見えているということだ。言語でしか世界を認識できない我々とは全く別の世界を彼らは生きている。そんな動物と生活を共にすることに、ほとんど恐怖にも近い感情を抱くのである。言わば、「相互理解の断絶」、そんなものがある。せめて鳴き声こそあれ、それは単なる「音」であって、人間の理解可能な「文法」ではない。

しかしそれでも、動物を理解しようと人間は試みる。たとえば尻尾をグルングルン振り回す犬を見て「喜んでいる」と思い、エサの時間にニャーと鳴く猫を見て「お腹空いてるのね」などと思う。

この「背景・内面・言動」を通じた分析的理解も、人間のひとつの知性である。やはり、知性はいつも合理的だ。非合理な知性などありやしない。しかし、その合理的知性では、我々の生の真理への到達など不可能なことである。なぜなら、そもそも世界の実相は「混沌」としてあるのであって、世界とは、初めから区分けされて存在していたのではないからである。言語が誕生する以前、即ち分節化以前の世界が確かに存在したのだ。そして、言語によって分節化された「世界像」は、人間を世界の合理的認識へ近づけると同時に、世界の本来的把握から遠ざける。その矛盾を引き受けつつ我々は言語によって生きていかねばならない。

そんな人間の背負った宿命の中にあってなお、世界を「部分」として合理的に理解するのではなく、世界を「全体」として一挙に掴み取る。それが「直観」というものである。

現代青年学生は盛んに、しかしながら賢明に書を読まねばならぬ。しかしながら最後には、人間教養の仕上げとしての人間完成のためには、一切の書物と思想とを否定せねばならぬものであることを牢記しておくべきものである。

(同上)

私は、「教わったことを全て忘れろ」と学生に言っていた。ただの「知識」であるうちは覚えた「対象」でしかない。覚えたものは、必要な時に「思い出す」か「思い出せない」かのいずれかである。それを忘れるまでやる、つまり教わった事柄が己と「一体化」するという境地まで到達せむとするのである。ここでいう「忘れる」とは、観念が現実に昇華されることである。そこでは、どんな書物も思想も用は無い。全ては自らの裡にのみあるのである。聖書でさえ、啓示を語った書であるが啓示そのものではないのであるということを忘れてはならない。

「青年よ、学生よ!盛んに、しかしながら賢明に読書せよ!」。今や、こんな当たり前のことを言ってくれる教師には出会えなくなってしまったのかもしれない。みんな、効果的な勉強方法だとか、入試には何が出るかばかりを言って授業はおしまいだ。いや、そんなつまらぬことを大声で喋る奴らがメディアで目立ってしまうだけで、映像だとか参考書だとかにあまり関わらない、一般的に有名でない方の中には、「受験」などというちっぽけな価値観の中で教えていない人はたくさんいる。しかし多くは、知名度に騙されてそんなことに気づかず学生生活を終えてしまう。

「必要なことを効率よく」などでは決してない、受験勉強を受験の枠を超えてやっていく奴こそが最も伸びる。これは逆説的に聞こえるかもしれないが、その逆説という「非合理」にこそ真理は潜んでいるのである。あとはそれを掘り起こせるかどうかだ。

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