「社交」よりも「批評」が大切だという話と、そのために必要な「場」について
少し間が空いてしまって申し訳ない。実はしばらく出張で家を空けていて、帰京してからもその後の処理でばたばたとして更新するタイミングがなかったのだ。今日からまた気を取り直して更新していくので、よろしくお願いします。
さて、今日は少し抽象的なことを論じてみたい。それは「批評」についてのことだ。この言葉にアレルギーのある人たちのコンプレックスの問題はまあ、横に置くとして僕が今日論じたいのは「ダメな批評」のことだ。ほとんどの人は常日頃「批評」に接していないので、自分には無関係だと感じるかもしれない。しかしそれは大きな勘違いだ。僕がこれから書く「いい批評」「ダメな批評」の基準は我ながらなかなか応用範囲が広く、人生や仕事の多くの場面で結果的にだけど「役に立つ」だろう。
では早速結論から述べてしまおう。
僕が一番ダメと思う批評は「Aさんに褒められるためにAさんの嫌いなBさんを貶めました」みたいなコミュニケーションを取っている批評文だ。
これは批評の根底の部分が狭い世間(特定の党派やそのボス)への「社交」、もっと言ってしまえば就職活動のための自己アピールのようなものだ。
そしてこの種の「社交のための批評」は動機が卑しいのはもちろんのこと、本質的にその人の文章(思考)ではない。
だいたいこの手のものは自分が媚びたい相手の理論が「結論」近くに置かれて持ち上げられているのだけれど、それ以上にその批評の前提となる世界理解や理論の骨組みが「借り物」である場合がほとんどだ。そういったものに、僕は一文の価値もないと思うし、編集者の仕事はまずこうしたゴミのような文書を正しく、教育的にゴミ箱に運ぶことだと思う。(あと、あなたがもし30歳以上でうっかりブログにこの手の文章を描きたくなってしまうのなら、知的な仕事は向いていないので他の人生を探すべきだろう。)
そしてここから先が重要、というか今回の本題なのだけれど、批評とは本来、このような世間の「社交」というか、共同性の罠から逃れるための知性のはずなのだけど、「批評」カードを切ることで自分を賢く(自他に対して)見せたがるレベルの脳みその連中にはそれが理解できないという問題だ。
人間は弱く、「裸眼」の状態では自分を取り巻いている共同性をキャンセル、というか割引いて事物をとらることができない。だから「批評」的な知性が必要なのだ。しかし批評の書き手たち、特にプライドに実力が伴わない書き手はこの前提を「社交」による出世や承認欲求の追求のために忘れてしまうのだ。
では、どうするか。
僕の提案はいくつかある。
ここから先は
u-note(宇野常寛の個人的なノートブック)
宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…
僕と僕のメディア「PLANETS」は読者のみなさんの直接的なサポートで支えられています。このノートもそのうちの一つです。面白かったなと思ってくれた分だけサポートしてもらえるとより長く、続けられるしそれ以上にちゃんと読者に届いているんだなと思えて、なんというかやる気がでます。