美味そうなベーコン部門、第一位。『怒りの葡萄』

もはや古典の部類に入りそうな昔の本が好きだ。
刊行から長い年月を経ているということは、そのぶん多くの読者を持つということである。なので、自分とは全く遠い世代の方とも同じ本について語り合うことができるのだ。「飲みにケーション」という言葉もすでに古典だが、それに代わって「読みにケーション」というのが流行ったらいいのに。

先日、母親くらいの年齢の方と『怒りの葡萄』(スタインベック)の話で盛り上がった。
「あの作品の中に出てきたベーコン、とにかく美味しそうだったわねえ」
「たしかに! ベーコンの匂いと脂の焼ける音が堪らなかったです」
「本当に、美味しそうで美味しそうで、そればかりが記憶にあるわ」
ベーコンの話から、コーヒー、トウモロコシパン、アップルパイと、作中の食べ物がとにかく美味そうだったという意見で一致した。

『怒りの葡萄』は、美味美食を堪能する話ではない。
土地を奪われた貧しい農民たちが、オクラホマから新天地カリフォルニアへ、苦難の旅路を描いた長編小説である。
「カリフォルニアに行けば、酒池肉林ですよ」みたいなプロパガンダを信じて、オンボロトラックに家財道具すべてを積み込み故郷を離れる。
カリフォルニアが近づくにつれ、プロパガンダが嘘であることが判ってくる。帰る場所はもはやない。待っているのは地獄だとしても、進むよりほか道はないのだ。
ひどい話である。しかも、この話は事実に基づいて書かれている。まったくもってひどい話である。

そのひどい話を読んで、なぜベーコンが美味そうだったことばかりが思い出されるのであろうか。

私は10年ぶりに『怒りの葡萄』(新潮文庫版 大久保康雄 訳)を読み返してみた。
ベーコンの描写をかたっぱしから抜き出してみた。そして驚いた。
あんまりにも、淡々と描かれているのだ。

焼ける豚の骨の匂いがストーブから漂ってきた。(210P)

ウィルソンは、肉を嚙みちぎりながら、満足げに溜息をもらし、「豚肉はうめえ」と言った。(283p)


おかしい・・・。
私の記憶の中では、フライパンの中で分厚いベーコン(そもそもベーコンではなく、豚肉だった!)がピンクから徐々に赤茶に変わっていき、染み出た脂は泡立ってぷくぷく音をたてていて、といった描写が1ページほど続いたような気がしていたのだが。

もう一度、今度は全体を読み直してみる。
するとどうだ、やっぱりベーコン(豚の脇肉)は、ギラギラと脂にまみれて、よだれを誘うのである。胃がキュウキュウするくらい、美味しそうだ。

ちなみに、このベーコン(本文中では豚の脇肉だが)、大事な家畜を屠って作ったものである。食べる描写は淡々としているのに、ベーコンを作る過程には6ページを費やしている。宗教行事のような厳かな雰囲気だ。

仕事も、お金も、土地も失った彼らにとって、この自家製ベーコンは唯一、そして最後の財産でもある。食べるのは一日の終わり。食事が終わると誰かが呟く。
「豚の脇肉はあとどれくらいあるのかね」。
彼らにとって、ベーコンが切れることは、すなわち餓死を意味する。

なんという極限状態。
オクラホマからカリフォルニアまで、2400キロ余りの道のりを、オンボロトラックに13人が寿司詰め状態での旅路。しかも目指す先に約束の地は無さそうである。唯一の楽しみである食事も、底をつきかけている。
身も心もボロボロだ。

ストレスがかかると、甘味と高カロリーを食べずにはいられない私には、読んでいるだけで苦しくて堪らない。
ああ、食べたい、もっと、豚の脇肉!!! 
そのドライブインで売ってるアップルパイ、一口でいいから食わせろ!!! ポテト、ポテトでいい、頼むからもう一口食わせてくれ!!!
食べ物が文中に出てくるたび、餓鬼さながら、身もだえするほど、その食べ物が欲しくて欲しくて我慢ならなくなるのだ。

そうか、これが「ベーコンが美味そう」な理由なのだな。

読んでいる人間は、いつの間にか主人公たちと同じ「飢えた」目になってしまっているのだ。
極限に飢えている彼らにとっては、ベーコンはもちろん、リコリスキャンディーですら貴重で、魅惑的な輝きを放っている。
飢えを知るものだけに見える光。
スタインベックは、それが読者にも見えるように書いているのだ。

すごいことだ。
これはたぶん、文学にしか出来ないことだと思う。
内容うんぬん、すっとばして、読者に壮絶な飢えの感覚を与える。
当時の新聞や写真を見ただけでは、きっとこの感覚はわからない。
文学を読んで疑似体験するからこそ、わが身のことのように飢えを経験するのだ。
『怒りの葡萄』と言えば「ベーコンが美味そうだった」と、飢えた記憶を他の読者と共有することができるとは。

古典になりつつある作品の力は、やはり凄まじい。
刺激が足りないとお嘆きならば、ぜひ、古い名作を読んでみてほしい。



最後までお付き合いいただきありがとうございます。 新しい本との出会いのきっかけになれればいいな。