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私の中のあなた。

20代のころ、私は毎日日記をつけていた。
当時、文章でなにかしら職を得たいと思っていたので、心の整理が5割、文章修行が5割という、フィクション臭がする日記であった。
時々、押し入れの奥からそれらを引っ張り出して読み返してみる。
「おー、あのころはこんなつまんねえことに悩んでいたのかー、若いね」
「ああ、当時は三代目にゃんこ、元気だったんだなあ」
なんて感慨とともに、私は自分が綴った文章の中にいる「あなた」の存在に赤面してしまう。

モレスキンのノートに、ブルーブラックの万年筆、そしてやたら短いセンテンス。これは、ヘミングウェイに参っていたころの証。
ひらがなを多用し、語尾に「かしらん」を付けまくっていたのは、太宰ラブの痕跡。
難読漢字を無理してねじ込んでいるのは開高健のマネ。
日記なのに、やたら情景描写をしているのは川端康成へのあこがれ。
ツンデレきどってるのは内田百閒だ。

普通の20代女子がイケメンを愛するように、私は文豪を愛していたのだ。
好きで好きで好きで好きで、堪らなかった。
常に彼らの事で頭がいっぱいだったのだ。
できることなら同化したい。この身に憑依して頂きたい!!!
一文でもいいから、彼らのような痺れる文章が書けたなら!!!!!
そんな狂気に満ちた願いが、当時の私の日記から漏れ出ている。

本は、音楽に似ている。
ほんの数秒イントロを耳にしただけで、その曲が流行っていたころの自分に立ち返ってしまうことがあるけれど、本も同じで、その中の一文だったり、セリフだったり、背表紙の色だけでも、初めて読んだ日のことが映画のワンシーンのように、はっきり思い出すことができる。

本は、私の人生の「栞」のようなもの。
とりわけ、神として崇め奉っている文豪たちは、その名前を想うだけで卒業アルバム以上の思い出の洪水をもたらす。

たとえば、谷崎潤一郎。
あなたとの出会いは大学の閉架書庫。あなたの言葉を指で追いながら、私は少し緊張していた。茶色く日焼けした全集のページからは、クッキーのような甘く香ばしい匂いがする。
私は二十二歳。外は冷たい雨が降っている。
老朽化で、すぐ隣に新しい図書館が建設中だ。来年はもうこの建物は存在しなくなる。暗くて、狭くて、黴臭い、私の特別な場所・・・。

大好きな作家は、ほとんど人生の伴侶と言えるかもしれない。
私のあらゆる思い出のなかに、彼らはいる。
というか、あらゆる思い出を脳内で再生しようとするとき、必ず、彼らの言葉を真似てしまうのだ。

こういう感覚は、世界共通であるらしい。
『U&I』(ニコルソン・ベイカー著 有好宏文 訳 白水社)は、そうした憧れの作家との「脳内共生」について、意識の流れそのままに綴ったエッセイである。

著者にとって特別な作家であるジョン・アップダイク。
アップダイク(U)と、私(I)の、一方通行だけど特別な関係。

この本の特別なところは、そうした関係を、Uの著作を一切読み返さずに描いた点にある。
著者いわく「読まず語り」の手法。
Iの中にあるUの痕跡を、思い出せるだけ思い出してみるという。
実際のアップダイクではなく、ベイカーの中の、ベイカーと一体化してしまったアップダイクについて描いているのだ。
それは、私の中の「あなた」を掘り起こすようなもの。

読みながら、私は何度も赤面してしまった。
こんなに大胆、かつ生々しい読書体験記は初めてだ。
読書には、少なからずエロティックな側面がある気がしてはいた。
読み手と書き手の間には、精神の交歓があると思っている。
なので、初対面では聞きづらいのだ。
「あなたはこの作家のどこが好きなの?」なんて。
それは、それぞれの秘めたる場所であるはずだから。

いやあ、だからね、ベイカーさん。
あなたも作家なんだから、もう少し嘘っぽく書いてもいいんじゃないかしら。そこまで頭の中さらけ出さなくても大丈夫よ。
うんうん、わかるよ、わかってるって。あああ、どうしてそんな思い出すだけで顔から火が出そうな思い出をわざわざ披露しようなんて考えるの!
だめ、やめて、もうこっちが耐えられないっっ!!!

と、悶絶しながらの読書だった。
それは、書かれていることが他人ごとではないからだ。
少なからず、ベイカー氏と同じ経験を持ち合わせているからだ。
自分の恥部を、ベイカー氏の言葉でなぞっているかのようだからだ。

読書の恐ろしさは、ここにある。
「あー、これって私のことじゃん?」
そう思ったら最後、その本の主人公なり、ヒロインなり、作者だったりは、私に憑りついて離れなくなる。たぶん、永遠に。

ああ、また一人、私の中の「あなた」が増えてしまった。
ニコルソン・ベイカーさん。
私という混沌の中に、ようこそ。

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最後までお付き合いいただきありがとうございます。 新しい本との出会いのきっかけになれればいいな。