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SNS社会運動が承認の快楽を得る上で「コスパが良すぎることの功罪」をどう考えるか

投票が迫ってきたので、もう一回くらい都知事選について書こうかと思う。選挙そのものへの分析も、今後の論点の提示ももうしたので、少しメタ的に問題の本質について考えてみたいと思う。

ここ数回の大きな国政選挙も含め、注目度の高い選挙のたびにカルト的な市民運動ーーそれもインターネットを主戦場としたーーものが、そのカンフル剤としてパフォーマンス的に出馬する、という現象が常態化している。そして端的に述べれば、これは言論の敗北なのだと僕は思う。つまり、言論レベルで政治的なものに可能な限り慎重にコミットする、ただしニヒリズムに陥ることも依存気味に没入することもなくーーという戦略が、SNS市民運動のインスタントな快楽に予想以上のスピードで侵食され、完全に敗北してしまっているのだ。

この現象を指してポジショントーク的に左右の論客が「相手側が稚拙に先鋭化している」と述べているのをたまに目にするけれど、残念ながらこうした議論にまったく意味はない。イデオロギーや政治的な立場にかかわらず、SNSでローコスト化した(情報発信を主体とした)市民運動の「コスパ」は極めて高い。つまり必要とする時間や金銭や労力に対して獲得できる承認の快楽は極めて大きく、もはや21世紀の民主主義はこれを前提に考えるしかないことは明らかだ。誤解しないでほしいが、僕はこの変化が必ずしも「悪いこと」だけをもたらすとは考えていない。少なくとも糸井重里的なニヒリズムよりは「マシ」だと考えることもできるし、市民がカジュアルに声を上げることそのものをネガティブにとらえる必要はまったくない。ただ問題は、その副作用が予想外に強く、短期的にはかなり厄介な問題が頻発することだ。

そして鍵はおそらくこの「コスパ」にあるだろう。

人間がSNS上の「運動」に、それも敵対勢力への「攻撃」に依存してしまうのは、その「コスパの良さ」にある。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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