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[4]祖母のこと。戦後開拓。戦争の傷跡を引きずる我が家。

まだ、母のことについても書きたいことはありましたが、ここで祖母(父方)のことを書きたいと思います。

祖母は私が中学生の頃に、確か74歳だったと思いますが亡くなりました。私の祖母は、戦後開拓でこの土地に移り住んだ入植者です。祖母は、戦争で一人目の夫を亡くしており、この土地には二人目の夫と入植しています。

「ばあさんは二人目の旦那のことは、あまり好きでねがっだと思うぞ。」と、父の姉さんが言ってるのを聞いたことがあります。つくづく、我が家系は男運のない血筋なんだなと、その時に思いました。ちなみに、祖父は私が生まれた時には、すでに亡くなっていたので会ったことがありませんが、寒い雪の日に酒に酔って道端に寝て、そのまま亡くなったのだそうです。このことで、残された祖母や子どもたちはかなり苦労したようです。

私は祖母から開拓時の話をいろいろ聞かされました。食べるものがなくて、木の皮を剥いで食べていたこと。近所の人と一緒に、どうやったら稲が育つか研究していたこと。でも全然米ができなかったこと。赤ん坊を背負って、炭鉱で炭を運ぶ仕事をしていたこと。祖母は胃がんでなくなりましたが、かなり身体が丈夫だったようで、お医者さんも「ここまで持つとは思いませんでした。」と最後感心していました。

元々、草木の生い茂る山だった場所を田畑にするわけです。しかも今のように、重機があるわけでもありません。相当な苦労だったと思います。小学校の夏休みの自由研究で、祖母の開拓をテーマに研究しましたが聞いた話をあまり覚えておらず、自分で自分が残念です。

祖母は、元々は沿岸部に住んでおり、津波の話もよくしていました。恐らく昭和三陸地震の話だったと思います。常々「津波が来たら、だれのことも気にしねで、高い場所に逃げるんだ。」と私に話していました。誰かを助けるために家に戻って、それで津波にさらわれて亡くなった人が大勢いたようです。それを見て、私に何回も話してくれたんだと思います。

「おばあちゃんは、私たち子どもにご飯をあげないで、一人でご飯を食べる時があったよね。」と、妹が父の葬式の時に話していました。私は、この記憶がまったくありませんでした。そんなひどいことをされていたら、根に持つタイプの私は、絶対覚えているはずなのに、なんで覚えていないんだろうと不思議に思いました。

でも、MRをして記憶をたどり思い出したことがありました。私には6歳、歳の離れた弟がいて、小学校から帰ってくるといつも弟をおぶって子守をしていました。6~7歳の私にとって、弟のウンチのついたオムツを替えるのはかなりの苦痛でした。でも、祖母は私が学校から帰ってくると、一切子守を手伝うことはありませんでした。目につく場所に、大人がいるのに手伝ってもらえないというのは、子どもの私にとって、強い孤独感やストレスを感じることでした。

なので、私がとった対処法は「祖母はいない」と信じ込むこと。もちろん、一緒に住んでいるので、目には見えるのですが「いない」。脳内ではそんな風に処理をしていました。本当は「ご飯を食べさせてもらえない」のも、存在を無視されているような、本当に辛いことだったのだと思います。でも、「この人はいないんだ。」と信じることで、人間としての尊厳をなんとか保っていたように思います。しかし、実際は私はかなり自己肯定感の低い大人に育ちました。

私の実家がゴミ屋敷だったことは、[3]お母さんはADHD。ゴミ屋敷編で書きました。祖母が生きていたころも、ゴミ屋敷までは行かないにしろ、けっこうな汚部屋でした。でも、祖母は一切掃除をすることはありませんでした。「うちの嫁は働かない。」と近所の人にグチっていたのを聞いたことがあります。祖母は畑の手入れはする人でしたが、家のことは基本的にはやらない人でした。

祖母の戦前の写真を見たことがあります。キレイな着物を着て、子どもたちと幸せそうに写っていました。きっと祖母は怒っていたんじゃないかと思います。戦争のこと。どうにもならない、強い渦に巻き込まれて、人生がどうにもならなかったこと。ものすごい苦労したこと。誰も助けてくれなかったこと。周りのみんなも同じような状況だったの思うので、とても愚痴や弱音を吐けるような状況ではなかったのだと思います。

戦争は終わって日本は平和だったけど、我が実家は戦後の苦労が続いているような雰囲気だったなぁと、子どもの頃を振り返って思います。

祖母は誰かに分かって欲しかったんだと思います。この文章も祖母に書かされているような、そんな気がします。私の中で祖母はいじわるばあさん止まりでしたが、津波の話から祖母の愛を感じて、すごい号泣しました。

私は戦中、戦後生まれの人たちと縁があり、東京に来ても、当時の話を聞く機会に恵まれています。みんな、自分の体験を知って欲しいし、話したいんだなと思います。戦争で不慮の死を遂げた方もおおぜいいると思います。こういう話を聞いたり、どこかに語り継いでいくことも、供養になるような、そんな気がします。

いじわる婆さんとか言うのは、余計だったかもしれませんが。

続く♪

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