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鈴木孝夫先生講義 言語学概論の思い出

鈴木孝夫先生の言語学概論の講義を受けていた頃から、もう20年以上経つ。当時、私は何の知識もない大学1年生で、先生の豊富な知識に、「とても同じ人間とは思えない」と衝撃を受けた。

70歳を過ぎていたが、はっきりした口調でよく話す元気な人で、大教室でたくさんの生徒を相手に、休むことなくずっと話し続けた。講義の内容は、「これは私が初めて発見したこと」ということばかりで、生物学の分野から言語学に関係することを発見したり、誰も思いつかない発想が面白かった。

経歴も驚きだった。医学部に進学し、その後、言語学、生物学を学んだ。いくつかの海外の大学に行っていた時期もあり、とにかく様々なことを学び、研究したようだ。

何冊も本を書いていた。
締切ギリギリになるといいものが書けることがあるなどと、人間らしい話も時々あった。順調に準備することで必ずしもいいものがてきるとは限らないと。
親近感が湧いたのを覚えている。

一方でもったいない精神からか、服はもらうか、拾うかしているといい、落ち着いた黄色と緑色のチェック柄のジャケットをいつも着ていた。ちなみに、これは拾ったものだと言っていた。

当時の大学の若手教授たちからは、鈴木孝夫先生の講義が受けられるとは君たちは運がいい。と羨ましがられた。
ある教授からは成績がAではなくBだと大物になるというジンクスがあると聞いた。
ちなみに私はBだった。まだまだこれからなのかもしれない。

先日、昨年亡くなられていたことを知った。
いつも元気に喋り続ける印象で、この方はいつまでも生きている方だと思っていたので、訃報を知りかなりショックだった。

私が講義を受けていた当時、「教養としての言語学」が岩波新書から発売された。サインを書いてあげるから皆並びなさい。と言われ、受講者の長い列に並びサインをいただいた。後にも先にも、鈴木孝夫先生に近づいたのはその時だけとなった。今でもその本は本棚にある。

まえがきを読み返してみて、驚いた。自分の研究に夢中でそのことばかりを考えている人かと思っていたが、実は学生の教養や将来について考えていたことを改めて知った。
当時も読んだはずなのに、ちっともピンときていなかったようだ。

教養とは。
知識を自分の中で位置づけ、行動の指針となるような方向性をそだてること。自分でものが考えられ、自主的に行動できる人間を造る準備作業。

教養をどのように教えるか。
教える側の先生が自分の価値観、生き方を踏まえて主張することが大切。
鈴木孝夫先生が、「私の考えでは」を多く使ってきたのは、言語学を通して私はこのように考え生きてきたという点に、講義の主眼を置いてきたため。

講義中によく耳にした「これは私が初めて発見したこと」という自信に満ちた無敵の発言には、私達に教養を教えこむ意図があったのだと今やっと気付いた。

これを機に改めて「教養してのと言語学」を読み返し、少しずつまとめていこうと思う。年を重ねた今の私が新たに何を感じるのか楽しみだ。


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