『アルジャーノンに花束を』を、SFとしては読めませんでした。
真新しいランドセルを枕元に置いて、私はこれからはじまる小学校生活に胸を躍らせていた。
覚えたてのひらがなで、私は自分の気持ちをこんなふうに綴っている。
まず、べんきょうをがんばる。
あと、ともだちをひゃくにんつくる。
「る」が反転していたり、ちいさい「よ」が「お」みたいになっていたりして、我ながらカワイイ決意表明だ。
筆圧が強すぎて、ところどころ穴になっているのもいい。今はこんなに一生懸命に文字を書くなんてことはないもの。
『アルジャーノンに花束を』(ダニエル・キイス著 小尾芙佐訳 早川書房)を開いたとき、私はそこに6歳の頃の自分を見た。
『アルジャーノンに花束を』は、知的障害を持つ32歳のチャーリーが、脳の手術を受けて徐々に天才になっていく過程を描いたSF小説である。
チャーリー自身が綴る「経過報告書」という形で物語は進む。
最初の「けえかほうこく」は、ただの作文だ。
今日、こんなことがありました。楽しかったです。おわり。
誤字脱字だらけの拙い文章。なのに、読んでいるとすっかりチャーリーの虜になっている。
正しい綴りが書けたことや、新しい言葉を覚えたことに大喜びするチャーリー。それを見ていると、初めて日記帳を買ってもらった日のときめきを思い出す。
ああ、そうだった。初めて「を」や「は」の使い方を覚えたとき、嬉しくて嬉しくてやたらとそれらを書き綴っていたっけ。
頭が良くなりたい。そうしたら、友だちをたくさんつくれるから。
チャーリーは何度もそう綴っている。
ああ、そうそう。日記の中ではいつも「こうなりたい」って姿をそのまんま書いていたなあ。あの頃は素直で純粋だった。
物語が進むごとに、チャーリーの「けえかほうこく」は「経過報告書」になり、漢字や難しい言い回しが増え、ページを開いただけで「あ、これは大人が書いたな」とわかるようになる。(その視覚的な効果がすごいのだ! 一気に大人になるのではなく、気が付いたら大人になっていた、という自然な形で変化している。訳した方が天才すぎると思う! ページを繰るだけでもいいからその変化を見てほしい!)
文章も劇的に変化する。
主観と感想だけだったものが、客観性のある論理的なものになっていく。
まるで、小論文のお手本のようだ。
非常に上手い文章だと思う。
が、最初の「けえかほうこく」のように、胸に響いてくるものがない。
書かれている場面は、感動的だ。
障がい者として生きてきた人生を、天才になったチャーリーが振り返る。
そして対峙する。
自分を捨てた両親に。自分のことを嫌悪していた妹に。
母親との対面シーンは、息苦しくなるほど切ない。
それでも、やっぱり私は「けえかほうこく」が好きだ。
ひたむきな文章を書くチャーリーが好きだ。
天才になる前のチャーリーに自分を重ねているからだろうか。
子どもの頃、大人みたいに「おりこう」になれば、人生は思い通りになるのだと信じていた。そういう意味では早く大人になりたいと思っていた。
でも、逆だった。
大人になればなるほど、物事はぐちゃぐちゃに縺れて、簡単にはいかなくなった。子どもの頃のように「スキ」「キライ」では済まないことだらけになってしまった。他人の目がやたらと気になって、言いたいことも言えない。
チャーリーの「けえかほうこく」みたいな文章を書いていたころの自分に会って言いたい。
その一生懸命な気持ちを、大きくなっても忘れないでねって。
あれ、なんだかこの想いはチャーリーではなく、彼の意中の人「アリス」みたいだ。彼女は、チャーリーの純粋さと優しさに惹かれていた。
この作品を読んでいると、たびたび感情移入する人物が変わる。
チャーリーはもちろん、父にも、母にも、妹にも、アリスにもひどく共感してしまう部分があるのだ。
「あ、その気持ち、わかるなあ」と、何度もつぶやいてしまう。
今回は、天才になる前のチャーリーと、彼につらくあたっていた母親の内なる葛藤に惹きつけられた。
名作と呼ばれる作品は、一読では終われない。
何度も何度も読む。5年、10年という時間を空けて再読することだってざらにある。その都度、感想も変わる。新しい疑問が生まれることもしばしば。
次に読むときには、誰に惹かれ、どう思うのだろう。
本を閉じながら、もう「再会」が楽しみになる。
『アルジャーノンに花束を』が、何年も読み継がれている理由がわかる気がする。
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最後までお付き合いいただきありがとうございます。 新しい本との出会いのきっかけになれればいいな。