自己紹介・前編
みなさん、こんにちは! 和花です。
ご訪問いただきありがとうございます。スキ、フォロー、サポートいただけると嬉しいです^^
毎日noteを始めて1週間ほどたちますが、あらためて自己紹介させていただきます<m(__)m>
転勤族の第3子として生まれる
私の両親は、戦時中生まれで銀行員同士で知り合い、東京オリンピックの年に結婚しました。
父は、7人兄弟の上から2番目でしたが、長兄が脊椎カリエスで長年病床にあったので、14歳のときから値下がりした新本50kgほど自転車に乗せ、公民館や図書館に売りに行き、その稼ぎで一家9人の生活を支えていました。
高校は校長先生に、仕事をしながら試験のときだけ登校し必ずよい成績をとるので入学させて欲しいと直談判に行き入学。
試験前は友人たちに食べ物を差し入れし、勉強を教えてもらい試験をパスしていました。そして、恩師の口利きで銀行に入行しました。(米寿祝いで初めて聞きました。)
母は京都生まれ、主席で高校卒業後京都支店に入行。初年度で一番責任の重い出納係に配属され、その実績をかわれて翌年大阪本社に栄転します。(母の死後、伯父から聞いた話です。)
当時京都で買い食いなどもってのほか、という風土で育った母は、大阪の自由な空気に感化され、退社後初めて立ち食いしたたこやきの味が忘れられないといっていました。
そして、その大阪本店で父と母は出会い結婚。転勤族として、段ボールの荷ほどきが終わる前に次の転勤先へ飛ぶという生活でした。
父は年中出張で、母は子ども3人の育児と家事を一人できりもりしていました。あまりの不在に、姉はたまに帰ってきた父をみて、「この人誰?」と母の背中に隠れていたそうです。
そして、結婚して8年後父は当時最年少で支店長になります。その年に私は生まれました。
兄、姉の新しい転勤先の小学校、幼稚園に転校、転園する手続きを父が行っている最中、母は産院で私を産んでいました。
中2のときに自宅が火事。モノへの執着がなくなる
その赴任先で転勤はなくなりましたが、私が中学2年のときに隣家から幼児のライターの火遊びにより失火、自宅が類焼し二階が全焼します。
火事自体午前中の出来事でしたが、夕方帰宅して初めて知りました。両親は焼け残った家具の運び出し、警察の事情聴取、夜寝る場所の確保にと奔走し、自宅前は近所の人で騒然としていました。
放水された下水と土壁でドロドロになった階段を土足で二階にあがると、見事に屋根が焼け落ち空が見えます。
当時学校に教科書を置き勉していた私は、学用品の被害は比較的少なめでした。が、小学校のときの交換日記が見事に水に浸かりぐしゃぐしゃになっていました。(⇒詳しくはこちらの記事へ「note始めました」)
焼け出された家具からは、独特の焼け跡が残り、煙のにおいは5-6年消えませんでした。
直接火事現場をみたわけでもないのに、その後、3年間ほどPTSD(心的外傷後ストレス障害)で、救急車やパトカーのサイレンを聞くと胸がドキドキし眠れませんでした。
当時、そのようなPTSDという言葉もなかったので(阪神大震災以降に使用)時間が傷を癒すことは、だいぶあとになって知りました。
と同時に、モノがないことがこんなにもスッキリするものなのだ、この時以来モノに対する執着がびっくりするぐらいなくなりました。
モノはいつかなくなる、命があればなんとでもなる。その人自身の血肉となる体験欲に価値を見出すようになったのもこのせいかもしれません。体験したことは、誰にも奪われません。
そして、よりよりカタチへと昇華していくことができます。(なので、今回コロナの10万円の給付金もモノではなく、よりスキルアップするための知識技術習得に使う予定です。)
火事で転居後は、別の社宅に3年間住んだあと、父が建てた持ち家に引っ越します。大学に進学させてもらい、アルバイトで貯めたお金で長期休暇中は海外でフリー貧乏旅をしていました。
就職氷河期で就職した会社が倒産
そして外大卒業後、氷河期で就職した半導体商社で営業事務&通訳の仕事につきます。中国に新事務所開設するため日本側の窓口担当でした。
お給料が少なく、退社後は家庭教師のアルバイトをしていました。が、ある朝突如「倒産」を告げられ、社員全員解雇されます。
社内は大混乱。秘書室長及びトップ層は「計画倒産させる」ことを分かった上であの演技(号泣)をしていたのだ、と知ったときは複雑な気持ちでした。
私は営業サポートしていたうちの一人で華僑の上司に誘っていただき、半導体メーカーに再就職しました。一家の大黒柱であった人は悲壮感に溢れていました。
再就職先では、工場の視察にくる台湾、中国人経営者と営業担当の間での通訳をしながら、本社で社長の横に座り総務や経理業務、大証上場のための書類作成などをしていました。
倒産で雇われる身に危機感を覚え、当時付き合っていた人との子供を失ったことのダブルショックで何をしても癒されない自分がいました。
その中で、自分を取り巻くさまざまな「色」に、安堵解放されていく自分に気付きます。幸い早くに再就職できたので、将来は「色」に関する仕事に就こうと退社後スクールに通い始めました。
色の基礎知識から現場の活用法まで、服飾、建築、環境、商品パッケージなど理論と同時に実技の課題もこなしながら、色彩検定の資格も級をあげて取得していきました。
同時期、共働きで将来独立することも応援すると言ってくれた人(2年前に別居した夫。詳しくはこちらの記事へ⇒「こじらせまくったお金アレルギーの話」)と入籍同居したことで、仕事、勉強、家事、そして趣味のダンスと布団に入って3秒で気絶して寝るという生活を送っていました。
今思うと若くて体力、気力もあるので、そんな無茶ぶりな生活ができたのだと思います。が肉体的には悲鳴をあげ、PMS(月経前症候群)の症状もひどく、3カ月~半年間の無月経または3週間続く不正出血など生理周期はボロボロでした。
切迫流産で出血が止まらず退職
そうこうしているうちに、再就職して数年後の年末から出血が止まらず、年明けすぐ近くの産婦人科を受診しました。「切迫流産しかかってる。流産してもいいなら仕事行けば。絶対安静しか防ぐ方法はないけれど。」と冷たく言い放たれました。
年始早々会社に電話して事情を説明し、一緒に再就職してCADの仕事をしていた同期の子に3カ月間私の席に座ってもらい、電話での引き継ぎ業務が始まりました。
丁度夫が東京に単身赴任に行った直後でもあり、動くことができないので一人では何もできず実家のお世話になり、実家近くの産科に通うことになりました。(自宅安静できない人は、病院安静になってしまうので大人しく自宅安静していました)
妊娠して初めて分かったことですが、生まれつきの子宮奇形のため赤ちゃんの定着滞在率が悪く安定せず、流早産しやすい体質でした。(⇒詳しくはこちらの記事へ「妊娠、出産、育児を通してわかったこと」)
実際、子宮の伸びもすこぶる悪く妊婦とわからないほどの小さなお腹でした。
胎児が成長するにつけ、まさに腹の皮が内側から引き裂かれるほどの痛みと、少し動くと吐き気と頭痛が襲ってきてダウンするという、一つの肉体に二つの命があるとはこういうことなんだと過去経験したことのない妊婦生活でした。
「出産直前まで働く」理想はことごとく散りました。が、「命を守る」重みを身をもって知る機会になりました。
起業準備と胎教の妊婦生活
安定期に入ると若干動けるようになり、人の顔の下に色布をあてて似合う色を診断するという「パーソナルカラーのモニター実践」と、私の母が次に育児するときはこんな子育てをしたいと薦めてくれた「七田式の胎教」に取り組み始めました。
「赤ちゃんは天才」でも知られる右脳・左脳の全人教育を目指すという、教育博士でもあった七田眞さんの40年以上の教育理念と実践が詰まった子育て法でした。
「人間の潜在能力が一番発達する胎児から子育ては始まっている」、と頭で理解しきれない部分がありながらもただただ本通りに実践していました。
■長男1歳でひらがな50文字がわかる
帝王切開で無事出産。舌小帯短縮症や乳児性湿疹に悩まされながらフラッシュカードや絵本の読み聞かせなど、クッションで息子の体を支えながら見せていました。
長男がうまくミルクが飲めなかったため、母乳の方が余り乳腺炎防止のため食事制限をした結果、私は半年で15kg痩せました。
妊娠中の体重増加が7kgだったので、それが元に戻りー8kg減ったわけです。胸だけ母乳で異様に膨らみ、あとは難民のような体でした。こんな短期間劇的に痩せたのはこれが最初で最後です。夫の夜間出勤などでワンオペ育児だったことも大きかったです。
砂糖、油なしの玄米菜食を徹底したことにより、体調はすこぶるよかったです。
が、断乳後徐々に食事を戻していったときにあまりに「普通」と呼ばれる食事の味の濃さと甘ったるさに、唾液がおっつかず初めて虫歯になりました。
いかに不必要なものを過剰にとっている現代食なのかと根本的に食を見直すきっかけになりました。
夫は高脂血症でしたが食事を変えようとしませんでした。人は目の前の欲望に弱く、自分事にならないと取り組まないということをその後の育児、夫婦生活、地域活動、仕事を通してことあるごとに学びました。
常に責任から逃れて覚悟をきめようとしない身近な人の態度に埋めようのない不信感が募り、深い溝となっていきました。目の前にいる我が子の命に対する姿勢と言動に誠実さを感じることができませんでした。
子育てに正解はありません。人生全般においてこれといった「正解」というものも存在しません。わからないなりに進んでいくのは、誰でも不安はあります。
己の保身、損得、優劣感情に執着している間は、「正解」を求め続けている間に固まって結局何もできない、ただ周りにあわせ意見しないことで「普通で安全な」人生を送っていると思い込んでいたりします。
長男は発語が遅く、3歳前ぐらいから喋り始めたのですが、壁にはった「あいうえお」表でひらがなの文字当てをさせると、1歳になる前には全部指さして正確に答えていました。
今ではさまざまな育児教材がたくさん出回っていますが、当時そこまで画期的な教材があまりない時代でした。
そして、個人でカラーの仕事を始めました。当時大学の同期が勤めていたリゾートホテルでブライダルフェアのイベントとして、新郎新婦のパーソナルカラー診断の仕事がもらえたため、長男同伴で3Hごとに授乳しながら現場にたっていました。その後定期的にイベントの仕事を請け負うようになりました。
■次男が2歳になってパートに出る
3年後次男を妊娠し、再び切迫流産、自宅安静になり仕事をお休みします。が、次男が2歳になるとどうしても家庭以外の場所の社会とのつながりを求めて、息子たちを幼保一体型の幼稚園に預けてパートに出始めます。
保育園と違って、幼稚園は閉園時間も早く休みや行事も多く、私立だったので保育料も高いです。(周りに公立幼稚園なし)
慢性中耳炎で耳鼻科通院に加え、よく伝染病ももらってくるので、シフト・休みの融通が聞く職場を選んでのパートは15以上しました。
雪が舞う倉庫でのお歳暮ビール詰め、埃だらけの倉庫での食品検品、冷蔵庫でのバレンタインチョコ・ケーキ作り、トラック運転手相手の街頭弁当販売、1000名以上入るレストラン接客配膳、展示会での新規顧客開拓、朝刊配達・・・・
一般的には低賃金重労働と呼ばれる職種もたくさんあったわけです。が、とにかくいまの自分の置かれた時間・環境制限のある状況で、できることを模索し続けること。
家庭の外に出て様々な人、業種、働き方を知ったという意味ではのちに人それぞれの生活スタイル、価値観を想像してサービスをつくって届ける、その人の気持ちに寄り添ってどう人生をデザインしていくかという仕事につく上で、とても貴重な体験となりました。
「そんなお金にならないしんどい仕事、やる理由がわからない」と頭ごなしに言ってくる人がいます。
そのような人は、狭い視野と少ない人生の選択肢で生き、そこそこの「幸せ」で自分を納得させて、深みのない人生を送っていくんだろうなぁとも感じるようになりました。
そして、何よりパーソナルカラー診断する眼を鈍らせず、最新のウェディングドレス・スーツ事情を知るために、四つ星、五つ星ホテルで配膳を始めます。
婚礼中心の宴会業務なので土日中心の仕事でしたが、時給が高めで週シフトで入れるというのが魅力でした。
かなり体育会系の職場で、下は16歳の高校生から配膳事務所に登録し、その道20年来のお局もいました。
完全に実力主義の現場で、36歳で初めて入った私は18歳の若者にあごで使われる。
お局には「今のアンタの働き方は、大阪の最低時給540円にもなってない。お客さんにとって正社員もパートも関係ない。裏で何いわれても表にたてば笑顔で接客すべし。それができなければいますぐ辞めろ。」と叩きあげられる世界でした。(今の若者はすぐやめ、そのお局も時代に合わないと辞めさせられたと聞きました。)
その中でもやっていけたのは、当時事務所の担当者から
「年齢は気にしないでいいです。必ずできるようになりますから。最初はきついかもしれませんが慣れます。わからないことは教えますのでいってください。」
というサポートがあり続けることができました。
ガッツはあっても、すぐにできないこともたくさんあります。常に初心者目線で応援する人であり続けるという姿勢を学ばせていただきました。
8H以上連続労働は当たり前、16H労働もあるというブラックな業界です。その事務所の担当者は30歳そこそこで脳溢血で倒れて救急搬送され、しばらくリハビリしていたと聞きました。
この経験で、「仕事に年齢は関係ない。始めるのは自分が決めたとき」という概念がしっかり植え付けられどんな仕事でも優劣はないと大前提ができたことは大きかったです。(あくまで、一般的にある職業です。伝統工芸、職人などの世界はまた違います。)
ホテル仕様の大皿4枚持ち、テーブルセッティング、料理マナー、宴会準備から片付け、クローク、控室、VIP専用レストランなどホテル業務全般できるようになりました。
お客様にとって最高のサービスとは
「次に求められることをリクエストされる前にするのは当たり前。その次の次の次まで見越して、リクエストされる前にこちらからサービスできるのが最高のサービスだ。」
というのちのマーケティングに繋がるサービス提供の基本を体得できたことは、ものすごい経験値となりました。
率先して拍手で会場をリード、盛り上げるという技も起業後セミナーや勉強会などするときにも役立ちました。
そこでは5年間働いていましたが、マニキュア、ネイル、茶髪は厳禁、髪型や身だしなみも厳しく独立起業するにあたりこの規則でやっていくことに限界を覚え辞めました。
次回<自己紹介・後編>につづきます。
引き続き、お読みいただけると嬉しいです^^ どうぞよろしくお願いいたします<m(__)m>
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