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No one cares about me.

去る1月14日に京都市勧業館(通称みやこめっせ)で行われた「文学フリマ京都8」に出店し、はじめての詩集『傷と自由』を販売しました。2024年のはじまりに新しい扉を開いたような気がします。今回は『傷と自由』が生まれた経緯と出店してみて感じたことについて書きます。

出店を決めたのは昨年の文学フリマ京都

昨年、友人が出店していたので彼女の本を買うために文学フリマ京都に足を運んだ。それで、たくさんの人が創作活動をしている熱気に包まれて、「来年は私も出店する」と決めたのだった。

それからというもの、時々文学フリマのウェブサイトを覗いて出店者募集が始まっていないかチェックしていた。しばらくすると忘れてしまっていたが、8月ごろふと思い出して、ウェブサイトを覗くと文学フリマ京都の出店者を募集していたので勢いで申し込んだ。申し込んだことに安心し日々の忙しさにかまけて、創作には手をつけないまま、月日が流れて秋が過ぎ、冬が来ようとしていた。

それなのに、作品と言えるものは何もない。ただ、書き溜めたいくつかの詩とnoteの記事があるだけだった。これはやばい。危機的だ。もうやめてしまおうか。ただ適当に冊子にしてお茶を濁そうかと悩んでいた時、友人の顔が思い浮かんだ。彼女なら手伝ってくれるのではないか、と。

そしてカレンダーが残り1枚となった日、勇気を出して、友人にメールを送った。まとめていうと「力を貸して」と。彼女は快く引き受けてくれた。そこから制作が始まった。

なぜ詩なのか

そもそもなぜ詩なのかということを書いておきたい。わたしは中2の頃から言えないことがあると、詩に託してしまうという癖がある。それはその頃大好きだった詩人、銀色夏生の影響もあるだろうが、その癖は時々出てきて、その後も私を詩作に向かわせた。インフルエンザの熱のようなものだ。

今年の春くらいから、いつものように詩作をしていたが、その熱は下がることなく微熱のような熱さを残して持続した。わたしはその時の心模様を言葉に託していった。

と、もっともらしいことを書いてみたが、別の理由もある。詩の方が書きやすいのだ。文章を書くのは時間がかかる。それに対して、詩はさらさらっと書けてしまう。何か書きたいけど、時間がないし、根気もないというときは詩にしたのだ。

旅の途中で、通勤電車で、自分の部屋で思いついたフレーズをスマホのメモに打ち込んだ。そんな生活を一年続けた。

制作秘話

メールをした日、そのままオンラインで友人のTさんに会って打ち合わせをした。Tさんは造本にもこだわったほうがいいということでいろいろと教えていただいた。もうわからないことだらけだったけど、とりあえず全て学ぼうという意気でついていった。

原稿の形でまとめた詩集をTさんに見せた時が一番どきどきした。自分のなかに秘めていたものを誰かと共有する恥ずかしさ、内臓を裏返して晒し出すような感覚だった。Tさんは穏やかな表情で「いいんじゃないでしょうか。とても」と言ってくれた。大仰に褒めるわけでも、否定するわけでも、いろいろとアドバイスするわけでもなく、ただ受け止められたことがわたしには何よりありがたかった。

それから、二人三脚でー少なくともわたしにとってはー詩集を作りながら、1ヶ月を過ごした。1週間に3回はオンラインで会い、するべきことを共有し、本のデザインなどについて検討を重ねた。本作りの合間のちょっとした雑談も楽しかった。作業が進まないときでも、Tさんとの約束があると自然と作業に向かうことができた。仕事もしていたが、とりあえず詩集のことが頭から離れない1ヶ月だった。いよいよ年末という日に、詩集を無事印刷会社に入稿した。ここで味わった達成感は今までの人生で味わったことのない達成感だった。年明け、印刷された詩集が無事納品されてあとは当日を迎えるのみとなった。

誰も私を気にしていない

当日、出店者は受付を待って列をなしていた。さもありなん、出店者だけで800人もいるのだ。無事受付を済ませて指定された【す−04】の位置につく。心臓がドキドキしている。当たり前だ。新しい挑戦をしているのだから、と言い聞かせるようにして黙々と設営する。設営はすぐに終わった。

開始直前に昨年も出店していた友人が「こんにちは〜また後で来ます〜」と挨拶に来てくれた。うれしかった。

何よりもうれしかったのは、無事自分の作品とともに、この場にいられたことだ。昨年にした自分との約束を守り通せたことだった。

そして、開始時間。「文学フリマ京都、はじめま〜す」という声とともに拍手がおきた。入場者も続々と会場に入ってくる。しかし、予想通り私のブースに足を停める人はいない。それぞれがお目当てのブースへ足をすすめている。

その時にはっきりとわかった。「誰もわたしのことなど気にも留めていないのだ」と。それは鮮やかな気づきだった。「わたしの詩が読まれ、批判されたらどうしよう」みたいな心配は当然のことながら、正真正銘の杞憂なのだ。それはネガティブな意味ではなくて、だから、人の目なんか気にしなくてもいいのだということだ。やりたいことはやってもいい。それは言葉では理解していた。でも、今回は体感として理解した。それは大きな収穫だった。

これが、わたしの文学フリマ京都で体験したことだ。もちろん来年も出る予定にしている。来年はもしかしたら、友人も一緒にできるかも知れない。創作の輪が広がること、その輪のなかに自分も入っているということはとても幸せなことだと思った。


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