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和歌山紀北の葬送習俗(8)遺体まわり

▼まず、このページには死体に関する描写があります。読み手に心的外傷を与える可能性があるので注意して下さい。学問的な文脈から述べるにすぎないものですが、一切の責任は問いかねます。
▼登場する市町村名とその位置は『和歌山紀北の葬送習俗(3)死亡前の習俗』を参照して下さい。ほとんどの事例は全国各地にみられることから、掲出している市町村名にあまり意味はありません。

▼さてさて、あくまでも遺体を自宅に安置する場合、ですが、遺体を納戸や仏の間に安置することは既に別ページで取り上げました。このページで取り上げるのは、遺体の周りにどのようなものが置かれているか、です。

1.枕刀

マクラガタナ(枕刀)という習俗があります。これは、遺体の上(遺体に被せた布団の上)や周囲に何らかの刃物類を置くというものです。早速事例をみましょう。

刃物を置く(奈良県五條市大津,奈良県吉野郡野迫川村弓手原,奈良県吉野郡旧賀名生村,大阪府南河内郡旧川上村,和歌山県伊都郡かつらぎ町平,和歌山県伊都郡かつらぎ町天野,和歌山県旧那賀郡,和歌山県旧那賀郡粉河町,和歌山県旧那賀郡打田町,和歌山県旧那賀郡池田村,和歌山県旧那賀郡田中村:年代は省略)
刃物を枕元に置く(奈良県吉野郡旧西吉野村:昭和30年代,和歌山県旧那賀郡岩出町:昭和40年代)
刃物を胸の上に置く(和歌山県海草郡旧野上町:昭和60年代)
刀剣類を布団の上に置く(和歌山県橋本市:昭和40年代)
小刀または鉈(なた)を遺体の胸あたりの布団の上に置く(和歌山県橋本市:昭和40年代)
鎌を置く(奈良県吉野郡旧大塔村篠原:昭和50年代,奈良県吉野郡旧大塔村:昭和30年代)
女性の場合は鋏(はさみ)を置くことが多い(奈良県五條市大津:昭和30年代)

布団の上に鋏を置いた例。茨城県旧勝田市(池田ほか 1979:p77)

▼これらの例では、枕元、布団の上、胸の上などのバリエーションはあるものの、枕刀を置く場所ではなく、刃物を置くという行為とそのさまのほうが重要です。刃物はもちろん魔除けのためで、故人とその霊魂がよみがえらないようにとの意味があり、明らかに絶縁儀礼です(『和歌山紀北の葬送習俗(1)予備知識』参照)。つまり、遺体安置の段階で遺族は蘇生儀礼がもはや無駄であることを悟り、故人との別れを本格化させます。
▼枕刀として使用される刃物は刀、鉈、鋏がほとんどで、刃物として真っ先に想起しがちで、かつ日常生活に最も身近な包丁が置かれることはないようです。

2.屏風・掛け軸

▼安置された遺体の周囲には、屏風や掛け軸を置く、掛けるという習俗があります。事例をみましょう。

屏風を立てる(和歌山県旧那賀郡:大正10年代,和歌山県旧那賀郡粉河町:昭和30年代)
屏風を逆さに立てる(和歌山県旧那賀郡池田村:昭和30年代)
六地蔵の枕屏風を立てる地区もある(和歌山県橋本市:昭和40年代)
不動明王の掛け軸を掛ける(和歌山県橋本市:昭和40年代,和歌山県旧那賀郡粉河町:平成初年代)
不動尊の画像を遺体の真上に掲げる(和歌山県橋本市:昭和40年代)
不動明王、十三仏、弘法大師の三幅対の掛け軸を掛ける(和歌山県旧那賀郡打田町:昭和60年代)
僧の読経時に不動明王、十三仏、弘法大師の三幅対の掛け軸を掛ける(和歌山県旧那賀郡田中村:昭和10年代)
葬儀当日に弘法大師、十三仏、両界曼荼羅の掛け軸を掛ける(和歌山県橋本市:昭和40年代。棺の前に置くと思われる)
寺から來迎会の掛け軸を借りてきて掛ける(和歌山県旧那賀郡粉河町野上:平成初年代)

前回のトップ画像を再掲。この写真は情報量が多いです。①布団の上に枕刀らしきものが置かれている、②屏風が逆さまである、③遺体がより日当たりのよい縁側近くに安置されている、④縁側があるので遺体安置場所は上の間である(屏風の裏に仏壇があると思われる)、⑤遺体の向きから、縁側は東向きである、など(後藤ほか 1979:p211)。

▼これらの事例から、屏風はともかくとして、掛け軸の絵柄は不動明王、十三仏、弘法大師、両界曼荼羅、来迎会といずれも真言密教世界を再現したものです。和歌山紀北地域が日本有数の霊魂超強力吸引スポット高野山のお膝元であるため、このような真言宗に偏った事例となります。

3.線香とロウソク

▼次に、葬送習俗の必須アイテムである線香とロウソクの事例をみましょう。

線香を立てる(奈良県吉野郡野迫川村:昭和40年代)
線香を一本立てる(和歌山県旧那賀郡打田町:昭和60年代,和歌山県旧那賀郡田中村:昭和10年代)
線香とロウソクを立てる(和歌山県旧那賀郡貴志川町北山:昭和50年代)
線香一本とロウソク一本を立てる(大阪府河内長野市滝畑:昭和50年代,和歌山県旧那賀郡粉河町:昭和30年代)
燈火は一本燈(和歌山県旧那賀郡:大正10年代)

▼線香とロウソクで注目すべきは「一本」という点です。これは「故人が迷わずに一本道であの世に行けるように」「一筋であの世に行けるように」などの意味があり、まだ成仏していない死亡直後の不安定な霊魂をあの世に導くための、高速道路に延々続く灯火のようなものとして理解できます。

4.末期の水

末期(まつご)の水という習俗は、遺族が遺体の唇を湿らせる行為で、もともとは死亡間際や死亡直後に行われていたものです。管理人の知る限り、末期の水に使う道具は死亡間際/直後だけでなく納棺までは遺体の枕元に置いてあり、通夜の時間帯にも行われていました(親族全員が故人の死亡直後に集まっていないから)。事例をみましょう。

(1)末期の水で用いる道具:
・新しい筆か割箸の先に脱脂綿を巻きつけ、白糸でしっかり括る
(和歌山県橋本市:昭和40年代)
・新しいガーゼか仏壇の花の葉(樒(しきみ)、びしゃこ)(和歌山県海草郡旧野上町:昭和60年代)
麦藁1本(奈良県吉野郡野迫川村:昭和40年代)
樒の葉(奈良県吉野郡旧賀名生村:昭和30年代)

(2)末期の水の作法:
・綿に水をつけて遺体の唇にあてる(奈良県吉野郡旧大塔村篠原:昭和50年代)
・樒(しきみ)の葉を浸して口元を湿らせる(奈良県吉野郡旧西吉野村:昭和30年代,和歌山県旧那賀郡粉河町:平成初年代,和歌山県旧那賀郡貴志川町北山:昭和50年代)
・穂先か綿を茶碗に入れた清水に浸し、故人の唇を開けて口内を静かに潤す(和歌山県橋本市:昭和40年代)
・血の濃い者から順番に行う(和歌山県橋本市:昭和40年代)
・血の濃い者が飲ませる(奈良県吉野郡旧賀名生村:昭和30年代)

▼末期の水は、あくまでも儀礼的な行為です。丸状に巻いた脱脂綿(タイトル画像がそれです)に軽く水に浸し、唇を軽くトンとやる程度で、加減を考えずに脱脂綿に水をしっかり含ませ、口元をしっかり湿らせてしまうと遺体の首元に水が垂れ、それをやった当人が安置場所から退去した後に遺族がそれを拭き取ることになります。
樒(しきみ)とは、葬式や追善供養の場で忌の空気をふんだんに含む、独特の匂いを発散する緑色の葉っぱです。仏壇や墓によく供えられているので、ほぼ誰もが匂った経験があるはずです。
▼なお、末期の水とは別に、遺体の枕元に故人が生前使っていた湯呑や茶碗に水を入れたものが供えられています。

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(藤崎 1957:p246)

▼昭和中期のマニュアル本を見ると、遺体の周囲にアレンジすべき物の配置図があります(上図)。たしかに、こうすればいいんだなぁ的なことは理解できる一方、管理人が育った村落共同体では喪家はしゃしゃり出てはならないというオキテのようなものがあり、喪家は遺体にのみ集中していればよいのであって、それ以外の段取りは全て村の衆(葬式組という臨時組織を結成する)がやることになっていました。気が付いたら寺の坊さんが枕経をあげていましたし、遺体周りの供え物や末期の水などの小物類も葬式組と村の葬儀屋(現代の葬儀屋とは性質が異なる。いずれ取り上げます)が手配したと思います。
▼遺体周囲だけでなく葬儀全般に関していえば、このテの葬具には貧富の差が如実に出ます。わが実家には、屏風などという高貴なものはありませんでした。

🔸🔸🔸(まだまだ)次回につづく🔸🔸🔸


文献

●賀名生村史編集委員会編(1959)『賀名生村史』賀名生村史刊行委員会.
●藤崎弘編(1957)『冠婚葬祭事典』鶴書房(引用p246).
●五條市史調査委員会編(1958)『五條市史.下巻』五條市史刊行会.
●後藤義隆ほか(1979)『南中部の葬送・墓制』明玄書房(引用p211).
●橋本市史編さん委員会編(1975)『橋本市史.下巻』橋本市.
●池田秀夫ほか(1979)『関東の葬送・墓制』明玄書房(引用p77).
●河内長野市役所編(1983)『河内長野市史.第9巻(別編1:自然地理・民俗)』河内長野市.
●近畿民俗学会(1980)「和歌山県那賀郡貴志川町共同調査報告」『近畿民俗』82、pp1-28.
●近畿民俗学会(1980)「和歌山県伊都郡かつらぎ町天野共同調査報告集(Ⅰ)」『近畿民俗』83、pp3369-3436.
●近畿民俗学会(1980)「和歌山県伊都郡かつらぎ町天野共同調査報告集(Ⅱ)民家・民具」『近畿民俗』84/85、pp3438-3444.
●粉河町史専門委員会編(1996)『粉河町史.第5巻』粉河町.
●那賀郡編(1922-23)『和歌山県那賀郡誌.下巻』那賀郡.
●那賀郡池田村公民館編(1960)『池田村誌』那賀郡池田村.
●那賀郡田中尋常高等小学校田中村郷土誌編纂部編(1939)『田中村郷土誌』那賀郡田中尋常高等小学校田中村郷土誌編纂部.
●中野吉信編(1954)『川上村史』川上村史編纂委員会.
●西吉野村史編集委員会編(1963)『西吉野村史』西吉野村教育委員会.
●野上町誌編さん委員会編(1985)『野上町誌.下巻』野上町.
●野迫川村史編集委員会編(1974)『野迫川村史』野迫川村.
●大塔村史編集委員会編(1959)『大塔村史』大塔村.
●大塔村史編集委員会編(1979)『奈良県大塔村史』大塔村.
●沢田四郎作・岩井宏実・岸田定雄・高谷重夫(1961)「紀州粉河町民俗調査報告」『近畿民俗』27、pp888-906.
●世界文化社(1973)『冠婚葬祭:グラフィック版』世界文化社(引用p90).
●玉村禎祥(1972)「紀州岩出町の民俗―人生儀礼―」『民俗学論叢:沢田四郎作博士記念』pp88-95.
●東京女子大学文理学部史学科民俗調査団(1985)『紀北四郷の民俗:和歌山県伊都郡かつらぎ町平・大久保』東京女子大学文理学部史学科民俗調査団.
●打田町史編さん委員会編(1986)『打田町史.第3巻(通史編)』打田町.
※各事例に付記した年代は、文献発行年の年代(例:昭和48年発行→昭和40年代)とし、その文献が別文献から引用している場合(=管理人が孫引きする場合)は原文献の発行年の年代を付記した。但し、文献収集の段階で現代の市町村史が近代のそれをそのまま転載している事例がいくつか判明した(例:昭和中期の『●●町史』が大正時代の『●●郡誌』を転載、昭和中期の『●●町史』が昭和初期の『●●村誌』を転載、など)。したがって、事例の年代に関する信頼性は疑わしく、せいぜい「近世か近代か現代か」程度に捉えるのが適切である。

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