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「ほんのちょっと当事者」を読んで

月曜日の無料版です。

長女と次女が学校に行けなくなってしまったことで、まったくの他人事だと思っていた「不登校」の当事者になりました。

当事者になってはじめてわかったことがあるというようなことを書いた記事を以前にも書きました。

なんだかその時から「当事者」という言葉が自分の中で引っかかるようになり、たまたま知った以下の本を読んでみました。心が大きく揺さぶられたので、今日はその感想を書いてみたいとおもいます。

この本はローン地獄、性暴力、障害……生きていくにあたって誰もが避けようのない「困りごと」にスポットを当てています。

著者自身もその困りごとの「ほんのちょっと当事者」であると打ち明けつつ、よりよく生きていくにはどうすればいいかな?と問いかけてきます。

そして、自分自身もあんなことこんなことの「ほんのちょっと当事者」だとおもい、その時の辛かったこと、悲しかったことが蘇って、まるで「辛かったよね」と著者に語りかけてもらっているみたいで、何度も何度も涙がでました。

著者が自分の本当は誰にも言いたくない、意地悪で悪い感情なども包み隠さず書いてくださっていたので、自分の中のそういう感情とも向き合えたとおもいます。

特に、心に残ったのは第3章の「奪われた言葉」です。

著者が、ネットカフェで出産し男児を死なせた29歳の女性の公判を聴き、その事件のいきさつや被告の人生をなぞりながら、女性の人生について考えた文章でした。

本によれば、被告の女性(以下、本文のとおりクミさんとする)は、母親と折り合いが悪く、家出を繰り返し、男に騙され、次第にボロボロになっていったのだそうです。そんな中で、父親が誰ともわからない子を2度身ごもり、出産します。事件は2度目の出産でした。

公判を傍聴した著者はこのように語ります。

彼女の答弁には、強い思いや主張が感じられない。

そして、そこに母親の影響を感じるとして、以下のようにあります。

クミさんは中学生の頃から文章を書くことが好きだった。部屋にこもって自分の中で膨らませた空想を物語にして書くことを楽しみにしていた。
しかし、その文章を読んだ母親は、書かれた内容をことごとく批判し、目の前で破りゴミ箱に捨てた。

クミさんは自分の言葉を母親に奪われていました。
そして、自分の人生を生きるという気力を失い、ただ、誰かに言われるままに生きていたのです。お腹の中に子どもがいても、どうすればいいか考えることもできなくなっていました……。

この章を読んで、わたしはこんなふうに考えました。

最近、子育てに悩んで、子どもの頃の親との関係をふりかえることが多くなりました。滋賀の田舎の家父長制の権化のような家で育ったわたしは、父親によく叱られました(当然ビンタ付き)。後継である弟だけ大事にされていると自分を卑下していました。

その小さい頃の自分の思いがどうしても消えず、「うまく子どもを育てられない」と何度も落ち込みました。

最近、高校時代の友人の助けもあり、やっとその域を脱しつつあります。思春期子育てにも指針が持てるようになりました。そして、この本に出会い、決意しました。

娘の言葉は決して奪うまい。

事件の一番の被害者である彼女の可哀想な赤ちゃんを鎮魂するには、クミさんに自分の足でしっかり立って生きてもらうことが何よりも必要なことなのではないだろうか。そのことはクミさんだけにではなく、わたしが生きる社会にも重要な意味をもつ気がしてならない。
そのためには、彼女は自分の言葉を取り戻さねばならないのだ。

言葉を奪うことは考えを奪うことです。自分で自分を大事にしながら、自分の人生を切りひらくためには「自分で考える」という作業がどうしても必要です。女の子が困難を自分の力で乗り越えながら、自由に生きるためには、何よりも「言葉」を育て守っていかなければならないのだとおもいました。

そして、もし「自分は言葉を奪われた」と感じるなら、それを取り戻すこともきっとできるはずだと光が見えたような気がしました。

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日本語教師でライターが日常をみつめるエッセイです。思春期子育て、仕事、生き方などについて書きます。

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