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tofubeats『SHOPPINGMALL』 〜失われた怒りを求めて〜



tofubeats『SHOPPINGMALL』(2016)。
思えば筆者は、この曲の特にボーカルに表れている微温的な苛立ちの正体が、リリース時からずっと気にかかり続けてきた。それはいわば、怒りへと昂進する寸前で幾度となく自己省察へと送り返される空虚な怒りであり、直接の原因を欠いた幽霊のような苛立ちであるように感じられたものだ。
事実、ショッピングモールに対する不満はショッピングモールがもたらす代理的な満足のうちに引き裂かれており(「何かあるようで/何も無いな」)、オートチューンに対するディスは、他ならぬオートチューン聴取の快楽によって傷つけられている(「オートチューン意味なくかかっていた」という歌詞が、オートチューンのかかったボーカルによって歌われる)。つまり、ここでおぼろげながら立ち現れているのは、憑在論的な世界にアジャスト/アゲインストを繰り返す、それ自体矛盾に満ちた感覚=“憑在論的な怒り”なのだ。
その特殊な質は、3rd EP『STAKEHOLDER』リリース直前、フリーダウンロードで配信された楽曲『Drum Machine』(2015)と比べてみればいっそうはっきりする。

暴力的なトラップビートと四方八方から感情を刺激するコーラスのカットアップの中、tofubeatsによるボーカルは怒りのアベレージを振り切って痙攣し、たびたび裏声にひっくり返る。
「t.o.f.u.beatsの作ってる音楽は それっぽいことばっか 中身がなぁぁぁぁぁぁぁい」
ここで表明されているものが、自身の音楽活動が正当に評価されないことに対するストレートな苛立ちであることは明らかだろう。
しかしこの怒りは、そのあまりに直情的な(優れてヒップホップ的な)性質のゆえに、たやすく内向きの解決を目指してしまう。
「Drum Machineありゃ問題ない Synthesizerありゃ問題ない」
個人の苛立ちは、ドラムマシーンとシンセサイザーという、トラックメイカーの身に最も愛着したモノが提供する代理満足のうちに回収されてしまうわけだ。
結果として、怒りは、そこで歌われている制作機材同様、彼の自室の内部で完結し、ロードサイドに立ち並んだショッピングモール=憑在論的な外部へ出ていくことはない。
「他の人より外に出ない」
「ロードサイドカルチャー んなもんないから 中古のCD毎日欲しがる」
だが、ここで激しく躁転した形で展開されている鬱のポジションは、それを個人に強制している鬱のディス・ポジション=都市のフェティシズムの所在を、わずかばかり本能的に察知してもいる。
「asics tigar 原宿のrun そこそこの服着てみたところで」·····
このバースは、メジャー1stフルアルバム『First Album』(2014)で聞かれる印象的なライミング「I'm a basicでasicsなt.o.f.u.beats 」に対する自己韜晦でもあろう。「こんにちは tofubeatsです」というアナウンスに続いて登場するこの一節は、アーバンライフの享楽を描く作家としての自己規定であると同時に、その後長きに渡って彼の背中に貼り付く呪いの刻印でもあったはずだ。
実を言えば、tofubeatsのシニカルな側面は、この頃から既に特徴的であったものの(「インターネット繋いでヴァカンス ダンス踊って忘れちゃう ヘッドホンは外せない ゆえないつれないことばっかして食えないし」「ヒップホップってそれなに? 音楽ぐらいしか楽しいことないのに」)、その後享楽的な一面ばかりが喧伝されていくにつれ、パブリックイメージとの乖離が鋭く意識されるようになったのではないだろうか?



とはいえ『SHOPPINGMALL』以前には、その苛立ちのほとんどは内面的な思索へと向けられ、一種の私小説的な憂鬱としてのみ立ち現れている。
時にそれが『Drum Machine』のような剥き出しの怒りとなって表出されることがあったとしても、私の外部に位置する世界のありようが俎上に載せられることはなかったのだ。ましてこの曲がフリーダウンロードで公開された事実を思えば、2015年時点のtofubeatsにとってそれは、商業作品としての性質に馴染まない、プライベートな表現でしかなかったのだろう。
『SHOPPINGMALL』は、そんな彼がついに歌詞と音の両面において“憂鬱な外部”をはっきり対象化し得た記念碑的な作品と言える。
しかもこの曲は、広く世に問われた立派な商業作品であるどころか、MVカットまで行われたアルバムのリード曲なのだ。おそらくは本人としても相当な手応えがあったに違いない。
ここに来てtofubeatsは、表現の軸足を鬱のポジションからディス・ポジションに移すことによって、もともと備わっていた個人の憂鬱を都市のフェティシズムとして展開しはじめたように思われる。
こうした変化は、続くアルバム『RUN』の表題曲である『RUN』(2018)においてさらにクリアなものとなる。メジャーな音楽作品としては異例の1分55秒という曲時間を持つこの作品は、一見すると従来通りアーティストとしての葛藤が素朴に歌われているようにも聞こえる。しかし、重要なのは次の一節だ。
「間違うことはできないし 答えは隠される」


“間違う”というテーマは、『FANTASY CLUB』(2017)以降のtofubeatsにとっての本質的な課題であろう。
“間違う”は、彼の名を華々しく印象づけることになった(同時に、享楽的なイメージを決定づけることにもなった)『水星』を見事に更新してみせたクラブアンセム、『LONELY NIGHTS』(2017)のフック部分にも登場している。


「Only 27 まだ踊り足りない LONELY NIGHTSに何かを確かめ合い ノリだけの時とは何か違う 頭使っててもまた“間違う”」
頭使ってても、また(=何度も繰り返し)間違うのは、あらかじめその答えがどこかに隠されているからではないか?という可能性に、おそらくtofubeatsは気付き始めている。微温的な怒りと快楽、憂鬱と満足の拠って来たる原因が、私という内部にではなく、都市という憑在論的な外部のなかに見出されつつあるわけだ。
『SHOPPINGMALL』と同様『FANTASY CLUB』からMVカットされたこの曲を聴く時、われわれはtofubeatsとともに、『水星』(2012)からどれほど遠くへ来てしまったことか!と、慨嘆の声を上げずにはおれない。
2010年代を代表する名曲のひとつ『水星』は、今の視点からすればほとんど逃避的なまでの多幸感に満ち満ちている。


「君は知ってるかい? 踊らな死ぬことを」
「LOVEがあるなら 点と線を繋いで」
「めくるめくミラーボール乗って水星へと旅に出ようか いつか見たその先になにがあると言うの」
“その先にある”ものが「踊らな死ぬ」快楽ではなく、「踊り足りない」憂鬱であることを、われわれは既に知ってしまっている。いや、むしろ身をもって経験させられた、と言った方が正確か。
風営法改正に伴うクラブ規制の強化、長引く不況、止まらない政治腐敗、隠された真実に背を向けるポスト・トゥルースの蔓延、右と左に分かれて共食い合うかりそめの満足感。あるいは、コロナ禍が招いた深刻なディスコミュニケーション、社会集団としての鬱(鬱のディス・ポジション)、失業率と自殺率の急激な増加·····
あげつらっていけばキリがない。
こうした状況下において(リリースはコロナ以前であるとはいえ)、『LONELY NIGHTS』が『水星』以来のクラブヒットを記録した事実を、われわれは手放しで歓迎すべきではないだろう。
しかしそれなら、あらゆる経験と感情がともに私のものではなくなった現在、解決の糸口はどこにあるのというのか?
『RUN』は歌う。
「こんなにたくさんいるのに たった一人 走るのみ」



なるほど今のところはそれしかないだろう。だが、こうしたtofubeatsの切実な願いが単なる個人主義に還元されてしまっては元も子もないはずだ。
まずなによりもわれわれは、『SHOPPINGMALL』に表現されている憑在論的な怒りの共犯者であらねばならない。それを個人的な憂鬱へと回収する姿勢も、他者に向けられる直接的な怒りにまで高める姿勢も、厳に慎まなければならない。
要するに筆者が主張したいのは次のようなことだ。
“憂鬱さの外側に目を向け、直情的な怒りやヘイトに高まる寸前で、微温的な苛立ちを保ちつつそれを表現すること。またそれによって、憑在論的な世界に対し憑在論的なからだの抗議活動を行うこと。”
なぜなら、われわれの「リアル」はとうの昔に都市空間の中に移譲されており、答えは目に見えないところに隠されているからだ。現にこの場に存在する私の憂鬱と快楽、失われた経験の諸相が、絶えず指先から逃れ去っていくことを意識しながら、幽霊のようなからだのリアリティに寄り添った訴えを起こしていく必要がある。
残念ながら、『RUN』はアルバム全体としてこうした問題に呼応するものになり得ていない。『SHOPPINGMALL』に仄見えた両義的な身体性は、ふたたび苛立ちと満足の二律背反(たとえそれがtofubeatsというアーティストの類稀なるバランス感覚を証すものだったとしても)へと解消されてしまったかに思える。われわれは何度でも、『SHOPPINGMALL』に宿った憑在論的な怒り、その名付けようのないリアリティに立ち戻っていかねばならないだろう。
「最近好きなアルバムを聴いた 特に話す相手はいない」
「ショッピングモールを歩いてみた」
徹底的に世界から切り離された経験を歌うtofubeatsは、それでもこちら側に向かって語りかけてくる。
「最近好きなアルバムあるかい?」
「ショッピングモールを歩いてみな」









※ 本文は、2017年1月に自ら命を絶ったイギリスの批評家マーク・フィッシャーの思想に依拠しながら、tofubeatsとアーバンギャルドを比較した以下の論考から枝分かれしたものです。
そのため、用語や概念の多くをこちらの論考に負っています。
“憑在論的”、“代理満足”、“鬱のディス・ポジション”、“都市のフェティシズム”などの謎めいた言葉にたじろがれた方は、ぜひこちらの記事をご参照ください。

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