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マインドフルネスってアメリカのビジネスマン、特にウォールストリートのビジネスマンたちの間で流行った

タバコとお酒が不健康のすべてではないのです

情報分析官

「気」という考え方の核は呼吸

情報分析官

ヨガなど東洋における呼吸法は、いずれも結局は、炭酸ガスをためることをポイントとしています(中略)深い呼吸をすることで、なるべく炭酸ガスを吐き出さず、血液中に入れるのです

情報分析官

一年あまりヨガと瞑想を練習しているのだけれど、いまだにオーシャンブレスと呼ばれているウジャイ呼吸法をマスターできていない。大きく鼻から息を吸って気管支を通り、鼻から吐き出せるようになるのが最終ゴール

情報分析官

ウジャイ呼吸(中略)楽な姿勢で座るか横になって、鼻からゆっくりと深く息を吸い、まず腹から空気で満たしていく。息を吸いながら、いびきをかくか鼻を鳴らすくらいにのどを締める。耳の中で海のような音が聞こえる。肺いっぱいになったら、同じように鼻の奥を締めて音をたてながら吐いていく。鏡を曇らせようとしているかのように

情報分析官

アシュタンガ・ヨガの創始者で導師の故K・パタビ・ジョイス(シャラート・ジョイスの祖父)のしばしば引用される言葉として、「体が硬いのではない、心が硬いのだ」というものがある。

情報分析官

極楽を本当に信じているのであれば、ご先祖様は極楽にいるわけですから、やはりお盆には帰ってこないはずです。親鸞さんは帰って来ないと教えています

情報分析官

日本の仏教は中国で生まれた儒教化、道教化された仏教(中略)浄土信仰が仏教に入ってきたのは、バラモン教から密教を取り込んだのと同様に釈迦の入滅後600年以上たって、インドで大乗仏教が成立する過程でバラモン教から「神」の概念を取り込んだところから始まっています。浄土教と呼びますが、中国でつくられたと見られる感無量寿経というお経に見られるように、浄土という本来の仏教にない場所が想定された思想が中国で発展します。なぜ仏教にないのかといえば、仏教では、娑婆のほかにあるのはニルバーナ、つまり涅槃だけだからです。ご存知のとおり、娑婆はこの世のこと。涅槃とは悟りの境地であり、あの世のことです。ところが、涅槃に行こうにも、そこはあまりにも遠い道のりであるため、この世と涅槃の間に、浄土という中間的な場所を用意しました(中略)浄土には時空がないため、一瞬で悟るのと同じことです。そういう中間のトレーニング場が、浄土というわけです。大乗の仏教においても、バラモン教的な宗教観が残っており、それが六道輪廻という概念として入り込んでいます。涅槃に行くまでに六堂をぐるぐる回り、たとえば悪いことをすると餓鬼界に行きますよ、という考え方です。それが、生まれ変わりという概念に結びついていきます。それはあくまでバラモン教的な論理であり、仏教の本質は 「空」ですから、涅槃というのは空を悟った人がいる世界であり境地のことで、場所のことではないわけです。ただ、宗教が組織化していくさいに、誰もが行きやすい浄土という概念はたいへん便利でした。それを日本では平安時代に、法然が浄土宗として体系化します(中略)歴史的に見ると、法然の称名念仏は大勢の人を救ったかもしれませんが、仏教に副作用ももたらしました(中略)それは釈迦が否定した苦行であるだけでなく、いくら名前を唱えても、いっさい釈迦の教えを理解する役に立ちません。こうした中国浄土教の論理から親鸞は、大乗仏教をキリスト教のレベルの世界宗教の論理に引き上げました(中略)親鸞の考え方は、もともとの仏説とは異なります(中略)それは、釈迦が教えた 「すべてのものは幻である」という考え方とは、ずいぶん思想的には離れたものです。釈迦は、人間は無条件の愛によって救われるから安心しなさいといったのではありません。私たちが抱く恐怖心も、焦りも、はたまた興奮も歓喜も、さらには如来さえもすべてが関係性のなかでのみ成立する「空」であることを悟り、その悟りによって安らかな心を持ちなさいと教えました(中略)実は、どうしても「空」を体験できない人も、それでいい───苫米地英人博士(著書名失念)

釈迦の時代から年月が経つと、「涅槃」という概念事自体が遠い存在となってしまいました(中略)悟りの世界へ行くといっても、「涅槃」があまりに抽象的なので、人々はその教えを理解することができなくなっていました。そこで涅槃に行く中間地点として「浄土」という概念が生まれたのです。涅槃とは究極の悟りの世界、浄土とは「涅槃に至る過程の悟りの世界」と考えるとわかりやすいでしょう(中略)釈迦が打ち立てた仏教は、「涅槃(ニルヴァーナ)」(悟りの世界)の教えを中心とした宗教といえます(中略)浄土宗の開祖が法然、浄土真宗の開祖が親鸞です。法然の時代はマントラをたくさん唱えたほうがよいという時代でした。阿弥陀様の仏像を作ったり仏画を見たりして、仏像や仏画の前で一生懸命に瞑想して「私には阿弥陀と強い縁がある」というような瞑想をするのが浄土教の始まりだったのです。しかし、法然はそういったことを見ているうちに、仏画や仏像を見て瞑想したり、極楽浄土に行けるように死ぬ時に仏像と自分の手を赤い糸で結んだりといった行為は金持ちにしかできないということに気が付いたのです。そんな中、法然は経典で、南無阿弥陀仏を唱えると実際に仏像の前で瞑想するのと同じ効果があるということを発見します。そこで、浄土教の大衆化に成功します。南無阿弥陀仏を唱えよう、これは唱えるだけで極楽浄土に行ける「魔法の言葉」だと説いた(中略)必然的に、法然の時代に魔法の言葉をたくさん唱えればよいという言霊指向が生まれます。そして次のステップに進んだのが、弟子の親鸞です。親鸞は、お経を唱えるのは一回でいいと言いました。親鸞は「阿弥陀があなたに『南無阿弥陀仏』と言わせている」「だからあなたは既に阿弥陀と縁があるため、何度も唱えなくていい」「最後は唱えなくてもいい。阿弥陀と縁があるということを自覚すればいい」。こういう理論で、ますます民衆に受け入れられた(中略)これはイエス・キリストが説いたキリスト教にすごく近い発想です。キリスト教も、親鸞の浄土真宗も絶対他力の考え方だからです。神の一方的な愛というものがキリスト教の発想です。イエス・キリストは「神はあなたを一方的に愛してます」と考えます。キリスト教は神の愛を受け入れるか、受け入れないかだけが重要で、一度受け入れると、アーメンと唱えなくてもいいし、教会に行かなくてもいいのです。なぜなら、それが絶対他力の宗教の考え方だからです。※引用者加筆.

本態はキリスト教そのものである浄土宗も中国から日本にやってきた。日本でも末法思想と共に深く信じられ、隆盛し流行した。浄土宗=阿弥陀如来信仰は、まさしくこれはキリスト教の教えそのものである。このことを解説する。「ただ神の名(アーメン)を唱えるだけでいい」とするキリスト教の考えと、親鸞聖人の浄土真宗の教えは全く同じである、「弥陀の本願」に至るには、「ただひたすら阿弥陀仏様(アミターバ、あるいはアミタユース)の名を唱えればどんな人でも成仏できる」とする。すなわち「南無阿弥陀仏」だ。この「アミダ」は「アーメン(アクナートン神への信仰のこと。古代エジプトのアマルナ信仰、アマルナ革命の「アメン神」のことだが、ここでは触れない)を唱えよ」と全く同じである(中略)阿弥陀如来は早くも3世紀には中国に到着している。だから、4、5世紀の中国では阿弥陀如来信仰、すなわち西方浄土の浄土思想が成立している。西方とは、ずっと西の方のことでエルサレムである。だから浄土思想は、エルサレムの方を拝むという思想だ。これが、「ただひたすら神の名を唱えよ」という「アーメン(アミダ)を唱えよ」という思想として中国に伝わったのだ。「アーメン」とは「まことに、確かに、そうなりますように」という意味であるとされる。が、実はチラリと前述した「アメン神」のことである。古代エジプトでアマルナ革命(紀元前1350年頃)という宗教改革があった。このアマルナ革命のときに現れた神で、アメン神の他にアテン神を作った。古代エジプト王朝の王(ファラオ)のアメンホテプ(トゥト・アク・アメン)4世が従来のアメンをやめてアテン神を作って崇拝した。新しい神を作ったために、神官たちと10年ぐらい激しい戦いになった。そのときにアメンホテプ4世によってアマルナという新しい都市が作られたのだが、すべて消滅して再び、昔の都に戻った(中略)敦煌莫高窟の第45窟の像はとりわけ興味深い。釈迦の左隣に阿難(アーナンダ)がいて右隣が目連(モッガラーナ)がいる。もうひとりの有名な弟子が舎利弗(シャーリープットラ)だ。彼はバラモンの出でインテリだった。だからサンスクリット語(梵語)が書けて話せた。だから仏教経典が今に残ったのだ。シャーリープットラは、ものすごく重要だ。なぜなら多くの仏典でブッダは舎利弗に話しかけている。その阿難と目連の両側にそれぞれ白い肌をした女官のような美しい女性像がいる。そして、これがのちの観音菩薩と弥勒菩薩の2人(中略)さらにその横に四天王と呼ばれる毘沙門天や不動明王の軍人(中略)古代イランのゾロアスター教の最高神は、アフラ・マズダである。そのアフラ・マズダの娘(長女)が女神のアナーヒターとされる。このアナーヒターが観音菩薩になった。これは有力な学説だ。これが後述するが、弁財天という美人の女の神様にもなっている。ところがヒンドゥー教のサラスヴァティーも又、ゾロアスター教のアナヒターと同じである。もしかしたら、アナーヒターは阿弥陀にもなったかもしれない。ここは元をたどれば同じだと思う。阿弥陀のミダは音声からも元はこれはマリアだろう(中略)どう考えても阿弥陀如来は最初からマリアだ。この言葉が2世紀にエルサレムのあるパレスチナの方から伝わった。紀元前563年に生まれたお釈迦様の時代には、救済という思想はまだない。

情報分析官

私はイエス・キリストとマグダラのマリアの間にはサラという娘がいたと、信じている。これが小説・映画の『ダ・ヴィンチ・コード』(ダン・ブラウン著)の主要な主張(中略)カトリックの僧侶たちにとっては、神であるイエス・キリストに妻がいたら本当に困るのだ(中略)阿弥陀如来は、イエスの奥さまのマグダレーナ・マリアである。阿弥陀如来は、マグダラのマリアなのである(中略)親鸞は「南無阿弥陀仏とただひたすら阿弥陀如来の名前を唱えよ。そうすれば救われる」と説いた。ひたすら神(仏)の名を唱えよ。まさしくこれはキリスト教そのものだ(中略)日本の仏教学者、仏僧たちは、この「アミダやカンノン(マニ・パドメ)の名を唱えさえすれば、救済される」ことの、キリスト教との同一性に気づいているはずである(中略)本当は分かっているのだ(中略)比叡山で読まれていた経典の中に、キリスト教の聖書そのものが有ったのである。大谷大学・龍谷大学(浄土真宗の学問をする)では、皆でひそひそと語っている。京都在住で私の弟子だった葭川邦弘君が、10年前にその経典(お経)を見つけて私に教えてくれた。その名を「世尊布施論(せそんふせろん)」という。この経典が京都の西本願寺に宝物として保管されているそうだ。この経典「世尊布施論」は、中国で広まったキリスト教(アリウス派。イエス・キリストを人間だとする説)の漢訳経典である。これが仏典の形で日本国に伝わった古いキリスト教である。この「世尊布施論」の内容は、新訳聖書の「マタイの福音書」5〜7章の「山上の垂訓」を中心に、書かれている。アダムの創造と堕落、イエスの降誕と、その生涯、教え、そして救い等のキリスト教の教義が記されているようだ。だから「世尊布施論」の「世尊」とはイエス・キリストのことである。ブッダ(釈迦)のことではない(中略)法然も親鸞も比叡山で天台宗の数学を学び厳しい修行を積んでいる。そのときにこのキリスト教(イエス・キリストという男の言行録)の漢訳経典である「世尊布施論」を読んで強く影響を受けたのだろう(中略)ゴルゴダの丘というのは、処刑場があった場所ではなくて、エルサレムの大金持ちの住居でキリストを支持していた人物で、その敷地内に十字架が立てられて処刑されたらしい。イエスの遺体を受け取りに行ったのは、三人のマリアで、イエスの死体の受け取りを男の弟子がやると殺される恐れがあった。だから女たちが行った。これが、あのミケランジェロ(Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni 1475〜1564)の傑作『サン・ピエトロ(大聖堂)のピエタ』という彫刻であるピエタ(Pieta,pietete)とは、自分の命を懸けて、死をも恐れず遺体を受け取りにゆく献身、のことを意味する(中略)初期のピエタ像が、おそらくこの地上で一番美しい最高級の芸術作品だ。ミケランジェロ26歳の作品

SDGs=共産主義

私が深く尊敬するミケランジェロとモーツァルトとニーチェという3人の人類史上最高の知性たちが、激しく闘い最も憎んだのが、まさしくローマ・カトリック教会の高級坊主(僧侶)たちであった。宗教弾圧というのは、宗教団体が国家や権力(国王)などから弾圧されて信仰者たちがたくさん殺された事件だ、と考えられている。ところが、ヨーロッパの歴史を詳しく調べたら、宗教弾圧はローマ教会自身によって、ほとんどが行われていた。信教の自由を一番侵したのはローマ・カトリックだ。ヨーロッパ各国の歴史のなかで、一番の殺戮を行ったのはローマ・カトリック教会だ。宗教が政府によって弾圧されたのではない。ローマ教会が、宗教裁判(Otdeal オーディール)によって、ヨーロッパの知識人や立派な人たちをたくさん焼き殺したのだ。このこと抜きで、宗教の自由を言うべきではない。やはり、人類の諸悪の根源はローマ・カトリックなのだ。共産主義の悪のせいで人々が虐殺された罪は、その次だ。あのイタリア・ルネッサンス運動というのは、まさしくローマ教会による抑圧、弾圧と、それに対する知識人たちの血みどろの闘いだったのだ。日本人はこういう大きな本当のことを今も教えられていない。

私たちは「南無阿弥陀仏」(浄土宗)と「南無妙法蓮華経」(天台法華宗)という仏教の二つの呪文(中略)「ナムアミダブツ」「ナンマンダ」とも言う。ここに阿弥陀様が出てくる。私たちは何百年も「南無阿弥陀仏」をひたすら唱えたが、この時、お釈迦様はどこへ行ってしまったのか。消えてしまっている。もうひとつの呪文の「ナム(南無)ミョウホウレンゲ(妙法蓮華)キョウ(経)」の「妙法蓮華」とは何のことか? 岩波文庫『法華経』(全3巻、1962年初版、坂本幸男、岩本裕訳注)ではこれを「正しい教えの白い蓮」と訳している。白い蓮とは何か。ズバリと書く「パドメ」のことだ。「オン・マニ・パドメ・フーム」と唱える。インドやネパール、タイ、チベット、モンゴルで唱える(中略)この「オン・マニ・パドメ・フーム」が日本では「ナムミョウホウレンゲキョウ」になった(中略)「オン・マニ・パドメ・フーム」の呪文、真言がアジアの各国で今も唱えられている(中略)「オン・アミダラ・フーム」(南無阿弥陀仏)という呪文も、アジア各国で唱えられている(中略)普通の人でも仏教を真剣に信仰し続ける人は、修行者としての「菩薩戒」まではもらえる(中略)だから菩薩は仏教の修行者の意味である。それに対して仏僧は「沙門(しゃもん)」と言われる。日本語でも出家した僧侶(ボンゾー)たちは、「具足戒(ぐそくかい)」を受けて坊主(沙門)になる(中略)例えば、文殊菩薩は(マンジュシュリー)は、ヒンドゥーの神様では、ヴィシュヌ神(中略)文殊(マンジュシュリー)は、バラモンの家に生まれ、ブッダの弟子の1人で、実在した人物とされる。この他に、弥勒菩薩(みろく、マイトレーヤ)がいる。これもブッダに帰依した女の弟子の1人(中略)パドメは「白い蓮の花(赤でもいい)」のこと(中略)だから、マニパドメが「(妙)法(蓮)華経」そのものを指す(中略)この白蓮(パドメ)が、まさしく観世音(観音さま)という女神(中略)だから「法華経」という経典は、全体として観音さま(アヴァローキテーシュバラ・パドメ)を拝んでいる仏典

ヒンドゥー教、ジャイナ教、仏教、シク教、ゾロアスター教では、祈祷の冒頭で「オン(唵)」という「聖なる音」が発せられる(※意味のない字句は聖性の支柱に昇華)※引用者加筆.

「弥陀の本願」に至るには、「ただひたすら阿弥陀仏様(アミターバ、あるいはアミタユース)の名を唱えればどんな人でも成仏できる」とする。すなわち「南無阿弥陀仏」だ。この「アミダ」は「アーメン(アクナートン神への信仰のこと。古代エジプトのアマルナ信仰、アマルナ革命の「アメン神」のこと(中略)モーセも、どうやらこのアメン神の信者であり、モーセを指導した神(ヤハウエ)というのは、どうやらアメンホテプ王と対立した実在の神官たち(※太陽を崇拝し信仰するアテン神官ではなく、人や動物の姿を借りた神々を崇拝し信仰するツタンカーメンサイドの旧来のアメン神官のこと)である。ユダヤ教の経典の中心は『出エジプト記』(エクソダス Exodus)である(中略)ルーカス監督が、ここに阿弥陀如来(アミダラ)と観音菩薩(パドメ)のアジアの2人の仏教の女神を出現させる脚本と構成を作った。私はこのことに、歴史の「時空を超える力」を感じる。歴史の勉強とは、まさしく「時空を超えること」である(中略)きっと紀元前7世紀のゾロアスター教の女神であるアナーヒターが、ペルシャ高原からインドにまで伝わり、それが当時のヒンドゥー教(バラモン教)の中で人々に絶大な人気が出て、女神(聖女)崇拝の対象に(中略)ゾロアスター(教)よりも100年後の人であるブッダもヒンドゥー教の修行者の1人として、当然、この「オン・マニ・パドメ(女神、アヴァローキテーシュバラ)・フーム」(南無妙法蓮華経)という呪文、真言(マントラ)、偈(げ)=韻文を唱えたのだ。そして、ブッダから650年後に龍樹が大乗仏典の1つとしての『般若心経』を書いたとき、冒頭に出てくる観音さまは、元々はパドメ(白い蓮の花の女神)であったのだが、当時、西方からアジアに押し寄せて来て大流行していた女神マリアに取って代わられ、姿を変えたのだろう(中略)人類救済を熱望する人々の強烈な女神信仰は、爆発的な人気を得て、ものすごい勢いで広まったはずなのである。これが、紀元100年(106年に史上初めての仏像が彫られている)から150年にかけて成立した大乗仏教(大乗仏典を作る運動)(中略)そして、このパドメ(白い蓮の女神、観世音菩薩、観音さま)は、映画『スターウォーズ(エピソード1、2、3)』(ジョージ・ルーカス監督)の中で、鮮やかに蘇っている(中略)アミダラ女王と侍女パドメの二役をイスラエル出身女優のナタリー・ポートマンが演じた。アミダラにパドメが入れ替わることで女王が命を落とすことから逃れる。パドメの方が、本当のアミダラ女王だと分かる(中略)キリスト教が北インドで仏教に入り込んだ(中略)入り込んだと言うより、西暦150年に作り直したのだ。それを大乗仏教(龍樹が創作者)と言う。だから、ブッダ(釈迦)をそっちのけにして、阿弥陀さま、観音さま、弥勒菩薩の方を信仰するようになった。雲の中からパーッと光が差し込んで、従者たちを引き連れて地上に降りてきて、人々を助ける姿がある。これはドイツのワーグナーの歌劇のブリューンヒルデと言う太った女神が、地上に白馬に乗って家来たちの軍勢を連れて降りてくる姿と同じだ。新約聖書には、エルサレムに入ったイエスは弟子のイスカリオテのユダ(Judas Iscariot)の裏切りを受けてローマ兵たちに逮捕された。ローマ帝国から派遣されていた総督ピラトの判決で死刑が決まり、ゴルゴダの丘の上で十字架に磔にされたと書かれている。※引用者加筆.

情報分析官

クンダリニー・ヨガでとくに有名な〈サ・タ・マ・ナ〉の詠唱でも、6秒間発声し、つづけて6秒間息を吸う(中略)アーサナ〉はもともと「座」と「姿勢」を意味(中略)ヨガは静止した状態を保ち、呼吸を通してプラーナをつくる科学(中略)最適な呼吸数は1分につき約5・5回。つまり5・5秒で吸い、5・5秒で吐く(中略)仏教の最も普及したマントラ、〈オーム・マニ・パドメー・フーム〉(六字大明呪)を僧が唱えるときは、1回の発声が6秒つづき、6秒で息を吸ったあとに詠唱が再開(中略)意識的呼吸のシステムを〈氣功(チーゴン)〉と呼んだ。〈氣(チー)〉は「呼吸」、〈功(ゴン)〉は「仕事」を意味し、合わせて「呼吸仕事(呼吸法)(中略)息をゆっくりと、長く吐けば、そのぶん二酸化炭素濃度が高くなる(中略)二酸化炭素は全身の主要ホルモン(中略)激しくあわてた呼吸は二酸化炭素を排除する(中略)(※二酸化炭素が)脂肪を燃焼(中略)われわれに必要なのは、もっとたくさんの二酸化炭素(中略) 体を二酸化炭素にさらすと、水のなかでも、注入するかたちでも、吸入であっても、筋肉や臓器、脳などへの酸素運搬が増し、動脈が広がって血流が増加し、脂肪がさらに分解され、多くの病気にとって強力な治療となる(※モルヒネなどが効く理由のひとつは二酸化炭素濃度上げる効果)(中略)(※アスリート向け炭酸ガス吸引の)配合は、室内の空気と混ぜた約7パーセントの二酸化炭素を数回吸い込む(※間違えると幻覚やパニックに)(中略) ※引用者加筆.

情報分析官

炭酸水を飲むと血中の二酸化炭酸濃度が上がります。すると、体はその状態を「酸欠状態」と誤解し、この酸欠状態を改善しなければと、血中の酸素濃度を高める(中略)ただし、寝る直前の硬度の高い水や炭酸水はタブー。ミネラルの消化にエネルギーが必要になるため睡眠中の体には負担が大きく、下痢を起こすことが(中略)炭酸水で気をつけるべきことは、多くが弱酸性の性質を持っているので、継続して飲用すると体が酸性になってしまうということ───藤田紘一郎教授(著書名失念)

情報分析官

より良い脳のために、炭酸水は避けよう 現在、炭酸水はとても人気があるが、できれば避けることを勧める。炭酸水を含むせいで酸性度が高くなる

情報分析官

自己が、まさに自己自身を吟味している心によって作られつつある個人的物語であるとしたら、内観とは入り組んだ小説を解釈することに相当

情報分析官

マインドフルネスって天台宗でもやってる止観の観のこと(中略)浄土真宗でいうと「見調べ」がそう。この「見調べ」を一般的にやりやすくしたのが、内観療法(中略)ヴィパッサナー(※マインドフルネスの技術)だけだと片手落ちで、止観の止の部分のサマター(※心を止める)とセットになって初めて意味をなす(中略)日本ではサマター、ヴィパッサナーは止観という形で平安時代にはもうあった(中略)禅も瞑想もひっくるめてヨーガなんだよ(中略)瞑想は意識の正確なコントロールのこと(中略)瞑想することで人間は覚醒する(中略)日本でいま流行している〝ヨガ〟や瞑想って、ダイエットだったり、健康だったり、生産性向上だったりが目的でしょ? それって明らかに自分の利益のためであって、そんな目的でヨーガをやっていれば、ますますエゴイスティックになるのは当然(中略)日本人が1番誤解しているところは、あのさ、ウォールストリートのビジネスマンたちって1日に数億とか数十億とか稼ぐわけ(中略)もともと(※本質的に酒池肉林傾向のモノである)マインドフルネスってアメリカのビジネスマン、特にウォールストリートのビジネスマンたちの間で流行ったのが日本に来たわけでしょ。リラックスできるとか、ストレスがなくなるとかってことで。でも、彼らには永遠にリラックスなんかこないからね(中略)(※ウォールストリートのビジネスマンたちは)実体経済や社会の枠組みを全部ぶっ壊しているでしょ。普通のアメリカ人は相当彼らのことを恨んでいるよ(中略)本来、ヨーガを習う時にはヨーガの体系の概念、つまりバラモン教の歴史から知らないといけない(中略)もともとはブラフマンとアートマンの合一みたいなレベルのブラーフマニズムがあってこれがバラモン教ね。バラモン教というのは正確にはイズムであって宗教じゃない(中略)ヒンドゥー教とバラモン教は違う宗教(中略)バラモン教というのはバラモン階級(カーストの最上級で僧階級)というごく一部の人のための生き方を言うわけね。それがブラーフマニズムで、その教義だけ聞きかじって迷信的に出来上がったのがヒンドゥー教(※天台宗の最高奥義『摩訶止観』。ヨーガは漢語では「相応」と訳します。その言葉のとおり、仏と私たちが表裏一体であることが、「即身即仏」の「即」の意味釈迦のすべての教えは「即身即仏」という一句に表現することができます
摩訶止観→「心がすべてであり、すべてが心である」(心の中に)一念三千(「見(けん)( 誤り・スコトーマ→見たくない現実は認識しようとしない )」→ 根本煩悩(煩悩は空でもあり仮でもある。存在もするし、非存在でもある→止観。止観の極意→立ち止まって自らのあり方を見詰めてみる)の最後 → 正見が生まれる)→因果関係(縁起 ⇄(哲学)東洋哲学)。縁起を知らないことが無明。因縁→縁を起こして人を動かす技術。因は抽象度が低く、縁は間接的に見えて実は高い抽象度で直接的(中略)仮観(すべては心が作り出した幻想かもしれないから現実逃避してはいけない、自分の状況をよく見なさいということ)=仮のゴール設定。仮観 ⇄ 空観 ⇄ 中観(中の理・慈悲心・幻から自分を観るか?現実から自分を観るか?)⇄ 仮観 ⇄ 空観仏道修行はその認識の為にある ※引用者加筆.

情報分析官

カースト制度に固執するヒンドゥー教徒は、人知を超えた宇宙の究極の力がカーストの優劣を定めたと信じている。有名なヒンドゥー教の創造神話によれば、ブルシャという原初の人間の体から神々が世界を造り上げたという。太陽はプルシャの目から、月は脳から、バラモン(僧侶)は口から、クシャトリヤ(武士)は腕から、ヴァイシャ(農民と商人)は腿から、シュードラ(隷属民)は脚から造り出された。この説明を受け容れれば、バラモンとシュードラの社会的な違いは、太陽と月の違いのように自然で永遠のものとなる(中略)とはいえ、私たちの知るかぎり、これらのヒエラルキーはすべて人類の想像力の産物だ。バラモンとシュードラは、本当に神によって原初の人間の異なる体の部位から造られたわけではない。実際には、これら二つのカーストの区別は、約三〇〇〇年前にインド北部の人間が考案した法律と規範によって生み出された。

情報分析官

ダンテは当時から大変、特に女性に人気のあった人(中略)(※ダンテの『神曲』は)本当は『神聖を装った喜劇』という意味(中略)全編にわたって、カトリック教会とローマ教皇に対する激しい憎しみと怒りを、高級な詩文の形をまとって書いている(中略)415年に、エジプトのアレクサンドリア(プレマイオス王朝、ギリシアの国)で、ヒュパティア(※地動説に気づいていたアレクサンドリア大図書館長の娘で女性解放運動の先駆者)という女性天文学者が虐殺されている(中略)殺したのは暴徒化したキリスト教徒たちだ。(※キリスト教徒)たちはヒュパティアに襲いかかって丸裸にし貝殻で全身の肉をそぎ落とした(中略)キリスト教というのは元々サイエンティフィックを大事にしない(中略)(※ミケランジェロたちは)イスラム教徒とギリシア人から多くの真実を学んだ(中略)ギリアシアの古典文献をずっと保持し研究し続けていたのはイスラム世界だった。キリストの聖書だけでなく、アリストテレスの思想も、北アフリカ回りでイベリア半島(スペイン)を経て入ってきた(中略)人は罪を背負って生まれてきた。だから、その背負っている罪をすべての人間がそれぞれ贖わなければいけないという思想を作ったのが、パウロ(Paulus ポール)(※パウロは上級市民の徴税役人)(中略)ペテロも(Petrus 初代のローマ教皇と後にされた)も、同じくこの「人間原罪説」を唱えた。この根本教義でローマ・カトリック教会はできている(※ペテロは12使徒のペテロとは別人。別時代の人)(中略)これは許しがたいことだ。このことにハッと気づいたからこそ、ルネサンス人たち、即ち新プラトン主義の人文知識人たちと、その支援者のメディチ家は、大きな真実を暴き立てて闘った。人間は生まれながらに罪など背負っていない(中略)ミケランジェロたちがそれ(※カトリックの嘘)に激しく抵抗して、本当のことを描き、彫刻し続けた(中略)人は皆、自分の生をできる限り楽しく、朗らかに、おおらかに謳歌すればいいのだ(中略)(※ミケランジェロの「最後の審判」では)キリストの左側のペテロやパウロははっきりと悪人として描かれている(中略)(※巨大な思想の偽造をやっているマックス・)ウェーバーは「第2のパウロ」だ。※引用者加筆.

理性の堕落は、イエスが亡くなって間もない頃に使徒パウロから始まった(中略)パウロは、ギリシアの哲学者たちは「問答」というアプローチに固執して盲目的になっているので地獄に落ちる、と語ったと伝えられる。四世紀には皇帝テオドシウスがキリスト教を国教に定め、聖書はあらゆる疑問の最終的な答えとなり、何かを問うこと自体が異端とみなされるようになった(中略)犠牲者の一人が古代アレクサンドリアの数学者にして天文学者で、哲学者でもあったヒュパティア(中略)(※その後)修道士たちは古代の書物の写本に明け暮れ、科学的研究を行おうとしなかった。知のネットワークは壊れ、文化の複雑さは後退(中略)しかし東方では、社会的規範は非常に異なっていた(中略)イスラムの学者たちはギリシアとローマの科学と医学の知識を取り入れ、それをペルシアとインドの伝統につけ加えた(中略)バグダッドは学問の中心になった(中略)学習の重視がイスラムの黄金時代を築き、科学の進歩を支えた。七〇〇年以上にわたって、科学の国際語はアラビア語だった(中略)アラブ人は戦争捕虜の中国人から紙の作り方を教わり、それまで使っていたパピルス紙や羊皮紙よりも安く迅速に情報を広める方法を生み出した(中略)(※八一〇年には)世界中の知識を集めると言う壮大な翻訳プロジェクトが始まり、異文化の学者を迎え入れる一方、資金を持たせたアラビア人の使者を世界の果てまで派遣(中略)学者たちはこれらの書籍をアラビア語に翻訳し、「知恵の館」に保管して研究した。一〇〇〇年前に破壊されたアレクサンドリアの図書館に匹敵する図書館を作ることが目的だった(中略)イスラム世界から流入した思想に刺激されて、キリスト教世界では古代ギリシア・ローマの思想が再発見され、科学と探検の分野で文芸復興(ルネサンス)が始まった(皮肉にも、このことはイスラム世界を暗黒時代へと追いやり、イスラム世界はそこから回復できなかった)。※引用者加筆.

ダ・ヴィンチは(※最後の晩餐で)イエス・キリストの左隣に妻であるマグダラのマリアを描いた。誰が見ても女だ(※男のヨハネではない)(中略)北方ルネサンスは、前期フランドル絵画の3人の偉大な画家である、ヤン・ファンアイクとヒロエニムス・ボッシュ(ボス)とピーテル・ブリューゲルが代表(中略)(※ミケランジェロには)全てを目撃した人間の凄さがある。人間を神の奴隷にしたローマ・カトリック教会との死ぬまでの闘いだった(中略)「ギリシア時代に戻ろう! あのすばらしかったプラトンのアテネの時代に戻ろう」というのが、ルネサンス(人間復興)運動(中略)カトリックのサクラメントの儀式と仏教、なかんずく大乗仏教の六道輪廻の思想はどうも根っこが同じ(中略)大乗仏教は東アジア全域に広がったローマ・キリスト教の変形亜種である。釈迦(ゴータマ・ブッダ)本人は、そんなものはまったく言っていない(中略)誰がずばぬけて賢い人間であるか、冷静に考えれば分かることだ。フリードリヒ2世は神聖ローマ皇帝なのにドイツに帰らなかった(中略)だからニーチェが彼(※ローマ教会からものすごく嫌われたフリードリヒ2世)を称賛したのだ(※賢く偉大な賢人①ロレンツォ、②フリードリヒ2世、ルターを匿った③フリードリヒ賢明侯)(中略)アウグスティヌスの父親の信仰はマニ教だった。お母様が敬虔なキリス教徒だった。マニ教はゾロアスター(ツァラトゥストラ)教の新装版(中略)ゾロアスター教が人類すべての宗教(ヒンドゥー教、仏教を含む)の源流であり、ここからすべてが流れ出したのではないか。このように大洞察したニーチェ ※引用者加筆.

若き仏陀は父親の宮殿を後にし、森の中で精神性の探求を始めた。ルーク・スカイウォーカーは、故郷の惑星を去り、銀河帝国の反乱軍に参加した(中略)このように苦労して手に入れた徳はとりわけ、私たち読者にとっての羨望の的となる。なぜなら、養育者の徳を単に受け入れただけの従順な子どもには見られない、人格の深みや本物らしさが現れているからである。

難しい呼吸法を習得する前にガンや病気にかかってしまった場合は、各種炭酸などに頼りながら習得することになる。ガンは酸性に傾くと増殖・転移しやすいので水風呂で酸性に傾いた体をこまめに弱アルカリ性に戻す必要がある。

関連リンク↓

https://note.com/wandering_1234/n/n1bc0bcd4a121

https://note.com/wandering_1234/n/n9975f31eb66e

https://note.com/wandering_1234/n/n2ce1db3082e8



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