見出し画像

続『不適切にもほどがある!』と「テレビ」の問題

さて、昨日に引き続き『不適切にもほどがある!』の話だ。

昨日の記事をざっくりまとめると、ゼロ年代初頭(『池袋ウエストゲートパーク』『木更津キャッツアイ』)のクドカンの批判力は、90年代的な自意識と心理主義とスノビズムに対して、マイルドヤンキー的な「ジモト」の閉じた時空間を対置したところにあった。これが、先鋭化してコミュニティを自己解体し、ばらばらの「個」の連鎖になっててしまったものが『マンハッタンラブストーリー』であり、その反動で浅草という古い街の「大家族」に回帰したのが『タイガー&ドラゴン』だった。そして以降、クドカンは基本的に後者をいかに拡大していくか、という路線になっていく。

要するにファスト風土化する郊外を肯定するのか、人情下町商店街に回帰するのか、という問題がここにはあった。クドカンは最初から後者に傾いていたが、「池袋」や「木更津」という「ダサい街」をそこがタテのつながり(家族、伝統)よりもヨコのつながり(仲間)との関係の場である限りは、前者の路線を包摂する可能性があった。しかし、『タイガー&ドラゴン』以降のクドカンはその可能性に結果として背を向けた。『うぬぼれ刑事』は、もう一度「ヨコの関係」を思い出して、その可能性を追求した結果、いい歳をした男性たちが毎晩バーで恋バナをしている……というかなりサムいビジョンを提示してしまう結果になり、以降、今日までこの路線が顧みられることはなかった。それは、長瀬智也という少し年下の俳優の身体を借りて、男性の成長物語を反復してきたクドカンの作劇に、いったん区切りがついた瞬間だったはずだ。

そして『あまちゃん』(2013)では、「朝ドラ」のフォーマットのもと、自分の分身ではありえない少女(アキ/ユイ)の物語が描かれる。舞台は東日本大震災前後の三陸地方で、そこでは第3セクターで運営される鉄道の赤字路線が「地元」の象徴として登場し、ヒロインを見守る大人たちは駅前のスナックで、テレビや歌謡曲の話をしながら仲間内で薄ら笑いを浮かべて、衰退する地方の現実をやり過ごしている。

地域おこしアイドルを目指すヒロインが遭遇する東京のSNS以降のライブアイドルの世界は時代の病として否定的に描かれ、80年代のテレビアイドルが称揚される。そして、東日本大震災が露呈させた「昭和」的なものの負の遺産とは向き合わずに物語は表面的な「復興」にエールを送り幕を下ろす。田中角栄的な国土の均等開発のもたらした身の丈に合わないインフラ整備と箱物(その目玉商品が原発だ)に依存した地域経済の問題、封建的な村社会の閉塞性など、すべての問題をスナックでの内輪話と「テレビ」ネタのクスクス笑いで「やりすごし」て「なかった」ことにする……。この態度が「国民的支持」を得たことの意味を、僕たちは過小評価してはいけないだろう。

そしてクドカンが大河ドラマに挑戦した『いだてん』では、「国策としてのオリンピックはダメだけれど、テレビポピュリズムとしてのオリンピックは素晴らしい」という立場から日本の近代史が描かれた。おい、ふざけんなよというのが僕の率直な感想だ。

国策としてのオリンピックに反吐が出るというのはまったく同感だけれど、僕はそれと同じくらい「みんな」で同じ夢を見ているのが素晴らしいという考えに反吐が出る。昼休みに「みんな」でサッカーをやりたいというのは、大いに結構だ。しかしそれは昼休みに教室で本を読みたい人間の権利を侵害しない範囲で行われるべきだし、そのリソースを奪うべきでもない。

ビートたけしも石橋貴明も松本人志も、人生で一度も面白いと思ったことがなく、はっきり言って大嫌いな人間から言わしてもらえば「国策としてのオリンピックはダメだけれど、テレビポピュリズムとしてのオリンピックは素晴らしい」というのは、クラスの真ん中でふんぞり返りながら昼休みは男子全員でサッカーをやるのが「正しい」と思っている人間の発想で、僕のようにその人数合わせのために校庭に動員されるのを拒否する(そのせいでクラスで孤立する)人間のことなんて、1秒も考えたことのない人間の発想なのだ。そしてそれは、とても「テレビ」的な発想だ。

僕は『笑っていいとも』のどこが面白いかまったく分からなかった。いや、メカニズムは理解できる。昼休みに芸能人たちの「内輪」話で盛り上がっているのを生中継されて、それを毎日見ていると自分も「友達の輪」に入ったような気になって楽しくなる、というわけだけれど、僕はその「内輪」をまったく魅力的には感じたことがなかった。要するに、これはマイナーな感性というものが世界にあることも、そのことが世界の文化的多様性を担保していることも理解しない人たちの文化なのだ。正確にはこのマイナーな感性を当初は戦略的に切りすて、やがて継承の中で完全に忘れてしまったのがこの国の「テレビ」文化であり、そしてクドカンもその枠内で世界を見ている作家なのだ、ということだ。

そしてこの「テレビ」的な思考停止は本作『不適切にもほどがある!』にも大きな影を落としている。

要するに、批判を浴びていた政治的に不用意、というか当事者に失礼な「いじり」はまず、こうしたテレビ的な傲慢さに対する無自覚に起因するものだ。加えて言うなら、これは80年代以降のテレビ、広告的な価値観ーー「何を」語るかではなく「どう」語るかを考えるーーの限界の露呈でもある。

ここから先は

2,068字
僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

僕と僕のメディア「PLANETS」は読者のみなさんの直接的なサポートで支えられています。このノートもそのうちの一つです。面白かったなと思ってくれた分だけサポートしてもらえるとより長く、続けられるしそれ以上にちゃんと読者に届いているんだなと思えて、なんというかやる気がでます。