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#17 平常心是道

桜始開(さくらはじめてひらく)

桜の開花の訪れとともに我が家の空気もここ数日で随分温かくなりました。


なんでも話せる聴ける間柄で暮らしてみようという壮大?な試みも、言うは易し行うは難し。暮らしの中にも四季があります。


もしも人と人が人目を気にすることなく堂々と本音で話し合うことができ、その本音を何の判断をせずにただただ聴くことができるのならば、人はもっとのびのびと人のなかで暮らしていけるのではないか。


一般的には本音なんて聴いてくれないから話せない。話したところで変わらない。相手がそうだから自分もそうせざるを得ない。そんな世の中だから、人と上手くやっていくのは難しいと結論づけてしまうことがほとんどでしょう。


しかし、もし「いっせいのせい!」と何でも聴き合って話し合ってみようと言ってくれる人が現れたら、あなたはその先にある本当に自由であなたらしいあなたに出会うために、その旅を一緒に始めてみようと思うでしょうか。


「いっせいのせい!」というほどまでにキレイに歩調が合っているわけではありませんが、我が家にはやってみようという気概あるというか変な人がいます。


けれども、やってみようとできるは同じではないので、やっぱり立ち往生するときがあります。やりたくて始めたはずなのに、そのやりたいが曇るときがあります。


心はざわつき、本当にこんな人生でいいのだろうか?と思う日だってあります。
(ほとんどの日は楽しく過ごしています)


人にイラつき、人を罵り、理想との差に苦しみ、我慢が募りムカついたり、無力を嘆く日もあります。
(ほとんどの日は楽しく過ごしています😊)


先日、

知り合いの茶人の茶室に伺ったところ
「平常心是道(へいじょうしんこれみち)」
という掛軸が掛かっていました。

平常心というと、通常、平静を保つことや感情に振り回されない心の在り方を表すけれども、禅ではそのままの心を平常心、まるで赤ちゃんのように嫌だったら泣き、嬉しかったら笑うことが普通にできる素直な心の在り方だ、と人から聞いた。それがなんともフィットするからこの掛軸が好きなんだ。

そんな話しをしてくれました。

↓わかりやすい記事があったので興味ある方は読んでみてください


生きていると本当に色んな気持ちになります。

そのときどき自分自身ですらわからないままにそういう気持ちになる日常において、
それを抑え込んだり、見ていない振りをするのではなく、そういう自分であることを愛する大事にする。


人と暮らしているとやっぱり色んな気持ちになります。人と暮らしていなくても色んな気持ちになりますから、そう簡単に気持ちというのはどうこうできるものではありません。それに、本来気持ちに良い気持ち悪い気持ちというのはありません。人間の都合でそうしているにすぎません。

けれども、社会生活を送る上で不必要不都合だとみなした気持ちは出てくると困るので、感じていない振り、見なかった振りをして抑え込んでしまいがちです。

ちいさな社会である家庭に始まり、学校そして職場でもその時の気持ちを愛する大事にするどころか気持ちを見張り選別する癖をほとんどの人は身につけてしまっています。
その時の環境においてはある種の知恵として役立つスキルにはなったかもしれません。


しかし、そのスキルや癖が本当に自分を大切にしていることに役立っているのかどうかは怪しいところです。


平常心に生きる。


原因の追及もせず激情に駆られもしない。
ただ淡々と感ずるままに生きてみる。

もしかしたら人生の大きなテーマになっていくかもしれません。





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