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開発者と禅僧の達観さ。

自分が一日で取得するテキスト量は、大昔新聞を朝に読んでいた時代と比べると、圧倒的な差がついていると思う。しかし、記憶の定着という観点では、年を取ったのと、覚えようという意識が低くなったためか、覚えられなくなっている。

そのため「あれ、前に読んだ、この情報ってどこのなんだっけ?」ということは、よくある。それこそブックマークやらリツイートやら何かしらの外部脳への紐付けも行っているけど、起きている18時間の間のインプット上、気になった情報の自動保存は実現していないため、ちょっと触れただけの情報は、また外海へと流れていく。

そのような情報取得環境だと、いくつかの関連する事象をうまく整理しきれない。けど、面白いなと思うのは、触れた情報を何日か寝かして置くと、それこそ熟成されることで、紐づくことがある。

最近だと、Rubyの開発者である、まつもとゆきひろさんの講演記事を斜め見していたのですが、開発者でありがちなエッジの効いた話ではなく、心の有り様などかなり達観めいた印象があった。そして数日後読んだ本がたまたま「禅」関連の書籍で、これも「そうだよな」「ちがうよな」と読み進めていたら、なぜかちょっと前に見た感があって。

よくよく頭の泥の海をさらうと、先程の開発者の人の達観さと同じ質の話をしていることに気づいたわけです。禅僧と開発者。俯瞰で見るというか、道を極めるという意味では同じなのかはわかりませんが。

最近の興味は「こうすれば儲かる」という搾取目線でもなければ、「何をすればいいかわからない」というお慈悲を待つ目線とも違うというか。大きな変化点の濁流の中で、観察しつつも、少しだけ俯瞰で見た上で、判断できる意識を持っておきたいというか。

自分が持っている能力が明日から倍増するわけでもないので、持てる武器を維持しつつも、タイミングはその時点での自分の最善を続ける意識というか。その上での「心」の持ち方とかあり方は、重要だと思うし、自分の周りの人で多い「自分の感情に正直すぎて場を壊しにかかる」のではなく「静かな気持ちで冷静に最善を尽くす」ことを日々心がけて行きたい。

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全く持って余談ですが、自分のこのエッセイ。書いている話と、撮っている写真が不一致すぎて、ドン引きしてないですかね?昨日は、恵文社の話をして、恵文社の写真だったので、久方ぶりに一致していたのですが、普段はまったくその意識が低く、申し訳ない限り。

ちなみに、これは渋谷の裏側。東京は都会だとか田舎の人はいうけど、実際都市としての日本は全くと言っていいほど、近代的というにはおこがましい様相なのです。


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