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【#Real Voice 2022】 「サッカーをやめたことは"逃げ"だったのか」 3年・平山怜央



ああ、俺は逃げたんだ。


あの時私ははそう思った
1 年がたった


私はもう逃げないと誓ったあの日から
私はマネージャーとして何か成果を残せているか


いや
何も変わっていない


でも


でも不思議と
今の私に昔ほどの焦りはない


葛藤の中にある
確かな学びを
力に変えて今日も生きる



こんにちは。本日部員ブログを担当させていただきます、3年マネージャーの平山怜央です。昨年、私は「私がサッカー選手を辞めてマネージャーになったわけ」というタイトルで部員ブログを書かせていただきました。

理由は「逃げたから」。
大学で、ア式でサッカーを続ける自信が自分にはなく、それでも部活動からは離れたくなくて、マネージャーになりました。
ずっとその事実に蓋をしてきた私は、昨年のブログを通してようやくその事実を受け入れ「私はもう逃げない」という決意表明とともに、このブログを締め括りました。
それから1年、仲間や家族など多くの人々に支えられ、今もこうしてマネージャーとして活動を続けることができています。


この1年もさまざまな出来事があり、さまざまに感情が移ろいゆく中で、さまざまな葛藤を繰り返しながら、1日1日を過ごしてきました。今日はその中で私が感じてきたことの一部を皆さんにもお伝えできれば良いなと思っています。脈絡のない話にはなってしまうかもしれませんが、最後までお読みいただけると嬉しいです。



誰かの明日への一歩を後押しできたら。
そんな思いで丁寧に、心を込めて綴ります。


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マネージャーは選手の”サポート役”か


「いつもサポートありがとう」
「陰で支えてくれてありがとう」



よく選手たちがこんなことを言ってくれる。シンプルに嬉しいし、そんなこと言われたら、もっと頑張ろって思える。声をかけてくれるみんな、いつもありがとう。
でも、時折ふとこんな考えが浮かび上がる。



「マネージャーは選手のサポート役か」



一般的に考えればこの答えはYESだろう。
ピッチ内では、コートを作り、水を汲み、ボールを拾う。全ては選手が最高の環境でサッカーに集中できるように。例外なく私もそこに対してこだわりを持ちマネージャー業務にあたる一人である。
だが、”サポート”や”裏方”といった言葉を耳にする時、私は決まっていつもちょっと悔しい気持ちになる。


思えば、このサッカー(スポーツ)の世界ではプレイヤー(選手)が表(中心)で、その他は裏(周辺)といった考え方が潜在的に浸透しているのではないか。まあ当たり前のことか。サッカーはプレイヤーがいて初めて成り立つ。裏を返せえばマネージャーがいなくてもサッカーなんてものは成立してしまう。でも。元来プレイヤーだけしかいなかったはずのサッカーの世界に審判という役職ができ、コーチという役職ができ、そしてマネージャーという役職ができ、それらが今のところ失くなることなく存在している。それは偶然か。いや、きっと彼ら彼女らが現代サッカーの世界に何らかの形で必要な存在であるからなのではないか。試合を公正に裁く審判がいなかったら?チームの魅力を発信する広報がいなかったら?スタジアムを建設する作業員がいなかったら?今サッカーの世界に彼ら彼女らがいなくなり、プレイヤーだけになった時、確かにサッカーをプレイすることはできる。だが、いろいろな立場の人間が複雑に絡み合う、現代サッカーの世界ではプレイヤーだけではもはやその文化や存在価値は崩れ去ってしまうと思う。プレイするだけの世界ではサッカーはその真価を発揮することが出来ないのではないだろうか。


そう考えるとサッカーの世界に表も裏もないのかもしれない。それぞれに役割が存在するだけでその役割に大きいも小さいもない。そう。長々と書かずとも頭では分かっていた。でも実際は、プレイヤー(選手)はやっぱりサッカー界の中心である(ように見える)。私も心のどこかでそう思ってしまっている。だからこそ、その生態系に変化を起こす。残りの1年で私が挑戦してみたいことである。マネージャーという役割を通してサッカーに関わる「サッカーをプレイしない人たち」の価値を高める。これがサッカーをやめても”サッカー”に関わり続けている私の使命であると感じる。


当然、選手を支える姿や裏方の業務に魅力や、やりがいを感じている人にとっては、わざわざスポットを当てられる必要なんてなくて、そんな人たちの価値を高めようなんて、とんだありがた迷惑なのかもしれない。でも私は、選手のため、チームのためなら目に見えずとも身を粉にして働く、そんな素敵な考えを持つ彼ら彼女らを間近で見てきたからこそ、その魅力や必要性をもっといろんな人に知って欲しいと思っている。
サッカーをプレイしない人たちがサッカー界を牽引する時代が来ても面白いんじゃないか。私は残り1年マネージャーとして選手を全力で支えるだけでなく、選手に対しても負けじとライバル心を燃やし、マネージャーの可能性を追求していく、そんな存在であり続けたい。


”サッカー”とは何か。


プレイするだけがサッカーか。マネージャーは裏方か。


この視点はサッカーをやめたからこそ見えてきた”サッカー”の新たな価値である。





ー”マネージャー”なんて肩書きはもういらない



「プロサッカー選手になりたい」
「大企業で働きたい」



3年生になると周りの同期はだんだんと自分の将来について考え始める。いわゆる就活(蹴活)である。私も、少しずつではあるが、将来について考え始めるようになった。「自分はどこで何をしてきたのか」「自分はどこで何をしていきたいのか」こんなことを考えていると、ふとこんなことを思った。


どこで何をする(した)かは永遠ではなく、いずれ過去になる


自分が経験してきた良い出来事は、楽しい思い出や輝かしい栄光として、また悪い出来事は消し去りたい思い出や良い教訓として「過去」のものとなる。そしてこれから私たちがなす事、なろうとする職業や役職もいつかはそれを辞める時が来て「過去」となる。もちろん記録として記憶としては残り続けるが、出来事としては長い一生の中で見ればどれも一瞬である。それらは人生を豊かにしてくれるものでもある。一方でその不安定さに悩まされ、苦しむ人が多いことも事実である。


ここでもう1つの考えが生まれる。
「ずっと失くならず、存在し続けることができるものなんてあるのか?」


「心の在り方」


どこで、何をしていようと、「心の在り方」はいつだって自分の中に存在し続けている。どんな気持ちで、どんな信念を持って、その場所でその時間を生きるのか。たとえ置かれた境遇が恵まれなくとも、夢が叶わなかったとしても、はたまた夢がなくとも。「心の在り方」次第で人はいくらでも輝ける。


「いつも人の気持ちに寄り添える人間であること」


私が一生をかけて目指す心の在り方である。
相手の心の変化を感じ取れる人間であること。見返りを求めず、他人に優しくできる人間であること。どんな時も相手のことを受け入れ、信じてあげられる人間であること。
この旅路に終わりはなく、果てしない。でも、想い続ける限り、尽きて失くなることは決してない。
どこで、何をしていようと。どんな逆境や困難の中にいようと。
ずっと絶やすことなく、大切に大切に育んでいきたい。



ア式蹴球部でマネージャーをしています。
そんな肩書きはもしかしたらもう必要ないのかもしれない。



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おわりに…

今日も最後まで読んでいただき誠にありがとうございました。
最初の項ではマネージャーとしての役割を強調していたのにも関わらず、次の項ではマネージャーの肩書きなんていらないと…
非常に矛盾している文章だったかもしれません笑
でもこれが今の私の非常にリアルな心の声です。
何かを成し遂げたいという気持ちと、それ以外にも大切なことがあるはずだという気持ち、いろいろな葛藤を繰り返しながら日々活動を続けています。


「サッカーをやめたことは逃げだったのか」


確かに当時の心情と行動を照らし合わせれば、それは間違いなく「逃げ」であり、その事実が消えることはないと思います。でも、今振り返ればそれも「どこにいて、何をしたか」に過ぎません。これからも私は、「心の在り方」にこだわり、強くて優しい人間になれるよう、素敵な仲間たちとともに、一日一日を丁寧に、心を込めて過ごしていきます。


最後に私が生きる上で大切にしている言葉を皆さんにも紹介して終わろうと思います。これは中学時代のサッカー部の恩師が私に教えてくれた言葉です。


自戒の念を込めて。

「一念発起は誰でもする。実行、努力までならみんなする。
そこでやめたらどんぐりの背比べで終わりなんだ。
一歩抜きん出るには、
努力の上に辛抱という棒を立てるんだよ。この棒に花が咲くんだ」

桂小金治(落語家)


◇平山怜央◇
学年:3年
学部:スポーツ科学部
出身校:刈谷高校

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