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『不適切にもほどがある!』と「テレビ」の問題

昨晩、成馬零一さん、三宅香帆さんと3人で先日完結したテレビドラマ『不適切にもほどがある!』についての座談会を行った。今日は、そこで考えたことを改めて書こうと思う。

ちなみに僕はこの作品に寄せられたポリティカル・コレクトネス的な批判について、特に付け加えることはなく、これらの批判は概ね正当なものではないか、と考えている。しかし今日僕がここで述べたいのはもう少し別のことで、それはこの宮藤官九郎という作家が体現している「テレビ的なもの」、あるいは80年代ー90年代、つまり「平成」的なものの限界、という問題なのだ。

僕が最初に「クドカン」を意識したのは2000年の『池袋ウエストゲートパーク』だったように思う。「渋谷」ではなく「池袋」、カッコつけるのではなくつけないこと、「ストリート」の「不良」ではなく「ジモト」の(今日で言うところの)「マイルドヤンキー」的なバイブス……こういった新しさで、90年代的なもの(たとえばトラウマ心理主義)を一気に相対化する力が、この作品には確実にあった。続く『木更津キャッツアイ』では、戦後的な中流幻想や「上京」が象徴する自己実現の物語が、より明確に前述のマイルドヤンキー的な「仲間」主義を掲げて相対化された。

岡崎京子がウットリと「平坦な戦場で僕たちが生き延びること」とウィリアム・ギブソンの詩を引用したときに、申し訳ないけれど僕はそれがただの自意識過剰にしか見えず、ものすごく白けたものだった(ここに、団塊ジュニアの「サブカル」の人と僕との感性との隔たりが表れているように自分でも思う。しかし実際にそう感じたのだから、仕方ない)。そこが「平坦な戦場」なのか単なる「戦線の後方」でしかないと考えるかは、微細なようでいて決定的な差異なのだ。そして後者の立場から考えたとき、圧倒的に『木更津キャッツアイ』(2002年)の「平坦な戦場=終わりなき日常(宮台真司)」を、末期がんの主人公の視点から「終わりのある日常の幸福」感で相対化する視線のほうが刺激的だったのだ。

しかしこれらの作品の「ジモト」観に、僕は「半分」しかノレなかった。そのベースにある人情下町的なコミュニティのようなものの美化への抵抗感、だったと言い換えてもいい。『木更津キャッツアイ』に登場するホームレスの男性(オジー)を、ジモトのコミュニティは暖かく迎え入れているが、実際のああいったコミュニティがマイノリティに優しくあることは、とても難しいのではないか、という経験的な実感があったからだ。たとえあるマイノリティには優しくても、別のマイノリティは共同体の結束を固めるための生贄として排されているのではないか……。実際に自分があの池袋や木更津の商店街に暮らしたいか、と問われたときに、素直にそうだと言えない自分がいた。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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