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サッスーンはバグダット生まれでインド人のように肌が黒かった

ティッピング・ポイントの世界とは、予期せぬものが予期されるものとなる世界(中略)システムにおいては、特定の少数者がとりわけ重要な役割をはたしているということを意味している(中略)一握りの例外的な人々の努力によって広まっていくのである。もちろん、この場合は、彼らの際だっている特徴は性欲ではない。いかに社交的か、いかに活動的か、いかに知識があるか、いかに仲間うちで影響力があるかというような事柄で抜きん出ているのである(中略)彼らもまた自分の人脈、勢力、熱狂、そして個性を通じて、次から次へと伝えていった(中略)手紙が届くのにどれくらいの人手を経るかを想定してもらったところ、一〇〇人くらいは必要になるのではないかという答えが返ってきた。他の友人も同じような答えを出したが、じつは平均して五、六人なのだと教えると、誰もが驚くのである(中略)こんな少ない人手で、どうして遠方にまで手紙が届くのだろうか?(中略)ティッピング・ポイントに達すると、学校はあっというまに生徒を管理する力を失い、家庭生活は一気に崩壊することがある

情報分析官

芸術は人を癒し、インスピレーションを与え、脳内の化学反応を変化させる

病的に健康に気をつかっていたピカソ

アンデパンダン展で目にしたキリコの絵に興味を覚えたピカソは、作者の身元を探し当てるようアポリネールに頼んだ。ふたりは連れ立って地下にあるキリコのアトリエを訪ね、「そこで目にしたものにすっかり魅了され、キリコの作品を世に出すためにできるかぎり力を貸すことにした」(中略)一九一五年の夏に弟とともにイタリア軍に志願するためにパリを発つまでの間、キリコは自分で認めるより頻繁にピカソと会っている。

キリコ(引用者撮影)

(※キリコの)この絵では、過去に制作された3点の作品が、夢の中あるいは錯綜した記憶の中で融合されている。そのひとつは《愛の歌》で、 かつてロックフェラーが所有し、現在ニューヨーク近代美術館に収蔵 ※引用者加筆.

キリコ(引用者撮影)

三菱は米ロックフェラー財閥とつながっている(中略)ジャーディン=マセソン商会が、アヘンで稼いだ金を、香港からイギリス本国に送金するために設立された銀行が、まさしく香港上海銀行(HSBC)である。トーマス・グラバー商会は、その資本関係から証明されているが、ジャーディン=マセソン商会の長崎代理店である。トーマス・グラバーは坂本龍馬たちに支援した。すべては、つながっている(中略)高島炭坑は、一時、後藤象二郎が上海のジャーディン・マセソン社から借金して五五万円で引き受けたが、後藤とマセソン社の間で裁判沙汰となり、やがて八一年に三菱の岩崎が九七万円で買収した。つまり人々は全て裏でつながっているのだ(中略)イギリス戦略に乗せられて秘密の開国派のインナー・サークルに入った者たちは、表面上はずっと尊王攘夷派のふりをしたのである。そして本物の尊王攘夷派の純粋な者たちが次々に殺されて死んで行ったあとに、日本の権力者になっていった(中略)それから本物中の本物の尊王攘夷派は土佐の武一瑞山が率いた土佐勤王党である。彼らも土佐に連れ戻され全員が処刑された(中略)毛沢東は、1960年代に日本からやって来た社会党などの代表団に対して、「そんなに戦争中に、日本が中国に悪いことをした、と謝らなくていい。日本軍のおかげで私たちは建国することができた」と言った。当時の日本の大蔵官僚のトップで、星野直樹という人がいた。この人が中国での麻薬の密売ビジネスに関わっていた。「弐キ参スケ」と呼ばれる5人の男で満州国は動かされていた。東条英機、星野直樹、鮎川義介 岸信介、松岡洋右の5人(中略)坂本龍馬に対する解釈を変えないとダメですね。彼はジャーディン・マセソン社の手先だったという大きな事実がある(中略)そのとおり。ジャーディン・マセソンはアヘン商人であり、武器商人ですからね(中略)ジャーディン・マセソンと、サッスーン財閥がアヘン戦争(1840〜1842年)の元凶です───副島隆彦氏(著書名失念)

1896年、山口県山口市生まれ。郷土の大先輩である吉田松陰とその門下生・高杉晋作に憧れていた岸は、晋三と二歳違いの兄の寛信が幼い頃、長州が生んだ二人の偉人の話を、孫たちに寝物語に聴かせていたという(中略)晋三の「晋」の字は、高杉晋作から取られた。

キリコ(引用者撮影)

吉田松陰だ、高杉晋作だと騒いでいる今の世に、手塚律蔵の名を知っている山口県民が何人いるだろうか。山口県を訪れて尋ねても、まず知っている人に会ったことがない。幕末にこの手塚律蔵を殺そうと斬りかかったのが、維新の志士から成り上がった明治時代の初代総理大臣・伊藤博文と外務大臣・井上馨というゴロつきだった(中略)写真術を習得して『写真鏡起源』を書いた。手塚律蔵・中島治平・小野為八のような人物こそが、山口県の歴史に誇るべき文明開化の賢人(中略)今の人が聞けば二の句が継げないほど驚くに違いないが、明治維新を主導した集団は、長州萩藩(山口県)に松下村塾を開いた吉田松蔭が「朝鮮、満州、台湾、琉球、フィリピンを手中に収めて日本を豊かにせよ」と門下生に強く説いたのだ。このように、隣国を侵すことが泥棒・強盗と同じ悪事であることなら、一〇歳の子供でも分かるというのに、この呆れ返るほどのアジアへの海外侵略思想の松陰を賛美したのが、その師の佐久間象山であり、これらの人物に関する伝記類はみな同じ、幕府批判と明治維新賛美の論調に満たされている。明治維新がその後の日本にいかなる侵略主義をもたらしたかについて、まったく反省していないことは、どう見ても恥知らずとしか思えない。佐久間象山も、日本が「五大州を巻いて皇朝に帰せしめ、皇朝をして永く五大州の宗主たらしめよ」とまで書き、天皇王朝が全世界(五大州=五大陸)を制覇する、というトンデモナイ世界征服説を自ら公言している。これは、アメリカに対して真珠湾攻撃を仕掛け、太平洋戦争を起こした時代に狂気の大日本帝国軍が唱えた「八紘一宇(はっこういちう)」とまったく同じだ。すなわち八紘とは、四方と四隅、地の果てを意味し、転じて全世界のことなので、日本が世界の頂点に立って「一つ屋根のもとに統一する」という軍事侵略政策(中略)明治元年一二月一四日(一八六九年一月二六日)に明治政府首脳として木戸孝充が岩倉具視にこう建言した。──速やかに天下の方向を一定し、使節を朝鮮に遣わし、彼の無礼を問日、彼若し不服の時は罪を鳴らして其の土(国土)を攻撃し、大に神州(日本)の威を伸長せんことを願ふ──この言葉を分かりやすくいえば、朝鮮に言いがかりをつけて侵略しろとけしかけたのだ。かくして明治八年(一八七五年)には日本が、早くも朝鮮に軍艦を乗りつけ、釜山に上陸して民家を焼き払う江華島事件を引き起こし、吉田松陰思想を受け継いだ木戸孝充、伊東博文らの長州人を柱にした明治政府が、松陰の教えに従って朝鮮侵略を開始したのだ。一九四五年の日本敗戦に至るまで、実に七〇年間の愚かな侵略時代を続けた(中略)さらに東北・米沢藩(山形県)出身の宇加地新八は主権在民と民選議員、男女の投票権の必要性を訴える建白書を出すや、この日本の民主化必要論を唱える者に対して、木戸孝充は明治政府の威光を笠に着て、それを握りつぶして、徹底的に弾圧した男でもあった

キリコ(引用者撮影)

グラバーとフリーメーソンリーはなんの関係もないのである。そもそも、フリーメイソンになれば名簿に名前が記載されるはずだが、トーマス・ブレーク・グラバーの名は、長崎や故郷アバディーンのメイソンロッジにもなく、彼がフリーメイソンであった証拠はどこにもない(中略)グラバーは岩崎弥太郎の三菱財閥から金をもらって余生を暮らしています(中略)実は、この時代にやってきた商人たちは抜け目ないという意味も含めてかなり優秀であった。その筆頭がジャーディン・マセソン商会だろう。同社はタックスヘイブンであるバミューダ島に本社を置き、フォーチュン500にもランクインする世界最大級のコングロマリットとなっている。日本人に馴染みのあるグループでいえば、マンダリン・オリエンタルホテルがある。もっとも同社の前身が東インド会社(中略)イギリス東インド会社の元船医で貿易商人のウィリアム・ジャーディンとジェームス・マセソンの二人はスコットランド人ですが、ディヴィッド・サッスーンはバグダット生まれでインド人のように肌が黒かった

長州ファイブを留学させたのはジャーディン・マセソン商会であり、薩摩スチューデントを留学させるために尽力したのはトーマス・グラバーだ(中略)焼き討ち事件には山尾庸三も参加している。つまり、長州ファイブのうちの3人までもがイギリス公使館焼き討ちの犯人なのである(※高杉晋作も3人のうちのひとりで、イギリス公使館焼き討ちの犯人でテロリストとして逃亡)(中略)現在の歴史では、これらの辻褄を合わせるために「彼ら改革派は外国勢と戦っても勝ち目がないとわかっていた。だから、いまはその文明を学び、富国強兵を成し遂げたところで攘夷を行えばいい、と考えていたから」などという苦しい言い訳をしている。しかし、そんなものは詭弁だろう(中略)開国派は全員外国勢と通じていたのである。であるのに、イギリス公使館を焼き討ちするのはどう考えても間尺に合わないのだ。しかし、外国勢とはイギリス政府やフランス政府などではなく、もうひとつの勢力、国際金融資本家たちだ、とわかれば疑問はたちまち氷解する(中略)彼らの敵はどこまでも外国であった。そういう意味では、薩長のエージェントたちは最初から最後まで攘夷を行っていたのである(中略)彼らがつながっていたのは外国勢であっても、外国の政府ではない。日本が外国勢に戦争を仕掛ければ、莫大な利益が期待できる国際金融資本だったのだ(中略)戦争さえ起これば、当事国の通貨が使えなくなる。彼らはそれを狙っていた(中略)(※伊藤博文)は明治新政府の大蔵大輔となった時、政府の中で唯1人、金本位制を採用するよう主張した。当時、世界は銀本位制であり、金本位制だったのはイギリスぐらいだった。そして結局日本は金本位制を採用する。実は金本位制は国際金融家たちが推進する制度(中略)明治維新になると、ご存知のとおり薩摩長州の支配体制が日本に敷かれます(中略)彼らがモデルにしたのは、おそらくイギリス国教会でしょう。イギリス国教会はプロテスタントでありながら、頂点に君臨するのは王様です。不思議なことに、プロテスタントの思想に巧みに三位一体的な考え方を取り入れいます。大ざっぱにいえば、王様がプロテスタントとカトリックのいいとこ取りをしている(中略)幕末維新は調べれば調べるほど混乱してしまうのは、イギリス側をイギリス政府と読み違えてしまう点にある。何度も言及しているが、イギリス政府は戦争に反対であり、(※日本の幕末の)内戦に関わることを極力避けようとした(中略)さて、ロンドンに着いた5人はやはりマセソン商会の支配人ヒュー・マセソンの斡旋で、下宿先を探してもらう。 井上と山尾は画家のアレキサンダー・クーパーの自宅に下宿し、伊藤、遠藤、野村の3人はユニバーシティ・カレッジの化学教授のアレキサンダー・ウィリアムソン博士の家で生活するようになる。ちなみに、アレキサンダー・ウィリアムソンの父は東インド会社で書記をしていた ※引用者加筆.

郷土史研究家の松田智幸氏によって、平成12(2000)年に高知県で発見された古文書がある。それは土佐藩公文書の写本と龍馬の手紙であった。この古文書で判明したのは、龍馬の江戸遊学の一回目(1853年)の目的は、高島秋帆の砲術の習得であり、2回目(1855年)は築地の軍艦操練所への派遣だったという。だから龍馬は藩の命令で動いていたのだ。龍馬が17歳のときの一回目の江戸遊学では、佐久間象山の塾で西洋砲術の設計と弾道計算、オランダ語と英語を習っている。そして19歳での二回目の遊学は、ペリーの黒船来航(1853年)を気運として再び藩命で軍艦操練所に遣わされた。このことから龍馬は土佐藩きっての洋式砲術のエンジニア(engineer)となっていたことがわかる。藩主から秘密裏に幕府の最新軍事情報を探る密命を受けていたのだ。坂本龍馬は二度目の江戸留学中の安政3(1856)年、22歳のときに千葉周作道場(玄武館)で剣術修行をした。そして遺品の「北辰一刀流長刀兵法目録」を根拠として、龍馬は免許皆伝を許された剣の達人だとされている。しかし、長刀とは日本刀ではなく、「薙刀(なぎなた)」のことだ。しかも、この「兵法目録」とは、受講修了書みたいなもの(中略)北辰一刀流の薙刀の「いろはの “い” (初級コース)」を修めました、という程度のものらしい。おまけにこの目録には千葉周作の娘(佐那、里幾、幾久)が連署している。とても正式とは思えない目録だ。龍馬を娘の婿にさせようとした周作は、頭脳の明晰な龍馬に剣術で怪我をされては困ると、娘たち相手の薙刀しか触らせなかったというのが真相だろう。勝海舟も佐久間象山の私塾に入門した弟子である。そして海舟は象山の妹を嫁にもらっている義弟だ。この関係で勝海舟と龍馬は同門となり、その出会いは縁者同士のなごやかなものだった。ところが、晩年に、“ホラ吹き伯爵” の勝海舟は「才谷梅太郎(龍馬の変名)は俺を斬るためにやってきた。だが、俺が説得すると改心した」などというデタラメを新聞記者に述べたのはなぜだろうか? それは勝海舟が、大久保一翁という大目付の命令で開国派の蘭学者の中に潜り込んだスパイだからだ。海舟は、早く死んだ龍馬、そしてその背後の土佐藩と自分の関係が知られることを恐れた。そのため、龍馬の思い出話を尋ねられ、龍馬は単純な頭をした攘夷派だったということでごまかした(中略)坂本龍馬や高杉晋作と同時期に活躍していたのが福沢諭吉(中略)実は、日清戦争の黒幕というべき人物が福沢諭吉(中略)松平康英の屋敷に呼び出された福沢諭吉は翻訳を開始(中略)福沢諭吉はここで大失敗をやらかすのである。イギリスからの要求である「生麦事件でリチャードソンを殺した犯人を差し出せ」を、「島津久光の首を差し出せ」と誤訳したのだ。この時英国側は戦争をするつもりはなく、賠償の受領が主たる目的であったのだが、薩摩側はそのようには思っていなかった。というのは、諭吉たちが二月十九日に訳した外交文書の中身が間違って伝わっていて、薩摩側は英国が島津久光の処刑を要求していると勘違いしたからである。(平山洋『福沢諭吉』176ページ)(中略)イギリスは外交文書が福沢の手で書き換えられていることを知らなかったのだ。薩摩側は福沢の書き換えた文書にびっくりして、このような要求は呑めないとイギリスとの戦争を覚悟した。薩摩では人望厚く、強いリーダーシップをもった島津久光をイギリスに差し出すなど、ありえない選択であった。イギリスと薩摩藩は福沢諭吉の誤訳によって衝突する羽目になったのである(中略)私は福沢諭吉はわざとミスしたであろうと考えている。その根拠に福沢諭吉がこの翻訳作業でミスするのはありえないことだからである。どういうことかというと、翻訳の場に幻の五人目であり福沢の大親友・箕作秋坪がいた可能性があるからだ(中略)意図的な歴史の捏造を平山洋は行っているのだ。平山洋と福沢諭吉にとって、箕作秋坪は切れ者で英語がよくできた。その箕作秋坪がチェックすれば、福沢の誤訳などすぐにわかって、訂正できたはずだ。箕作秋坪が見過ごしたということは、福沢諭吉は誤訳したわけではなく、わざと間違った翻訳をしたのである。箕作秋坪と福沢諭吉は共謀してイギリスと薩摩藩の双方を操って激突させたのである。これに上司の松平康英も加わっていただろう。福沢諭吉も箕作秋坪もお咎めなしで出世していくのである。イギリスを暴走させた功労者というわけだ。考えてみれば、松平康英たち三人は遣欧使節団で一緒だったのであり、そのときにイギリスと薩摩をぶっつけるという作戦を立てたのであろう。恐ろしい謀略家たちだ。

キリコ(引用者撮影)

利権に飢えたのは岩倉具視だが、その曾孫・岩倉靖子は、治安維持法で検挙され、赤化華族事件で裁判にかけられ、収容されていた拘置所から出て間もなく、一九三三年一二月二一日に自らその尊い命を絶った。満州国建国の翌年・・・・・わずか二十歳の生涯であった。

キリコ(引用者撮影)

慶応三年(1867)10月14日 岩倉具視が画策したニセの「討幕の密勅」が薩長に下される(中略)本当は、龍馬暗殺の真相は謎なのではなく、彼の裏切りの理由が新政府の禁忌に触れてしまうから謎にせざるをえなかっただけだったのだ───苫米地英人博士(著書名失念)

例のフルベッキ群像写真です。あの写真の中には西郷も大久保も坂本もいませんでしたが、岩倉の2人の息子、岩倉具定と具経は映っていました。岩倉の息子はフルベッキの弟子だったのです(中略)佐賀藩の命で長崎に設立された致遠館に集った学生たち、いわゆる「フルベッキ群像写真」。1869年、フルベッキ(中央)が東京を去るのに際して写真師・上野彦馬によって撮影された(中略)フルベッキという人物は、1859年にアメリカから長崎にやって来た(29歳)。元々はオランダ人である。22歳(1852年)の時にオランダからアメリカに渡った人だ(中略)フルベッキの給料は年間1000両であったと言われている。この金額は今で言えば年棒10億円くらいの破格なものであった。だから、大隈重信はフルベッキの一番弟子であった。この事実が重要である(※のちにフルベッキの通訳となり、三菱ロックフェラーに対する政府の保護政策を推進したのが参議兼大蔵卿の大隈重信。またイギリス公使ハリー・パークスとも対峙した。三菱ロックフェラーと対峙していたのが三井ロスチャイルド、三井ロスチャイルドの渋沢栄一)。※引用者加筆.

キリコ(引用者撮影)

岩倉具視(1825〜1888)の息子の岩倉具定(1852〜1910)と具経(1853〜1890)が致遠館でフルベッキから直接英語を学んだ関係もあって、フルベッキは岩倉の顧問格になった(中略)明治新政府(太政官政府)が出来るとすぐに、小松帯刀(※本当は、西郷隆盛や大久保利通よりも薩摩藩を率いた人物。薩長同盟もこの人と長州の木戸孝允が結んだ。大隈は部下)は大隈重信を外国事務局判事・外国官副知事(現在の外務副大臣)に抜擢(中略)五代は薩摩閥の頭目・西郷に嫌われていた。このために、自身の出身である薩摩閥で居場所がなかった。だから、大隈重信と盟友関係を築いていった(中略)五代を引き立てたのは、やはり薩摩藩家老であった小松帯刀であった。小松は、明治維新で活躍した真のリーダーであり、西郷隆盛や大久保利通でさえも頭が上がらない存在(中略)(※五代は)西周(1829〜1897)たちと、フリーメイソンの会員として、共同して、日本の将来像を話し合っている(中略)五代友厚が大隈重信と共に大阪で何をやったか。それは造幣局の設立(中略)五代友厚は、長崎時代から深い付き合いのトーマス・グラバーの仲介で、香港造幣局で使われなくなっていたイギリスの造幣機械6万両(6万ドル)で買い入れる契約を結んだ(1868年)。この機械に刻印されていたのが中国で使われていた「(ユアン)圓(円)」という貨幣単位を示す漢字であり、これがそのまま明治日本の新しい通貨単位となった。五代友厚は造幣寮(後に造幣局)の大阪での建設が決定すると、辞職して実業界に飛び込んだ。彼が実業の世界に入った1869年にまず作ったのが、金銀分析所であった。五代は、この金銀分析所で明治新政府による新しい貨幣の製造に合わせて、これまでの金貨や銀貨を正貨、贋金を問わず全国から買い集め、その内容物を分析し、それぞれを融かし、純度の高い金属の塊(のべ棒)にして、造幣局におさめるという事業を行った。これは五代の独占事業であり、巨利を得ることになった。また、五代友厚は貴金属の確保を進めるために、既に見つかっていた全国の金・銀・銅の鉱山経営に自ら乗り出した。それらを管理するために、大阪に本部機能を持つ弘成館を設立した。五代は日本の新しい通過、円の原料を押さえてしまった。これで巨万の富を得て、大阪での地歩を固めた(中略)五代友厚については、今でもその人となりは、出身地の鹿児島でも知られていない(中略)龍馬は形だけで、さっさとお免状がもらえる薙刀(なぎなた)の免許皆伝だった(中略)幕府の極秘情報を勝(海舟)から提供されていたアーネスト・サトウ(中略)幕府は薩摩藩が行っていた密貿易を探索していた。ちょうど長崎にいて、船を操縦できる勝に探索を命じた。勝は隠密の仕事もしたのだ。しかし、この時の幕府の探索は鹿児島領内までに留まり、琉球への探索はなかった。島津斉彬と勝のあいだで談合があり、勝はそれを見逃すことで島津斉彬に恩を売ったのだ。ここで両者はつながった。※引用者加筆.

キリコ(引用者撮影)

主権国家の場合、警察庁、検察庁(権力者は起訴しないという機関、そのため司法も司る準司法)、最高裁判所(総務省)で構成されるが、非主権国家の場合、例えば日本ではその上にマクロビオティックの出口一族があると言われている。森友問題の発端は、安倍元首相夫妻(統一教会CIAと言われる)が出口光氏にあることを言われたことだと一部メディアで報じられている。

関連リンク↓

https://lite-ra.com/2018/10/post-4317_5.html

https://www.excite.co.jp/news/article/Litera_litera_10473/

https://blog.goo.ne.jp/activated-sludge/e/34b124fbd85eedd3ad3844bff624271b?fm=entry_awc

https://note.com/wandering_1234/n/nfdd72dd8b71a

https://note.com/wandering_1234/n/nad3378941728



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