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「都市にはラーメンを食べて死ぬ自由があり、孤独に瞑想するための場所がある」という話

天の邪鬼な奴だと感じる人もいるかもしれないのだけど、僕は「飲み会」的な文化(人間関係中心主義)やどうしても「飲み」中心になってしまう大人の「遊び」の貧しさには批判的だけれど、逆に「健康」という観点から飲酒や喫煙を批判する厚生労働省的なイデオロギーにも同じくらい批判的だ。

実のところ僕自身は、かなり健康に気を使っている(これは完全な「自慢」だが、僕の健康診断の結果はこの2年間ほぼオールAだ)が、それは僕が個人的に健康の優先度を上げているだけで、どう考えても「酒をガバガバ飲んで、タバコをスパスパ吸って、ラーメン食べまくって早死してもいい」という人「も」いたほうが世界が多様になると思うし、そもそもこの程度の自由を許せない社会は(「愚行権」という言葉を持ち出すまでもなく)、ただの全体主義だと思うのだ。(そしてこの立場は、陰湿な「飲み会」の欠席裁判文化や「酒を飲む」成人男性中心の都市設計を批判することと、まったく矛盾しない。)

しかし今日の社会保障費の肥大と、それに後押しされる治療医学から予防医学へのシフト……といった文脈では、割と平気な顔をして「健康」を錦の御旗にした全体主義のような言説が出てくるので、さすがにびっくりすることがある(中学校の頃に「公民」や「世界史」を履修しなかったのだろうか……)。

先日もある勉強会で、このような話が出た。平均健康寿命の長い日本のある農村では、基本的に家に鍵をかけない。それは村民全員が「知り合い」であるためだ、と。美しいエピソードとして紹介されているが、「津山三十人殺し」はこうした「全員が知り合い」の閉鎖的な共同体で発生した惨劇であることは付記しておいたほうがいいだろう。それはそうとして、この村も、唯一「鍵をかける」ときがあるという。それは一週間以上の長期の旅行に出るときだという。なぜか。それはこの村の人々は、余った農作物などの食べ物(生鮮食品)を近隣の人の家に勝手に置いていく文化があり、一週間以上不在なのを知らずにそれらの食品が置かれると、帰宅後に家が腐敗した食材で大変なことになってしまうから……ということだそうだった。ポイントは、「一週間不在にすることを知らせないくらいの仲でも食べ物を分かち合う、程よくゆるいつながり」がこの村にはある、ということだ。

これはよく言われることだが、社会的なつながりが絶たれた孤独な人間の平均寿命は短い。社会的に孤立していると不摂生な生活をしがちである……という傾向が統計的に明らかにもなっている。もちろん、共同体の相互監視は人間の自由を奪いハラスメントの温床になるが、この程度(一週間家を空ける用事があっても、そのことを言わない)の「ゆるい」関係性であれば、その可能性も低いのではないか……というのがこのエピソードのメッセージだ。

しかし、僕は思った。「絶対に僕はこのムラには住みたくない」と。

そもそも、近所の人に生鮮食品を勝手に置いていかれる、というのは……少なくとも僕は嫌だ。いや、気持ちはありがたいけれど生鮮食品はやめてもらいたい。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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