見出し画像

単位制の誤解と幻想(4)

前回は大学生の学修時間についてお話しました。そこで明らかになったことは、学修時間に関する調査によると、東京大学を筆頭として日本のほとんどの大学が、「一単位の授業科目を四十五時間の学修を必要とする内容をもって構成する」という大学設置基準に違反してきたことです。また、あまり注目されてこなかったことですが、日本の大学生は、授業に直接関係する学修時間とほぼ同じ時間を「自分なりの学び」に当てている、ということも明らかになりました。
 さて、学修時間に関する「法令違反」は、大学が一方的に悪いのでしょうか。それとも、制度設計自体がおかしかったのでしょうか。そこで、まず日本に単位制がどのように導入されたのかをみていきましょう。

単位制の模倣と誤解

 いまの日本の単位制が導入されたのは、戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の民間情報教育局(CIE)の指導によるものです。当時の旧制大学では、なんと2時間の授業科目が週に15~20種類も行われていました。そこでCIEは、単位制の導入で詰め込み教育から学生を解放するとともに、自学自習を促進しようとしました。CIEの考えでは、現在のアメリカの大学にみられるように、1科目につき週3時間の学修(講義と自学自習等の組み合わせ)を想定して、1学期に15単位を標準としていました
 ところが、CIEの意図がうまく伝わらず、時間で学修量をはかるシステムだけが導入されて、本来あるべき「完全セメスター制」が理解されないままに「疑似セメスター制」が運用され、現在にいたるようになりました*。大学設置基準が前提としている単位制も、もともとは完全セメスター制であったはずです。しかし、そのことが忘れられて、学修時間だけがクローズアップされることになりました。新設大学・学部を認可する際に、文科省も完全セメスター制を導入するように指導してきたとは考えられません。
*ここでいう「完全セメスター制」「疑似セメスター制」については、「単位制の誤解と幻想(1)」をご参照ください。

時間で学修量をはかることの限界

 さて、「時間で学修量をはかるシステム」は、さかのぼれば20世紀に確立した「カーネギー・ユニット」(Carnegie Unit)というものにいきあたります。これは、アメリカの鉄鋼王のアンドリュー・カーネギーが設立したカーネギー財団が、待遇がよくなかった大学教員のために、1,000万ドルを寄付してはじめた年金制度に由来します。詳細については、『大学論の誤解と幻想』の第六章「実践的・大学教育論」に書いていますので、そちらをご覧ください。

画像1

 カーネギー・ユニットのように、勉強した時間によって学修量をはかる考え方については、早くから批判がありました。よく考えればわかりますが、学生によって学修速度や理解の度合いは異なります。同じ課題をあたえても、それをこなす時間は学生よってばらつきがあります。このことは、学生の学力・意欲・学習歴が多様化すれば、なおさらのことです。そうなれば、時間で一律に学修量をはかることに疑問が生じてもおかしくありません。

「コンピテンシーに基づく教育」(CBE)の登場

 近年、アメリカにおけるオンライン大学の普及で、カーネギー・ユニットに対する再考がうながされるようになりました。多くのオンライン大学では、学修時間ではなく、あらかじめ定義された知識・技能などの修得をもって履修証明(クレジット)を付与します。学生は、自分にあった方法やペースで学修をすすめることができます。したがって、標準的には30時間の学修が必要だとしても、それを20時間で終える学生がいても認められることになります。このような時間ではなく「到達度」に応じて学生を評価するような教育形態を「コンピテンシーに基づく教育」(CBE: Competency-Based Education)といいます。CBEの普及を受けて、カーネギー財団はカーネギー・ユニットを再考するプロジェクトを立ち上げました。しかし、その報告書では、結局、現時点ではそれに代わるような制度がみつからないと結論づけています。
 しかし、時間で一律に学修量をはかることが難しいという現実は、やはり存在します。現在、コロナ禍によるオンライン授業が大学で実施されていますが、これを転機に、対面授業とオンライン授業の併用がすすむとすれば、CBEについても柔軟に考えていく必要があるでしょう。

 さて、最初の問いにもどりましょう。学修時間に関する「法令違反」は、大学が一方的に悪いのか、それとも制度設計自体がおかしかったのか、という問いです。
 結論的には、制度設計自体というよりも、その運用が間違っていたというべきでしょうといっても、運用する側の大学が一方的に悪いともいえませんこれは、ある意味では、制度に対する理解不足と誤解の蓄積によるものともいえます
 単位制と学修時間の問題は、本来「完全セメスター制」と切り離して考えることができません。ところが、文科省と大学は、「完全セメスター制」の理念を理解せず、形骸化した「疑似セメスター制」を運用してきました。その結果、学生は1学期に10~12種類の異なる科目について学ぶ事態になり、各科目の課題にじっくりと時間をかけて向きあうような余裕もない状況になりました。もちろん、完全セメスター制に移行したからといって、学修時間が飛躍的に伸びるわけではありません。学生を学びに向かわせるためには、様々な仕掛けが必要になるはずです。
 いま、コロナ禍で対面授業とオンライン授業の併用について真剣に考えるべき時期にきています。「時間で学修量をはかるシステム」についても、根本的な見直しが必要でしょう。

単位制の誤解と幻想(了)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?