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【#Real Voice】 「負けず嫌いモノローグ」 2年・佐藤慧一

10代最後の夏休みも終盤を迎えた9月初旬、同じ政治経済学部の友達と6人でゼミのES(エントリーシート)についてzoomで話していた。
初めに少し雑談を挟んでからそれぞれがESに取り掛かると、一足先に書き終えていた友人の1人がみんなからの無茶振りでBGMがてら「自分語り」をすることになった。
 
それは生まれた当時から現在までの体験や成長をその時々の感情を踏まえて超短縮ダイジェストとしてお届けするものであった。
中学では2回同じクラスで、高校サッカー部でも一緒にサッカーをしてきたその友人の自分語りは意外と知らないことばかりでとても面白かった。
 
 
 
 
2週間後に迎える20歳という節目の前に、私も自分の人生について振り返ってみたいと思う。
 
 
 
結論から言ってしまうと、自分は常に「負けず嫌い」であった。
それは今でも変わらない自分の特徴である。
 
 
そこで、20年の人生の中から負けず嫌いな自分というフィルムを切り取った「モノローグ(自分語り)」を書いてみよう。
 
 
 
私の負けず嫌いはどのように変化したのか、負けず嫌いはどのように私の人生を彩ったのか、そして最後には、そんな自分が大切だと感じていることにも触れてみようと思う。
 
 
長い独り言になってしまいますが、最後までお付き合いいただけると幸いです。




「はじまり」

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2001年10月26日。北海道札幌市で私は生まれた。
両親は名前を決めるにあたって文字の画数をかなり気にしたらしいが、最終的には「智慧(ちえ)が一番の子になってほしい」という理由から「慧一」と名付けられた。
 
思い出すことができる最初の負けず嫌いエピソードは、幼少期に親とオセロで遊んだ時のことである。
全然勝てない私は負ける度に「もう1回!」と自分が勝つまで泣きながら勝負を挑んだ。
ゲームとはいえ、とにかく負けるのが悔しかった。
この頃から負けに対して少し敏感だった。


「無邪気」

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小学生の自分は負けず嫌いというよりも、勝ちに飢えていた気がする。
 
 
 
小1の夏に父親の転勤で東京に引っ越した。
クラスメイトに誘われてフットサル教室に通い始め、翌年からは本格的に鷺宮SCというサッカークラブに入団した。
 
始まった時は2人だった同期が12人に増え、同期だけで試合ができるようになったのは小5になってから。
 
サッカー未経験者ばかりだったこともあり全然勝てなかった。
結局引退までに勝った試合は両手で数えられるくらいで、サッカーにおいて負けは当たり前になっていた。
 
 
それでも小6では中野区のトレセンに選ばれ、「自分そこそこ上手いんじゃね?」って天狗になって、中学では活躍してやるなんて意気込んでいた。
 
 
サッカーというスポーツに触れ、生活の中に勝ち負けを意識する場面が増えた。
 
 
 
そして小6の冬、勉強面において人生で一番の勝負を経験する。
 
 
 
 
小4になると同時に、有名な中学受験塾に入った。
(親に勝手に入塾テストの申し込みをされた)
 
 
それから受験を意識し始めた小5の秋。
文化祭シーズンが到来し、それと同時に少しずつ志望校を考えなければいけなくなった。
 
どこの学校が自分にとって良いとかあまりわからなかったし、サッカーの強豪がどことかあまり気にしなかったので、それとなく自分の偏差値で目指せそうな学校の文化祭を回った。
 
 
それでも、2校だけはある程度自分の意志も踏まえた上で学校を訪れた。
 
その2校は、早稲田中学と早実である。
 
 
理由は簡単、父親が慶應義塾大学出身だったから。
 
 
別にどうしても父に負けたくない理由があったわけではないが、なんとなく同じ慶應に入ったら比べられる気がして、それならライバル関係にある早稲田に入って家庭内早慶戦をするのも悪くないと思った。
 
 
それから結局早実を第1志望にして勉強を続けた。
 
 
 
最終的に結果は「合格」。
受験した他の学校も全て「合格」。
途中で成績が落ち込むことも何度かあったが、両親や携わってくれた先生方の厚いサポートのおかげで、負け知らずで人生における受験を終えた。
 
努力が実る実感を強く感じた瞬間でもあった。


「早実」

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小学校を卒業し、晴れて早稲田実業に入学。
新しい環境へと飛び込んだ。
 
20年の自分の人生における最も大きなターニングポイントである。
起承転結で言えば、「転」である。
 
 
 
まず、私は早実でちょっとした挫折を知る。
 
 
サッカーにおいても、勉強においても、自分より経歴も能力も上の人が周りにはゴロゴロいる。
 
それまで自分が得意だと思っていたドリブルも、算数や社会の成績も、相対的に見れば全然大したことはなかった。
 
 
「小学校という狭いコミュニティにおいて優秀」というポジションは「私立中学という受験の壁を超えてきた集団におけるそこそこ」へと変化した。
 
 
 
それでも、負けず嫌いな私はなんとか隣の人よりも勝っている部分を探して、自分はできるやつだと信じて、それなりにサッカーも勉強も頑張った。
 
そして、それなりに良い結果も残った。

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中3になって、勉学では成績優等を取った。
サッカーでは目標であった都大会に出場することができたし、出場をかけたトーナメントで何人か選ばれる優秀選手にも選ばれた。
 
 
目的意識や努力の仕方が正しいかは別として、実際に結果を残すことができた。
だから高校でも自分は頑張れば活躍できるんだって、信じていた。
 
その時はサッカーが上手くなるための、高校でレギュラーとして活躍するための、量とベクトルを伴った努力はしなかった。
 
 
 
それでもやはり、世の中はそんなに自分に都合の良いようには作られてはいなかった。

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高校へと進学し、そのままサッカー部に入部した。
 
ここでとても大きな挫折を知ることになった。
 
 
中学受験の時にはなかったスポーツ推薦制度が高校にはあり、サッカーを通して早実に入ってきた人が何人かいた。
 
もちろんサッカーの実力は自分より遥かに高くて、入部当時の自分の実力は下から数えた方が圧倒的に早い。
 
それだけではなく、自分が中学時代に唯一負けないと思っていた走りの体力すらも、高校サッカー部においてはそこそこであった。

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実際に、スポ推で入ってきた同期の小松(2年/小松寛太)は自分よりサッカーも体力も圧倒的に上で、自分が勝てるところは何ひとつ見当たらなかった。
(2人で勝負をしていたわけではないが、引退まで含めて一度も走りで勝ったことはなかった)
 
人生で初めての絶望だったかもしれない。
 
 
 
それでも初めはまだ自分の可能性を否定しなかった。
 
当時のAチームにいた同期はあまりチームの仕事をしなかったし、仕事もサボるような人たちに負けたくない、最終的には自分が勝って活躍するはずだって盲目的に信じていた。
 
 
しかし、上達するための努力ができたわけではなく、ただ練習をこなす日々を過ごしてしまった。
 
 
そして高2、私のメンタルはえぐられ、廃れてしまう。
 
4月にいきなり公式戦の仕事でミスをして、自分の中にある砦のようなものが崩壊した。
 
 
サッカーにおいては当然変わらずBチームのまま、挙げ句の果てには公式戦ではほぼ毎試合副審を務めることになった。
 
なんで自分は評価されないんだ、なんで自分は今チームの仕事をしているのだろうか、わからなくなった。
それと同時に、好きだったサッカーは楽しくなくなり、目標に対しての努力をする気力なんて全く生まれなかった。
 
 
さらに追い討ちをかけるように、リーグ戦で大誤審をしてTwitterでも相手の観客に叩かれるという初めてのきつい体験を味わった。
サッカー部で活動することが苦痛で仕方なかった。
 
 
 
そんなボロボロの自分のメンタルが変わる転機は急に訪れた。
 
 
その年のリーグ戦最終節、やっぱり私は副審をしていた。
その日もなんとなく試合に臨み、無事に最終節を終えた後、3年生は仲間と話したり観客と話して引退を噛み締めていた。
 
 
私はいつも通り最後まで仕事をこなし、使わなかったユニホームをメンバーの人に配った。
 
その時、当時のキャプテンでいつもツンツンしていた(今でもかなりツンデレだと思う)俊也くん(3年/鈴木俊也)が「今まで副審ご苦労様。ありがとう。」と声をかけてくれた。
 
 
 
その瞬間、私は泣いた。
 
おそらく人生で一番号泣した。
 
 
それまではやらなきゃいけない仕事だから、競争に負けたからやらなきゃと思っていた副審という仕事は、少なくとも誰かにとってはやってくれることがありがたい感謝に値するものだと知った。
 
 
報われた気持ちと同時に、恥ずかしさが込み上げてきた。

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私よりずっと凄くて強い人は、「感謝」という当たり前のようでそうではない、人間にとって最も大切な言葉を知っていた。
 
一方でそれまでの自分は、「負けたくない」というそんなちっぽけな理由でかなり自己中心的な人生を歩んでいたと思う。
 
 
その時初めて、自分がとても弱い人間であったことを痛感した
 
同時に、人の強さとは何かを少し掴めた気がした。
 
 
 
そして高3では「感謝」を強く意識するようになった。
 
チームのため、同期のため、そして自分のために行動しようと心がけた。
 
 
もちろんいきなり人が変わったように完璧に心に尽くすことが体現できたわけではない。
それでも、サッカーにおいて今までとは違った景色を見ることができた。
 
 
メンバーに入れなくても同期が試合に勝つことは嬉しかった。
初めてチームという存在が尊いものだと感じた。

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引退試合を終え、自分としてはサッカーはやり切ったと思っていたが、時間が経つごとに不思議と物足りなさを感じた。
 
 
そのモヤモヤの正体がなんであるのかわからなかったが、さまざまなきっかけから思い切ってア式蹴球部のマネージャーという次のステージへ身を置くことに決めた。
(きっかけは昨年のブログに書いてあるので興味がある人は読んでみてください)


「確信」

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現在、ア式蹴球部でマネージャーを務めて1年9ヶ月が経とうとしている。
 
ア式に来てもやっぱり自分は大したことない人間であった。
 
 
 
同じマネージャーで言えば、1個上には同じ政治経済学部にもかかわらず頭の良さも仕事のキャパも圧倒的に上で、みんなから慕われる優しい凄腕マネがいる。
 
チームのため、そして自分の意志に向き合って活動し、互いに切磋琢磨できる心強い同期がいる。
 
さらに、常に強い信念を持って本気でサッカーに取り組むスーパーな選手たちがいる。
 
 
 
でも不思議と劣等感のようなものは感じなかった。
自分は弱い人間であると知ったからだと思う。
 
 
私はまだまだ未熟ではあるが、それでも自分の道標に向かって「感謝」を忘れず日々の活動を過ごしているつもりだ。
 
 
そして、こうして人生を振り返ってみたことで、入部する前に感じていたモヤモヤの正体について、私は確信した。
 
3つ、簡単にお話ししようと思う。
 
 
 
1つ目は、人間は1人では弱い生き物であるということ
 
 
受験、サッカー、あらゆる場面において必ず家族や先生、仲間の支えがあった。
 
自分を含めて、人間なら誰しもが必ず多くの人の支えを享受して成長してきた。
 
 
 
マネージャーという、人の支えがどれだけ自分にとって大切であったかを実感する場所、また結局は選手がいなければ成り立たないポジションが、そして何よりこのコロナという環境がより強くそう感じさせている。
 
 
 
そして弱い生き物であることを知った時、初めて「繋がり」の正体に気づく。
 
 
繋がりとは、人間を強くする最も本質的なものであり、決して軽いものではないと私は思う。
 
 
繋がりは人間が弱いからこそ生まれるものであり、1人では何もできないからこそ生まれるものである。
 
 
 
 
だからこそ、繋がりという言葉は人に押し付けるものではないと思う。
 
 
 
試合に負けた時
「チームの繋がりが足りなかったから、もっと繋がらなきゃいけない」
という声が聞こえる。
 
 
早慶戦の運営が上手くいかない時
「あの人たちは仕事しないから、自分たちがやるしかないんだよ」
「我々の目指す舞台に向かってコロナ禍でも挑戦し続けなければいけないんだ」
という声が聞こえる。
 
 
 
しかし、それは果たして本当に強さや新しい価値を生み出すプロセスなのだろうか?
 
 
そこに自分の弱さを知るプロセスはあったのだろうか?
 
 
現実と向き合う勇気はあったのだろうか?
 
 
弱さをさらけ出し、相手の弱さを知り、互いに強さを生み出すプロセスはあったのだろうか?
 
 
 
 
繋がりを強要することは、相手に手錠をかけることと一緒である。
 
 
いくら自分の熱い思いを伝えようとしても、手が繋がっていない相手には決して温度は伝わらないし、束縛されているストレスを与える。
 
 
 
 
人と繋がることは決して義務ではない。
 
 
 
だからこそ、まずは自分の弱さに向き合い、さらけ出す。
相手に理解してもらう努力をする。
 
 
 
自分も含めて、今のア式はそれができているだろうか?
 
 
 
この過程がなければ、決して強い繋がりは生まれない。
 
 
 
 
私は、もう逃げない。
 
今までもそうだが、いきなり完璧に体現することはできないかもしれない。
 
 
ただ、少なくとも逃げてはいけないことを忘れない。
 
 
そして、自分のために仲間が向き合ってくれること、多くの人たちが自分を知ろうとしてくれていることへのリスペクトと感謝は決して忘れてはいけないと私は確信した。


2つ目は、早稲田の強みとは何なのか
 
 
上述したように、繋がりという言葉それ自体は強さの証明ではない。
チームスポーツであるサッカーを深く知れば知るほど、どのチームも繋がりの大切さには必ず気づくだろう。
 
だから繋がりがあるというその事実が早稲田の強みだとは思わない。
 
 
そしてまた、日本のサッカー界をリードしてきた伝統や歴史がある、その事実もまた今の強さを証明するものではない。
 
過去の実績は過去のものでしかなく、今の強さを保証してくれるものではない。
 
 
 
では、早稲田8年目の私が思うこの組織の強みとは何か。
 
 
 
それは、感受性を育むプロセスである。
 
 
 
さまざまな背景をもち、さまざまな入試形態を通して集まった個人が、同じ目標に向かって意見を交換し、豊かな感受性を発揮してチームをアソシエイトすること。
 
 
これまでに積み上げられた伝統や歴史と向き合い、その先にある未来と向き合い、サッカーと、仲間と、そして己と対話する時間を作り、継承と改革を繰り返すこと。
 
 
 
このプロセスの濃密さこそがア式の強さを作っていると思う。
 
 
この過程こそが我々の繋がりを強く分厚いものにし、ゴール前のあと一歩を生み出すのだと感じた。

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そして3つ目は、環境と意志の大切さ
 
 
「全ては取り巻く環境と自分の意志に左右される」
 
これはまきや(1年/成定真生也)のブログから引用した文だが、私はとても納得した。
(読んでない人は是非読んでみてください)
 
ただ、自分の人生を振り返った佐藤慧一風に翻訳をするのであれば
 
「環境が意志を形成し、その意志が新たな環境へと導いてくれる」
 
これの繰り返しが今の私を作っている。
 
 
わかりやすく勉強を教えてくれた塾の先生も、早稲田で出会った先生や仲間も、それらに出会うきっかけをサポートしてくれた両親も。
 
多くの環境的要因が私の内面を作り上げ、新たな視点を与え、次の成長へと繋げてくれた大切な存在である。
 
 
まさに一期一会だ。
 
 
だから私はこれから出会う全ての環境を自分が成長できるための道を示してくれるものであることを忘れずに、前向きに生きたいと思う。


「夢」

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最後に、人生という道を経て辿り着いた私の夢について記して、このモノローグを終わろうと思う。
 
 
前提として、上に述べたように環境によってまた新たな意志が生まれるかもしれない。
 
ただ、ここでブログに書き記すことで、20歳を前にした自分のこれからの道標を自分に向けて示しておこうと思う。
 
 
 
「スポーツを通して活力を生み出すこと」
 
 
 
これが今私の抱いている夢だ。
 
実際にこれまでの早慶戦や、今年コロナ禍で開催された東京オリンピックを体験して、やはりスポーツの持つ力は偉大であると感じた。
 
 
観ている人を熱狂と感動で巻き込むスポーツは、このコロナ禍においても間違いなく人々の心を明るく前向きに照らしたはずである。
 
 
そしてまた、スポーツは競技そのものだけが活力を生み出すものではないことを知った。
 
 
今年の東京五輪の開会式はまさに、誰しもが抱えるコロナ禍における葛藤という背景を伝える素晴らしい演出であった。
 
 
あんな景色を創ってみたい。
明日も頑張ろうって思えるような、人が繋がりを実感できるような、そんな景色を。
 
 
人は心が原動力だから。
 
誰かの心を燃やす、みんなが活力を持って生きる世界に少しでもできたら、そんな夢を実現できるような活動を生み出していきたい。
 
具体的な方法はまだわからないけど、少なくともそれを探す努力をしたい。
 
 
 
ア式での活動も気づけばもうあと2年。
 
私のモノローグの続きはどんな物語になるのか、今からとても楽しみである。



佐藤慧一(さとうけいいち)
学年:2年
学部:政治経済学部
出身校:早稲田実業学校高等部


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