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オンライン授業の誤解と幻想(4)

前回は、オンライン授業と対面授業をいかに組み合わせるかについて考えました。今後、オンライン授業の重要性が増すとすれば、これと連動して、学修時間のとらえかたについても考える必要があります。
 そこで今回は、あらためて学修時間について、オンライン授業との関連で考えます。ポイントは、下記の通りです。

・オンライン授業の普及を考える場合、従来の「時間で学修量をはかるシステム」を再考する必要がある。
・個人の能力の多様性と社会経済的地位を背景とした教育格差を表裏一体の問題としてとらえる必要がある。
・オンライン授業は「多様性」にどう対応するのか、について考える必要がある。

時間で学修量をはかれるか?

 「単位制の誤解と幻想(4)」では、アメリカの「カーネギー・ユニット」に起源をもつ「時間で学修量をはかるシステム」自体を再考する時期にきていること、そして、アメリカではオンライン大学の普及とともに、時間ではなく「到達度」に応じて学生を評価する「コンピテンシーに基づく教育」(CBE)が普及してきたことを指摘しました。
 オンライン授業と対面授業のどちらにもいえることですが、学生によって学修速度や理解の度合いは異なります。同じ課題をあたえても、それをこなす時間は学生よってばらつきがあります。このことは、学生の学力・意欲・学習歴が多様化すれば、なおさらのことです。
 資格・検定対策のeラーニング・コンテンツをみると、「標準学習時間」という表現がよく登場します。厳密にいえば、これはコンテンツを再生するのに要する「標準再生時間」のことです。60分の映像を再生したとしても、それを巻き戻し・早送りしながら、理解するのに要する時間にはかなりの個人差があり、実際は「標準的」な学習時間を設定するのは困難です
 そう考えると、オンライン授業の普及を想定した場合、「時間で学修量をはかるシステム」自体について考え直さなければなりません。

「多様性」を真剣に考える

 学生によって学修速度や理解の度合いが異なることは、個人の能力の多様性を考えれば容易に理解できます。もうひとつ厄介な問題は、松岡亮二氏が『教育格差』で明らかにしたように、家庭の社会経済的地位を背景として、児童の教育格差が早い段階で生じ、この格差が大学にまで持ちこされることです。つまり、個人の能力の多様性と教育格差を表裏一体の問題としてとらえる必要があります
 ところが、教育政策をみるかぎり、社会経済的地位に由来する教育格差については、あまり議論された形跡がなく、また「教育政策=経済政策」という視点もありません。最近の中教審答申「2040 年に向けた高等教育のグランドデザイン(答申)」(平成30年11月26日)をみても、「多様性」という言葉は頻繁に登場しますが、そこには、教育格差を前提とした個人の能力の多様性という視点はありません。
 ちなみに、同答申の「Ⅱ.教育研究体制―多様性と柔軟性の確保―」には「多様な学生」という項目があり、そこには次のように書かれています。

 今後、高等教育機関は、18 歳で入学する日本人を主な対象として想定するという従来のモデルから脱却し、社会人や留学生を積極的に受け入れる体質転換を進める必要がある。
 また、障害のある学生が障害を理由に修学を断念することがないよう、体制や環境を整えていくことも必要である。

 ここには、従来の学生のなかにある教育格差を前提とする「多様性」については言及されていません。これまでの教育政策は、児童・学生・生徒の能力がある程度均質であることを暗黙の前提としてきたようにみえます。そして、機会の平等を担保することで、様々な格差や多様性に目をつぶってきたようにもみえます。
 このことは、コロナ禍の一斉休校で浮上した「9月入学」の議論にもみられます。すでに「9月入学の誤解と幻想(1)」で、次のように指摘しました。

学習格差は、一斉休校によるオンライン授業を通してあらわになってきました。ところが、もし学習格差の解消を旗印に9月入学が導入されたとしたら、今度は潜在的な学習格差が隠蔽される可能性があります。つまり、どの児童・生徒にもスタートラインは平等に確保したので、あとは個人の自己責任です、というわけです。これでは、いつまでたっても本当の「格差」は解消されないままです。

 一方で、先の紹介した答申では、「多様で柔軟な教育プログラム」の具体的な方策として、「情報通信技術(ICT)を活用した教育の促進」があげられています。そこで、オンライン授業は「多様性」にどう対応するのかを考える必要があります

オンライン授業の誤解と幻想(5)」に続く


 

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