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ニューヨークで考えた現代の「都市」が失った機能とその意外な回復方法の話

SNSに逐一投稿するのが面倒だったので、ここで知る人も多いと思うのだけれど実は先週に5日間ほど、仕事でニューヨークに行ってきた。去年のこの時期の訪問と同じ理由で出張してきたのだけど、どのような仕事かはまた改めて報告したい。

朝早く起きて、セントラルパークでランニングをしてきました。

で、今日はニューヨークで考えたことを少し、書こうと思う。僕はあまり観光に興味がなく、出張の空き時間はだいたい「いつものように」過ごす。つまりカフェで文章を書いたり、本を読んだり、事務的な仕事をしていることが多い。あとは散歩と買い食い、といったところで、晴れた日があれば朝にランニングをする。要するに僕が興味があるのは、遠い街でそこの人たちがどういう感覚で暮らしているのかを疑似体験すことなので、僕にとってはこのスタイルがいちばんしっくり来る旅の仕方なのだ。

そして今回のニューヨーク滞在で考えたのは、ちょっと大仰な物言いになるけれど「他者」の問題だ。たとえば僕たちは、近しい人であればあるほど指示代名詞を用いて会話する。「あれ」とか「それ」とかいう言葉を頻繁に使う。このとき相手が、何かしらの「文脈」を共有しているという前提がある。だからこそ、「あれ」「それ」「これ」と言っても何を指しているかほぼ分かるし、主語や目的語を省略して「取って」とか「回って」とか動詞だけ言われても相手が何を求めているのか分かることが多い。

これが複雑化すると、いわゆる「空気」になる。「空気を読んで」マジョリティの意見に合わせて自分が「浮かない」ようできるし、文脈をあまり共有していない相手を批判したり、笑いものにしたりすることで共同体の結束を固めることができる。昭和的な職場のオーナーや管理職から論壇の党派のボスまで、陰湿な「欠席裁判飲み会」を手放さないのは、この「文脈」と「空気」を用いて自己の支配を盤石にするためだ(本当にヘドが出る卑しさだと思う)。

しかし、文脈を共有しない相手とのコミュニケーションはこうはいかない。特に相手が外国人になると、その国の社会的な「文脈」が共有されていないのはもちろん、言葉の壁が「文脈」「空気」の成立を邪魔する。恥ずかしながら僕は全く語学ができないので、外国でのコミュニケーションは本当に「ゼロ」からの意思疎通になる。詳しい人は気づいているだろうけれど、これは柄谷行人がかつて展開した「他者」をめぐる思考の話だ。そして柄谷はこの他者、つまり文脈を共有しない相手とのコミュニケーションのことを「交通」と呼び、その交通が停滞することなく発生し続ける場所を「都市」と呼んだ。そしてこの都市は、文脈を共有するもの同士のコミュニケーションが反復され、共同体が固定化する「村落」と対比的に語られた。

さて、その上で僕が考えてみたいのは今日のSNSとは「都市」なのか、「村落」なのかということだ。結論から述べれば、SNSのプラットフォームにあるのは、「村落」のほうだ。SNSのプラットフォーム上で他者との、文脈を共有しない相手とのコミュニケーションはそもそもAIによるレコメンドにより発生しづらいし、自覚した欲望を確認する行為である「検索」でも発生しづらい。たしかにSNSのプラットフォーム上では「揉め事」は起きやすいが、それはむしろ「文脈」を共有しているから起きる現象だ。宮藤官九郎の新作ドラマの政治的な態度がけしからん、いや、あれこそが気の利いた批判なのだ、という「論争」が成立するのは、宮藤官九郎が重要な作家であり、テレビドラマをその政治的な意識の高さを基準にジャッジするという「文脈」を共有している相手との間でしかない。それは「他者」とのコミュニケーションではなく、ある文脈の内部でのゲームなのだ。

こうして考えたとき、SNSのプラットフォームで起きているのは、情報技術の支援で、これまでよりかなり高速で文脈が共有され、そして「共同体」が生まれるという現象だ(これは広く知られた一般論だが、まず文脈が共有され、事後的に共同体が発生するのだ)。そして、意図的にそれが維持されない限り(その共同体のボスが次の「燃料」を投下したり、「敵」を設定したりしない限り)、SNSプラットフォーム上の共同体は高速で解体される。

つまり、プラットフォームは技術的に予め他者とのコミュニケーションが排除された空間であり、「都市」的な「交通」空間を持たない、「村落」の集合体……まさに「グローバルビレッジ」なのだ。

そのことを僕はニューヨークという「都市の中の都市」における「他者」とのコミュニケーションを通じて再確認した……とか書いたほうが一部の人達には受けが良いのだろうけど、僕がここで主張したいのはそんな簡単な話ではない。むしろ逆だ。ニューヨークのようなグローバルに開かれたメガシティこそ、「他者」とのコミュニケーションの場は、そもそも「交通」空間は排除されているのではないかというのが、僕の疑念なのだ。

当たり前の話だが、ニューヨークのような都市では、むしろ「文脈」を共有するのが難しい。人種や民族も多様だし、そもそも僕のような英語の全く出来ない旅行客や移民も多い。そうなると「他者」との「交通」が頻発するのかというと、そうじゃない。むしろ都市は利便性と安全性と経済性の観点からそもそも「コミュニケーション」を排除するのだ。たとえばUberなどのライドシェアがそうだ。これは、運転手と乗客が一言も対話することなくすべてのアクションが完結する仕組みになっている。同じようなシステムが小売店の決済から飲食店や美術館のシステムにまで、どんどん拡大していっている。そこに存在するのは「文脈」を共有した村落的なコミュニケーションでもなければ、「他者」との都市的なコミュニケーションでもない。人間が情報技術との支援で単に事物に触れれば良いだけのシステムが構築され、人間間コミュニケーションそのものが排除されているのだ。

僕はとりあえず資本主義と情報技術を「懸念」すれば繊細に見えて居場所が与えられるようなヌルい権威ビジネスの世界には生きていない(それっぽい「いい話」をしていれば済む業界もあるのだ)ので、このシステムをただ批判するつもりはない。それは、ある意味弱者にも優しい(悪評高いUberでさえも、僕のような語学の出来ない旅行者の助けになっているし、同じように英語の出来ない移民がまず就ける仕事になっている)側面は確実にあるし、安全性や利便性を考えたときに必然的に選ばれる「解」だと思う。しかし、「他者」とのコミュニケーションが人間に与えるものを軽視してはいけない……というのもよく、分かる。では、どうすれば?

僕の結論は「もはやサイバースペース(プラットフォーム)にせよ、実空間(都市)にせよ、他者とのコミュニケーションは担えない(交通空間は成立しない)」というものだ。

プラットフォームは村落的な共同体を高速で生成し続ける場所で、都市はコミュニケーションそのものを排除することでしか維持できなくなる。では他者とのコミュニケーション=交通はどこにあるのか?

僕はこのニューヨークへの出張中、10代の頃好きだったある小説を読み返していた。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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