「オタク」が「ネトウヨ」や「冷笑」に流れないために必要なこと
僕は先週、一見無関係なふたつの文章を書いた。
片方は村上春樹についてのもので、その歴史への(当時としては)ユニークなアプローチで世評の高い『ねじまき鳥クロニクル』ではなくそれ「以前の」村上作品に可能性を見出す、という趣旨の文章だ。『ねじまき鳥クロニクル』的な歴史へのアプローチはすでに今日のインターネットに上書きされており、それを踏襲してもせいぜい「逆張り」的なリベラル嫌悪でコンプレックス層を動員するカルトな共同体を生むくらいしかできないのではないか、と僕は考えている。それよりももしろ、80年代の村上春樹を批判的に読むほうが、手がかりが見つかるのではないかというのがこの『めくらやなぎと眠る女』評の趣旨だ。
もう片方は昨日(8月9日)に書いたもので、長崎市のイスラエルへの事実上の抗議と言っても良い態度表明を支持する内容だ。この文章では最終的に加藤典洋『敗戦後論』について言及している。加藤の「国民」としての主体を再構築するために加害者(日本人の犠牲者)のケアを優先するという提案は歴史修正主義者たちに政治的に利用されてしまうだろうという高橋哲哉らの危惧は、残念ながら正確だったと言わざるを得ない。しかし高橋らの旧態依然としたアプローチはなんら、現状に批判力を発揮しない(「ねじれ」を解消しない)ことも明らかだ。
そこで僕が提案したのは国家と「健全に」結びついた主体を再構築しようとする加藤的な主体に対し、国家と「あまり結びつかない」主体をベースにしたアプローチだ。この主体は転勤族や移住者の精神性をもつ主体と言い換えてもいい。その土地に暮らし、愛着も持つのだけれどアイデンティの一部としか結びつかない。だから日本の侵略行為を、人間一般の問題として正しく批判できるし、日本人として謝罪することもできる。ここには、そもそも加藤の言う「ねじれ」(侵略の反省という「建前」と、侵略に正当性があったと考える「本音」)の分裂が発生しない。そもそも、その人は日本人で「も」ある、程度にしか考えていないからだ。
ただこのアプローチは不用意に用いると、村上春樹と同じ罠に陥る。つまりその主体が弱ければ(たとえば今日の「ネトウヨ」のような主体ならば)簡単に彼らは「日本人である」ことに誇りを持つことで精神の安定を保つ卑しさを身につけるだろう。
ではその「弱さ」はどう補われるべきか。少なくともそれは『ねじまき鳥クロニクル』のように「女性」(の所有による男性性の強化)ではないだろうし、近年の村上作品で提示されるような「家族」(現代的なポストファミリー)による「父性」の軟着陸というか、延命でもないだろう。これらのアプローチはかねてからフェミニズムが批判する、親密圏で誰かを「所有」することで強者が精神の安定を図る家父長制的な構造への依存を断ち切れていない(むしろ再強化している)。これを認めたくないおじさんは多いだろうが、世界でもっとも醜いのはオーナーや管理職だけが楽しい職場飲み会とパパだけが楽しい家族の観光旅行だ。
では、どうするか。僕の考えは、自己の強化を求めないことだ。それも修行者のように我慢して自己幻想を捨てる、とかではなく自分の外部にある事物を貪欲に求めることで精神がいっぱいになる……といったイメージだ。要するに、かなり受動的な主体を考えているのだ。
補助線になるのは國分功一郎の議論だ。
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u-note(宇野常寛の個人的なノートブック)
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