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どうしても理解はできない。でも書かずにはいられないこと

今朝ツイッターを開くと「5歳の子が」「あんな言葉を残して」という文字がチラホラ。色々な人の感想と共に流れてきた文字に嫌な感じを覚えながら、『5歳』で検索して出てきた虐待事件ニュースの見出しだけ斜め読みした。

望んでも望んでも子どもを抱くことが出来ない人もいるというのに。

これは朝の出掛けに読まない方がよい。
そう思って携帯を消すと、目の奥がぎゅっと痛んだ。

息子が5歳ぐらいの時にこんな事を言っていた。

『僕はずっと前からお母さんの事を知っている。お母さんが僕を生む前も、お母さんが子どもだった時も、お母さんがお母さんのお腹の中にいた時もそばにいたんだよ。ウフフ。』

このウフフ、息子の作り話かもしれない。

でも、女性の卵子の元は胎児の時に出来るわけだから、私が母のお腹にいた時に作られたもの。息子が母の胎内にいた頃から私と一緒にいたという話は、まんざら嘘じゃないような気もする。

子どもを産んでから、幼い子どもがびっくりするほどお母さんのことが好きだということに驚いた。自分の幼少期なんてすっかり忘れてしまったので、息子はどうしてこんなに私が好きなんだろう?とよく不思議に思う。

お母さんは、赤ちゃんにとっては食料でもあり、生きる為に必要な物を与えてくれる人。子どもの『好き』は、自分が生きる為に離れてはならないという本能なのだろうが、生まれてくる前からずっと一緒だった2人が体が離れても繋がっていると考えるとなんだか頷ける。



子どもが大きくなれば心身ともに1人の人間として独立していくけれど、まだ母との繋がりが強い幼い子ども達の痛みは母自身の痛みと同義。

幼い頃に母自身も不遇だったとしても、大人になってから様々な事情があったとしても、望んだ、望まないに関わらず、自身の身体の一部ともいえる子どもの痛みを感じ取り、守る事が出来ない母達というのは、自身の愛着の問題に決着がついていないからだろう。

もしかしたらある種の病なのかもしれないが。。。

そんな問題を抱えた母達に言わせれば『お前なんかに気持ちはわからない』だろうし、たぶん今の私には地球がひっくり返っても理解は出来ない。


読んでもらいたい人達は、残念ながらこうした場に書いてある物を読まないとは思うが書かずにはいられない。


子どもは母自身が胎児の頃から一緒に育ち、嬉しい時も、悲しい時も、辛い時も共に過ごした自分の身体の一部でもある。

自分を幸せにしてくれるかもしれない誰かではなく、自分で自分を慈しみ、自分の身体を大切にするように子どもも大切にしてほしい。

それが出来ないのなら、せめて安全なところへ手放すぐらいはしてくれないだろうか。

切に願う。


継父、ステップファミリーの問題も難しいものだし、行政が取り組んでいかなければならない課題も山積みだろうし、どうするのが一番良いのかなんて誰にもわからない。

なによりも幼いうちは、たとえどんな酷い母でもそばにいたいのかもしれないというのがなんとも切ない。



5歳の女の子、今度生まれ変わる時はもっと違う経験をしに生まれておいでね。

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