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和歌山紀北の葬送習俗(6)遺体の取扱

▼まず、このページには死体に関する描写があります。読み手に心的外傷を与える可能性があるので注意して下さい。学問的な文脈から述べるにすぎないものですが、一切の責任は問いかねます。
▼昔むかし、人が死亡すると遺体は自宅に安置されるのが普通で(というか、自宅で葬儀するのが普通でした)、昭和キッズたる管理人も自宅や親類宅に安置された遺体を何度か見ています。今は、葬儀屋さんのおかげで遺族が遺体をどのように取り扱うかを考える必要はなくなりました。
▼ここでは、死亡直後の遺体の取り扱いを取り上げてみます。なお、登場する市町村名とその位置は『和歌山紀北の葬送習俗(3)死亡前の習俗』を参照して下さい。ほとんどの事例は全国各地にみられることから、掲出している市町村名にあまり意味はありません。

1.遺体の安置場所

▼遺体を自宅のどこに安置するか❓❓ 遺体の安置場所に関する習俗は、基本的に和式民家の間取りを前提としています(後述)。そのため、和式の間がない洋式住宅やマンションではこの習俗を実践することができません。借家であれば、遺体の安置はおそらく契約上禁止されていると思います。
▼まずは事例をみましょう。

ナンド(納戸)(和歌山県旧那賀郡貴志川町北山:昭和50年代)
仏の間(奈良県吉野郡旧大塔村:昭和30年代,奈良県吉野郡旧大塔村篠原:昭和50年代,奈良県吉野郡野迫川村弓手原:昭和40年代)

▼以上から、遺体の安置場所はナンド(納戸)か仏の間(仏壇のある部屋)の二択です。古い和式民家は『田』の字型の間取り=「田」という漢字のように4つの部屋があり、右上が居間兼食卓、右下がシモノマ(下の間)、左上がナンド(納戸)、左下がカミノマ(上の間)という配置です。田の字型の和式民家で、遺体を置く場所は実質的に納戸か仏の間(上の間が多い)しかありません。納戸は北西側にあって、遺体安置のほか「夫妻の営み」など開放に馴染まないことが行われる閉じられた空間、また、上の間も日常的に使われず特別な来客時のみ使われる閉じられた空間と位置付けられます。しかしながら、田の字型和式民家における遺体安置の習俗は、民俗学的な意味よりもむしろ、この2つの部屋以外に場所がないという実質的意味のほうが効いていると考えられます。

2.遺体安置の方角

▼次に、安置する遺体の向きはどうでしょうか。事例をみましょう。

北枕にする(奈良県吉野郡野迫川村,大阪府南河内郡旧川上村,和歌山県橋本市,和歌山県伊都郡かつらぎ町平,和歌山県伊都郡かつらぎ町天野,和歌山県旧那賀郡,和歌山県旧那賀郡粉河町,和歌山県旧那賀郡池田村,和歌山県旧那賀郡岩出町,和歌山県旧那賀郡貴志川町北山,和歌山県海草郡旧野上町:年代は省略)
北枕にすることを「枕直し」という(奈良県吉野郡旧賀名生村:昭和30年代,和歌山県旧那賀郡池田村:昭和30年代)
北枕の西向きに寝かせる(奈良県吉野郡旧大塔村篠原:昭和50年代)
北枕にした上で顔を西向きにして寝かせる(和歌山県橋本市:昭和40年代)
西向きに寝かせる(奈良県吉野郡旧大塔村:昭和30年代)

▼以上から、遺体は北枕で頭(顔)を西向きにするのが標準で、北枕が釈迦が入滅(≒死去)したときの姿を模倣していることは広く知られています。

3.遺体頭部につけるもの

▼遺体頭部といえば、代表的なものが以下の事例でしょう。

頭を白布で覆う(和歌山県橋本市:昭和40年代)

▼これは、仰向けの頭部(顔)の上に白布を被せるという例です。一方、TVドラマや怪奇映画では、遺体や幽霊が三角に切った布や紙三角布などという)を前額部に鉢巻きのように着けている姿が表現されることがあります。三角布はまた、葬列を組む者が着用する事例が全国にみられます(下写真)。

葬列をなす遺族が三角布を着用した例(京都府天田郡三和町、井之口 1977:p94)
棺担ぎが三角布を着用した例(三重県、和歌森 1965:p200)

▼鉢巻きの額は、なぜ三角形でなければならないのでしょうか❓
▼日本には、三角形のものに呪術的なパワーがあるとみなす観念があるようです。三角形の呪術的パワーに関してはさまざまな見解、解釈があります。鈴木は先行研究を整理し、①女陰説(三角形は中国では女陰の象徴であり邪視を避ける力がある。南方熊楠など)、②心臓説(ハレの日に作られる三角形の食物や袋は心臓を象徴している。柳田国男など)、③山岳信仰説(富士山のような三角形のものに呪力があるとする観念は山岳信仰に由来する)、④火神説(三角形の田畑が忌み嫌われるのは田の神の祭場だからであり、三角形の火打袋(≒財布)は火を浄化する火の神の象徴である)、⑤鱗説(蛇の文様や鱗の文様は邪霊を鎮める)、⑥蝶説(三角形は蝶を象っている)の各説がみられるとし、鈴木自身は葬列時の三角布を「三角形状葬祭具」と名付けたうえで、以下の各点を指摘しています(鈴木 1981)。

*「三角形状葬祭具=死者」というイメージは江戸時代に形成された。
*三角形状葬祭具は死者の象徴として描かれるが、生者が着ける三角形状葬祭具にこそ本来の意義がある。
*三角形状葬祭具は古代の埴輪にもみられ、単なる装飾ではなく祭祀用であることから葬祭で重視されたと考えられるが、三角形の起源はわからない。
*三角形状葬祭具は江戸時代の有職故実家(≒当時の歴史学者)により解釈されており、その意味は解明されていない。ということは、三角形状葬祭具の由来は江戸時代よりも前である。
*同じ三角形であっても食、農耕、葬送儀礼では意味が異なり、全ての表象を同一起源に求めるのには無理がある。
*三角形状葬祭具は会葬者全員が着用→近親者のみ着用→死者のみ着用→消滅というプロセスを辿ったらしい。
*三角形状葬祭具は服喪のしるしとしてのほか、迷える霊魂を鎮めるために着用するらしい。

▼この三角形をめぐって、性的キーワードを連発して学説の自由な飛翔を遠慮しない南方熊楠と、民俗学としての方法論にこだわる柳田国男が感情的に対立したことはよく知られています。結局、葬送習俗における三角形の意味が何であるかは現在もよく分かっていません。
▼民間習俗と幾何学的図形との関係は、京都の魔法使い安倍晴明と「☆」との関係や、幾何学的図形に満ちた家紋など、興味深い課題ではありますが、その意味や由来の解明はかなり難しそうな印象を受けます。

4.遺体そのものに対するケア

▼埋葬(注:今は全国の99%が火葬)までの遺体に対する暫定的な処置は、今では看護師や介護福祉士等の対人援助専門職、そして葬儀業者が死に化粧を含む、いわゆる「エンゼルケア」を専門技術として身につけており、遺族は何もすることがありません。以下の事例があります。

手を合掌させる(和歌山県橋本市:昭和40年代,和歌山県旧那賀郡:大正10年代,和歌山県旧那賀郡粉河町:昭和30年代,和歌山県海草郡旧野上町:昭和60年代)
目が開いている場合はそっと眠らせる(和歌山県海草郡旧野上町:昭和60年代)
口、耳、鼻、肛門等に綿を詰める(和歌山県海草郡旧野上町:昭和60年代)

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▼何度も申し上げている通り、今では遺族が遺体に施すべきことはほとんどありません。懸念があるとすれば、2~3年ほど前から人材不足と働き方改革など複合的な要因によって葬儀場や火葬場が十数日待ちというケースが常態化していることです(友人から聞いたところでは、夜間にドライアイスが入手できず遺体の防腐に困るらしい)。ひょっとすると、近未来の葬儀、葬式では、遺族が何らかの形で再び故人の遺体と直に向き合うことになるかもしれません。

🔸🔸🔸(まだまだ)次回につづく🔸🔸🔸


文献

●賀名生村史編集委員会編(1959)『賀名生村史』賀名生村史刊行委員会.
●橋本市史編さん委員会編(1975)『橋本市史.下巻』橋本市.
●井之口章次(1977)『日本の葬式(筑摩叢書)』筑摩書房(引用p94).
●近畿民俗学会(1980)「和歌山県那賀郡貴志川町共同調査報告」『近畿民俗』82、pp1-28.
●近畿民俗学会(1980)「和歌山県伊都郡かつらぎ町天野共同調査報告集(Ⅰ)」『近畿民俗』83、pp3369-3436.
●粉河町史専門委員会編(1996)『粉河町史.第5巻』粉河町.
●那賀郡編(1922-23)『和歌山県那賀郡誌.下巻』那賀郡.
●那賀郡池田村公民館編(1960)『池田村誌』那賀郡池田村.
●中野吉信編(1954)『川上村史』川上村史編纂委員会.
●野上町誌編さん委員会編(1985)『野上町誌.下巻』野上町.
●野迫川村史編集委員会編(1974)『野迫川村史』野迫川村.
●大塔村史編集委員会編(1959)『大塔村史』大塔村.
●大塔村史編集委員会編(1979)『奈良県大塔村史』大塔村.
●沢田四郎作・岩井宏実・岸田定雄・高谷重夫(1961)「紀州粉河町民俗調査報告」『近畿民俗』27、pp888-906.
●鈴木秋彦(1981)「三角形状葬祭具の基礎的考察」『近畿民俗』89、pp3762-3780.
●玉村禎祥(1972)「紀州岩出町の民俗―人生儀礼―」『民俗学論叢:沢田四郎作博士記念』pp88-95.
●東京女子大学文理学部史学科民俗調査団(1985)『紀北四郷の民俗:和歌山県伊都郡かつらぎ町平・大久保』東京女子大学文理学部史学科民俗調査団.
●和歌森太郎編(1965)『志摩の民俗』吉川弘文館(引用p200).
※各事例に付記した年代は、文献発行年の年代(例:昭和48年発行→昭和40年代)とし、その文献が別文献から引用している場合(=管理人が孫引きする場合)は原文献の発行年の年代を付記した。但し、文献収集の段階で現代の市町村史が近代のそれをそのまま転載している事例がいくつか判明した(例:昭和中期の『●●町史』が大正時代の『●●郡誌』を転載、昭和中期の『●●町史』が昭和初期の『●●村誌』を転載、など)。したがって、事例の年代に関する信頼性は疑わしく、せいぜい「近世か近代か現代か」程度に捉えるのが適切である。

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