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キュルキュルと巻き戻ってくるたった20秒の未来 〜アーバンギャルド『白鍵と黒鍵のあいだで』論〜



中に入る 〜アーバンギャルドの中へ〜



<“私たち”の前にふたつのUに挟まれてピエン🥺🥺しているTが与えられたと仮定せよ>



アーバンギャルド『白鍵と黒鍵のあいだで』を歌っているのはアーバンギャルドではなく“うつ”だと思う。
うつるウィルスをうつしだすテレビの前でうつろな日々を送るうつ気味の私。
タイトルは、うつ経験もあるジャズピアニスト南博のエッセイ『白鍵と黒鍵の間に』と早川義夫の名曲『躁と鬱の間で』のドッキングではないか?
曲は、低速のトラップビートに生ピアノが絡む憂鬱なジャジーヒップホップ。より正確には、ドラムのハイハットがリズムを伸び縮みさせながらチリチッチッチッとうるさく囀り回り、まあまあ落ち着きたまえとピアノがそれをなだめるも、心臓の鼓動音を思わせるバスドラは我関せずといった面持ちで拍動を続け、ひねくれ者のシンセベースがワウの効いたファンキーな合いの手を入れたと思いきや、それらすべての光景を夢で見ているストリングスが天然リヴァーブの浴室ですすり泣く、パーティーとお通夜が一緒くたになったエレクトロポップとでも言ったところか。ただし一見そうは聴こえないから(当たり前だ笑)、「自動ピアノがジャズを奏でてる」「館内放送ヒップホップ流れ」というフレーズが自己言及的に登場する。



<マーク・フィッシャー・ホームズの冒険>

歌詞の内容は、2017年1月に自殺したイギリスの批評家マーク・フィッシャーが『わが人生の幽霊たち――うつ病、憑在論、失われた未来』の中で取り上げた“憑在論”の試みと言っていい。
その構成は、ざっと以下の通り。
一番で提示される別世界の物語〜あえての紋切り型を狙ったディストピアSF的な設定「終わった世界のスーパーで」〜が、二番においてBLMや多様性を巡って展開される戦いを含むあらゆるレヴェルの戦争及びそれに対する国内メディアの姿勢(黒人と白人の間でもつれる「黄色い指」)が一瞥され、薔薇色の日常を緑や青のバックスクリーンに「クロマキー合成」するリモート番組の不気味な手触り、またはスタジオから人間の体温が間引きされていった結果のうつろな笑いが見つめ返されることによって、コロナ禍に生きる若者たちのリアルな恋愛模様が綴られる三番へと行き着く。ことここに至って、冒頭で歌われていたSF的な世界が、実はわれわれに取って身近な現実であったことが判明するわけだ。
フィクションとして遠巻きに眺めていた物語が敷居を越えて接近してくる恐怖。この恐怖はなにかに似ていないだろうか?そう、人間間のコミュニケーションやメディア報道を経由して彼方此方へと感染(うつ)りゆくウィルス、COVID-19だ。仮に『白鍵と黒鍵のあいだで』が三つの独立した手記から構成される推理小説だとすれば、すべての告白が一致して指し示す手がかりがコロナだろう。ではその物語を語り聞かせているのはだれか?うつだ。“うつ”というひらがなの日本語の響き、実体のない幽霊の声が、アーバンギャルドが演じる役者のセリフを読み上げているのである。



<なにが憑在論やねんどついたろかワレ(笑)>

全体に漂っているのは、症状としてのうつ(depression)と、うつろで亡霊的(haunted)な身体感覚が混じりあった悲愴なトーンだ。
これを単に個人の問題ではなく、資本主義社会の文化的・政治的な特性として捉えるのがマーク・フィッシャーの“憑在論”(hauntology)である。
論などと言うといかにもエラそうだが、もともとジャック・デリダの用語であるhauntologyをフィッシャーは意識的な誤読を通じて自由に展開している。『わが人生の幽霊たち うつ病、憑在論、失われた未来』を読む限り、ここでのhauntologyは“大っ嫌いなのに愛してる幽霊っぽさ”ぐらいに訳すのが適当ではないかと思う。
乱暴に言ってしまえば、この用語は、幽霊っぽい空間の中で私という存在が絶えず幽霊っぽいなにかに変えられ続ける末期資本主義社会の不可避的な特性を浮かび上がらせる装置であるに過ぎない。
実際、同書においても「これこそが憑在論である!」という定義付けは充分でなく(こうした議論の甘さがフィッシャーの弱点であり、魅力でもある)、「これこれの特徴って憑在論“的”じゃないですか〜」というなぞらえを種々のポップカルチャーに対して施すという方法が取られている。要するに、言葉なんてものは使って使って使い倒せばいいのだ。フィッシャーの業績を神棚に入れて拝んだところでなんの意味もない。
というわけで、『白鍵と黒鍵のあいだで』の中から憑在論的な特徴を取り出していくことで説明に替えたい。



<ようやく歌詞解説、っつーかフィッシャーが目指したのはたぶん方法論上の師匠であるジジェクの“ラカンを読むのではなく、ラカンを使い、ラカンを生きる”批評姿勢の継承であるはずだから、僕もその志にならって“フィッシャーを読むのではなく、フィッシャーを使い、フィッシャーを生きる”ことにチャレンジしてみようと思うのだ。大げさ(笑)>

ここには、憑在論な場と身体性が充満している。
一番=ひとっこひとりいないスーパー、自動ピアノ、終わった世界のスーパー、株式市場は止まったまま·····すべての現象が停止した空間に音楽だけが流れているがそれすら自動的でなにものとの接触も保っておらず、ディストピア的な世界から私という存在だけが切り離されてある、という物語。
二番=ひとけのないテレビのスタジオ、透明人間、血も肉も肌も透明·····世界から切り離された私はもはや生きた肉体であることをやめ、透明人間となって空虚なバラエティを演じるほかない、という社会諷刺。
三番の第一パート=閉店間際のショッピングモール、買えないものはなにひとつないけどなんにも買いたくなくなっちゃった僕ら·····欲望を叶えてくれるはずのモノの飽和によって欲望を去勢されている私“たち”、という現実の一般的な構図。
三番の第二パート=24時間営業のファミリーレストランでキスをした後、24時間一緒にいたね、君の背中に腕をからませたけれど·····
君との悲壮な肉体性の交換によってさえ孤独を拭い去ることができない私、という肌を刺すような現実の一情景。
ご覧の通り、憑在論的な身体感覚=私という存在が世界から切り離されてある感覚は、物語→諷刺→現実の一般的な特性→現実の具体的な局面という段階を経て、徐々に受け手の側へと接近してくる。
それにつれ、繰り返されるサビのキーフレーズ「白鍵と黒鍵のあいだで」の後に続く言葉は、「君の指」→「黄色い指」→「僕の指」とうつり変わってゆく。ピアノの前でうなだれる正体不明の私が、僕とは無関係の物語の登場人物(自動ピアノ?)→テレビ越しに僕との関わりを持つ透明人間→コロナ禍の現実を生きる僕自身、という具合に「僕」を受肉していくわけだ。これにより、一番で冷静な観察の対象であった「君」は、三番において、あたたかな肉体を備えた「君」となって僕の前に再出現する。




空間に触れる 〜歌詞、言葉、名前〜



<実存は症状に先行する>

世界の中であらゆる物象とのコミュニケーションが不全の状態に陥っている私。こうした自己認識は、鬱症状がもたらす不安な感覚に近い。
❝鬱病患者はじぶんじしんを生活世界から切りはなされ閉ざされたものとして経験する。❞
❝鬱病患者にとって、かつての生活世界の習慣はいまや完全に、ごっこ遊びのひとつに、一連のパントマイムのジェスチャーに感じられる。もはやどちらも彼らに演じることはできないし、彼らがそれを演じようと願うこともないーーあらゆるものは無意味で、すべては偽物なのである。❞
ロック史上唯一鬱を音楽化したバンドとしてジョイ・ディヴィジョンを論じた章からの引用だが、フィッシャー本人が長年“鬱病患者”であった事実を思えば、経験が率直に語られていると見ていいだろう。憑在論=“大っ嫌いだけど愛してる幽霊っぽさ”は、単なる批評の具である以上に、彼自身の実存的な問題でもあったのだ。
❝鬱とは悲しみではなく、精神の状態でもない。それは(神経)哲学的な立場ポジション(あるいは傾向ディスポジション)である。❞
おそらく、フィッシャーにとっての鬱とは、憎むべき仇敵であるとともに、わが身に愛着したあたたかな毛布でもあったに違いない。こう考えると、鬱をひとつの生き方として定義付ける刺激的なくだりが、「鬱病患者は積極的に自己を規定し直すべきだ」というマニフェストであるようにも読めてくる。たとえ大上段に振りかぶってでも症状のぬくもりから身を引きはがす必要が、彼にはあったのだ。「〜ではなく〜だ」式の極端な断定調からは、「なにより私自身がそうあらねばならない·····」という切迫した願望が伝わってこないだろうか?
無論フィッシャーのマニフェストは、替えのきかない症状体験を不当に一般化する危険を孕むものだ。しかしそれを言うなら、活動の初期から“鬱”というキーワードを自覚的に作品中にしのばせ続け、ポップカルチャーから社会情勢への拡大適用を図ってきたアーバンギャルドにあっても同断だろう。はっきりしているのは、両者にとっての鬱が、表現上の危うさと引き換えにしてでも堅持すべき「哲学的なポジション」として捉えられていることだ。彼らのポジションに近づく者はみな、多かれ少なかれ鬱の傾向ディスポジションを蓄積させていくだろう。
かくして、“haunted”=“幽霊のように不気味な”と“ontology”=“存在論”の合成語である“hauntology”=“憑在論”は、同質化した都市の景観が撒布する鬱のミストシャワーに、誰もが少しづつ浸されている現在を浮き彫りにする。
私たちはみな、自分になろうとすればするほど幽霊になってしまう不気味なからだを生きている。フィッシャーに連れられ、アーバンギャルドとともに。



<君(と僕を隔てるもの)の名は。>

『白鍵と黒鍵のあいだで』は、これまでアーバンギャルドが挑戦してきた“鬱”や“病気”テーマの総決算だ。直接的なワードの使用を避けつつ、三つの異なる視点から幽霊のようにうつろな私の存在が検証されていく。その感覚は、ある程度鬱の症状体験に近いものだろう。
とはいえ、ここには個人の体験の範囲を逸脱した、恐るべき絶望と退廃のムードが漂っている。“物語”というより大きな枠組みを借りてでしか語ることのできない、余分な成分が充満しているのだ。
なにより見逃せないのは、この曲の登場人物たちが、鬱的なムード、無気力と無関心の分厚い壁を突破し、「君」と「僕」が愛し合う血の通った現実をたぐり寄せていることだろう。フィクションとノンフィクションの境目を飛び越え、遠い真実を身近なウソに変えるテレビメディアを通過し、欲望が消失した「僕ら」を「君」と「僕」へと編み直し。
だが、それでもやはり、「君」と「僕」の間にはある種の壁が存在しているように思える。
現に、24時間営業のファミリーレストランで君とキスをしてさえ、僕の指は「まだ迷っている」。互いの感触を確かめるように身を寄せ、背中に腕をからませたところで、たぶん二人は“本当に”抱き合ってはいない。だからこそ僕は「本当にこれが愛か」という孤独な問いを繰り返さざるを得ないのだ。
つまり、歌詞の三番が表現しているものは、個人的な鬱のポジションである以上に、誰もが体内に蓄積している鬱のディス・ポジション(ポジションを裏切るポジション)なのである。



<withoutコロナ、または存在を打ち返すバッティングセンター>

君と僕との間に存在している目に見えない壁。
序盤で提示した見立てに沿って言えば、その正体は、コロナが作り出した透明な仕切りだと言えるだろう。日常生活に様々な不利益やディスコミュニケーションをもたらし、恋と革命の可能性を阻む壁。あるいは、災厄の責任をめいめいが切り分けて掲示するマスクの壁。だがこれだけでは、君と僕が存在しない「世界」までをも覆っている絶望の巨大さを説明できない。
ってゆーかぶっちゃけ、その手前で単純な事実が見落とされている。それは、君と僕の二人が現実の制約をあっさり乗り越え、24時間いっしょに過ごしているという事実だ。彼らは現に愛し合っており、今まさに小池百合子を激怒させるほどの“濃厚接触”を行っている真っ最中なのだ!(笑)つまりコロナの障害は、一番と二番を通過することで既に乗り越えられている。ウィルスの脅威は、二人のディスコミュニケーションが開示されるきっかけのひとつであったとしても、原因の本質ではないのだ。
こうした矛盾を解消するために求められるのが、憑在論的な視点の導入だ。この場合、二人の接近を阻んでいる壁は、うつろで不安な「僕」の身体性そのものであると結論できよう。幽霊同士の触れ合い、透明人間同士の恋愛に実感が伴うはずもない。では、いったいなにが僕の存在を幽霊めいた次元へと送り返すのか?
真犯人は、「24時間営業のファミリーレストラン」という“憑在論的な空間”それ自体なのだ。



<ここには時間がない、もう存在しない>

前傾書の冒頭部において、フィッシャーは、イギリスのSFドラマ『サファイア・アンド・スティール』に登場する永遠に時間が停止したガソリンスタンドを“憑在論的な空間”の代表例に挙げている。
ドラマの最終回、サファイアとスティール、その同僚のシルバーの三人の捜査官は、とあるガソリンスタンドに潜入する。だが、なんとそこは、敵の奸計によって生み出された時空の牢獄だった!
❝ガソリンスタンドは、「ひとつのポケット、ひとつの真空状態」のなかにある。「車は走っているが、どこにも向かってはいない」。車の走る音は、ループする低音のなかに閉じ込められている。シルバーはいう。「ここには時間がない、もう存在しない」。❞
憑在論的な空間は、無時間的な経験のうんざりするほど執拗な反復によって、“私という存在が世界から切り離されてある”感覚を体内に植えつける。その特徴は、『白鍵と黒鍵のあいだで』の舞台となるスーパーやショッピングモール、ひとけのないテレビスタジオ、ファミリーレストランにも見事に当てはまる。特に、「24時間営業」である点が歌詞において二度繰り返されるファミレスは、優れて憑在論的な空間だと言えよう。同質のサービスが昼夜問わず切れ目なく提供されるという意味で、「ここには(以前と同じ形での)時間がない」からだ。
これら均質化した空間において、われわれはしばしば、自分という存在がすり切れていくような危機を味わう。どこにでもある空間の中で、かえって私だけがどこにもないように感じられる孤独。
まるで、モノを消費すべき私がモノによって消費され、場を享受すべき私が場によって享受されているような·····



<スタバ-わたし=スタバ(笑)>

むずかしい話ではない。例えばスタバは、どこに行ってもスタバである。栃木のスタバに入ろうが京都のスタバに入ろうが、われわれが受け取る感覚に大きな差はない。むしろその差は小さければ小さいほどいいのであって、サービス基準を統一するマニュアルの存在によって、別様の経験はひとしなみに押しつぶされる。栃木のスタバでも京都のスタバでも同じサービスが受けられるということは、その時“私”が“お客様”になっているということである。知らぬうちに“私”という存在の余分が間引かれているからこそ、スタバはスタバとしての同一性を保持でき、客はうまくもまずくもないキャラメルフラペチーノを啜ることができるわけだ。
同様に、イオンモールはどこに行ってもイオンモールである。高速道路沿いにはきまってスタバとブックオフと洋服の青山がセットで並んでおり、少し走ればイオンがある。旅行した先でさまざまなイオンに立ち寄るのだが、毎度デジャヴを催すほどに見飽きた店舗が並んでいる。ユニクロ、GU、ライトオン、H&M、ZARA、UNITED ARROWS green label、Hideaway by Nicole、AZUL by moussy、三愛商会、金子眼鏡、大垣書店、水嶋書房、未来屋書店、HMV、ノーブランドの鞄や雑貨を取り扱うやる気のない店、階を上がれば100均保険屋ワーナーシネマ、フードコートには銀だこマクドナルドカプリチョーザ、カフェスペースにはドトールサンマルク進々堂·····あかん、吐き気がしてきた(笑)
結論から言えば、現代的な経験の世界において、既にいっさいの空間は停止している。もし現実の世界が動き続けているのなら、その時停止しているのはこちらの方だということになろう。いつからかわれわれは、ノイズとしての私の割り切れなさを率先して割り引くことによって、世界の同一性を維持する道を歩みはじめてしまったようだ。清潔なガラスとコンクリートの全体に比して、私という部分はいつも汚い。
イオンに入っている店舗名の具体的な列挙が眩暈のような感覚をもたらすのは、“そこに私の名前だけがない”事実を、われわれが発見してしまうからなのだ。



時間に触れる 〜音楽、声、ノイズ〜



<曲を聴くあなたは音を素材にした空間の中に入る>

90年代以降インディーポップ、ドリームポップと呼ばれるようになった音楽ジャンルがある。エコーとリヴァーブのかけ合わせによって生まれる、文字通り“夢見心地の”音像がその特徴だ。
生まれては消えてゆく音の存在を延長するエフェクトは、人間の生き死にを模倣する音の現実的な生涯をひとつのフィクションに変える。アタックの瞬間最も大きくなり、少しづつ尾を引いて減衰していく·····という音の自然法則を、特に倍音のありかたを操作することによって、神秘的な夢の規則へと変容させるのだ。われわれがドリームポップを聴いてうっとりするのは、そこで一種の夢の時間を経験するからなのであり、それは例えば“永遠に生きたい”という不可能な欲望をほんの束の間叶えるものでもあろう。
エコーが音の時間を引き延ばすとすれば、リヴァーブは、3分の曲なら3分と決められた単位時間内に空間性を持ち込むことによって、音楽の建築的な構造を際立たせる。
こころみにひとつの曲を関数に見立てて、音をX軸、言葉(歌詞)をY軸として考えてみよう。この場合、二次元空間の中に奥行きを表すZ軸を付け加えるものが音響効果だと言える。感覚的な比喩で申し訳ないが、建築物としての曲のあり方をなんとなくイメージしてもらえればありがたい。
実際に、筆者が使っている無料の音楽編集ソフトには、暖かい↔冷たいという音の感触を表す項目のほかに、居間、浴室、飛行場といった空間の広さ、ガラスや木材などの空間の材質を表す設計値がリヴァーブのなかに用意されている。シロートには大助かりだ(笑)
ポスト・ダブステップ後のクラブミュージックの流れにあって、リヴァーブはさまざまな音響効果のなかでも最重要の位置を占めるようになった。『白鍵と黒鍵のあいだで』もまた、こうした傾向を鋭く意識した音作りがなされている。全体を特徴づける冷たいリヴァーブ(僕の感覚で言うと、居間と浴室の中間あたりの広さを備えた、ガラス作りの空間)がヴォーカルにまで及んだ結果、声とピアノが同質の感触を得ている。肉体のノイズである声が、清潔で無機質な音響へと変化しているわけだ。



<浜崎容子の声とピアノの響きはエコーとリヴァーブの夢の中で交わる>

ろくな音楽知識もないくせにテキトーかましてんじゃねえ!ごもっとも(笑)とはいえ、まるきりデタラメであるつもりもない。
まず、曲全体を立体化するリヴァーブに重ねて、さらに深いリヴァーブがかけられている箇所が複数存在する。もっとも見やすいのは、二番始まりの直前、ピアノの最後の音がオウムのように羽を膨らませる瞬間だろう。さらにこの膨らみは、ラストで発される悲痛な叫び「本当にこれが愛か」の「か」の母音の引き伸ばし、あああぁぁあに適用されることによって、ガラス作りの空間を虚しく震わせる。
また、ドリームポップで用いられるエコーとリヴァーブのかけ合わせ(ただし、一般にウォーミーなリヴァーブがかけられがちなドリームポップに対して、こちらの感触はあくまで冷たい)も、2箇所見られる。
①一番の歌詞「エントランスではフルーツたちが 農薬浴びた花光らせてる」の、後段「農薬浴びた花光らせてる」。特に「花光らせてる」の部分がわかりやすい。ひか〜ら〜の後に、ひか〜ら〜が、せ〜て〜る〜の後に、せて〜る〜が、幼な子のように追いすがってくる。
②二番、「戦場で透明人間が弾け飛ぶ」と「血も肉も肌も透明だから」という歌詞を繋ぐ「でも」の響き。で〜もぉ〜とこだますことによって、否定のニュアンスが強調される。
こうしたエフェクトの効果によって、ピアノの響きと浜崎容子の声が一体となり、無時間的な空間を曲中に構成するのだ。なぜかここから松永天馬の声だけが締め出されている事実は興味深いが(笑)、この問題を扱うには別稿を要するため、“松永のヴォーカルは声質上ドリーミーに変化させることが難しく、しかしそのなまなましさにこそ固有の価値がある”点を指摘するに留めよう。
いずれにせよ結論はこうだ。
『白鍵と黒鍵のあいだで』は、歌詞に登場する憑在論的な空間を、音楽が作り出す仮想空間のなかに実現している。言葉と音の両面から憑在論的なアプローチが試みられているわけだ。この曲を聴く私たちは永遠に停止した夢の時間の中に入っていく。



<キュルキュルと巻き戻るたった20秒の未来>

だが正確には、時間は停止しているわけではなく、以前と同じ形では「もう存在しない」。
代わりにあるのは、時を刻む、未来に向かって針を進めるという“生欲”を放棄した、幽霊のような時間なのだ。
したがって現在は、既に失われている未来が、過去のようになつかしい顔を浮かべて出現する瞬間にのみ経験される。この奇妙な訪れを感じるとき、単なるノスタルジーとは異質の“憑在論的なメランコリー”が到来する。個人のメランコリーではなく、集合としてのメランコリー。ポジションを裏切る鬱のディス・ポジションだ。
こうした表現の特徴を、フィッシャーはBurialやThe Caretakerといった先鋭的なアーティスト達が用いるレコードのひっかき傷のようなノイズ音=クラックル・ノイズのなかに見出している。
❝彼らが共有していたものは、その音でも感覚でもなく、実存的な方向性であった。じょじょに憑在論的と分類されていくことになるこうしたアーティストたちはみな、途方もないメランコリーにさいなまれていた。物質化された記憶にたいする強迫観念は、憑在論における音の重要な特徴、つまりLPレコードが生みだすその表面のノイズである、クラックル・ノイズの使用へとつながっていく。こうしたクラックル・ノイズはそれを聴く者にたいし、そこで聴こえているのは蝶番からはずれた時間なのだということを意識させる。❞
クラックル・ノイズではないが、『白鍵と黒鍵のあいだで』にも、正常な時間の流れを切断するノイズ、「蝶番からはずれた時間」を意識させる音が挿入されている。冒頭に耳を傾けてみよう。
なにもないまっさらな空間に、ピアノの旋律が鳴り響く。すると、そのフレーズの最後のアタックに合わせて、おそらくモデュラーシンセ上でフランジャーとコンプをかけて合成された電子音が鳴り始め、キュルキュルと回転しながら約10秒走り続けた後、やや長いスパンのワウにリードを引かれるようにして、続く10秒をかけてゆっくりと元の地点に戻ってくる。ここでようやく打ち込みのビートが加わり、曲がスタートするのだ。
なんとも異様な幕開けだ。しかもこの20秒間のキュルキュルは、オープニング、中間部(二番終わり)、エンディングと、三度にわたってしつこくループされる。どうやらこの音は、空間全体を支配する重要な存在であるらしい。にも関わらず、なぜかそれはいつも行きかけては“戻ってくる”。まるで『白鍵と黒鍵のあいだで』で語られつつある三つの物語を、その都度無の前提に引き戻すかのように。
もうおわかりだろう。このキュルキュル音は、未来に向かうストーリーを過去へと送り返す、憑在論的な時間を表現しているのだ。
楽曲が構成する空間全体を『サファイアとスティール』のガソリンスタンドに例えるなら、キュルキュル音は、ちょうどそこでループされている車の走行音に当たる。
❝『白鍵と黒鍵のあいだで』は、「ひとつのポケット、ひとつの真空状態」のなかにある。「キュルキュルは走っているが、どこにも向かってはいない」。キュルキュルの走る音は、ループする高音のなかに閉じ込められている。私たちはいう。「ここには時間がない、もう存在しない」。❞
さらに言えばこの音は、「僕の指」と「僕の舌」を、永遠に「まだ迷っている」現在に留めおく力の形象化でもあるだろう。差し出された指は、「君」という未来に届く寸前で元に戻る。唇は、開きかけては閉じ、ついに真犯人の名前を言い当てることができない。



休憩 〜都市のフェティシズムを感じながら〜



<もっとも嫌悪されているものがもっとも望まれている可能性>

フェティシズムは常に両義的であり、その起点を成すものはイヤよイヤよも好きの精神である。大っ嫌いなのに愛してる幽霊っぽさ。内心ひそかに抱いている恐れが繰り返しの経験のなかに安らううち、われわれは少しずつその恐怖に慣れ、愛着を抱きはじめる。例えば、僕こと脱輪が吐き気をこらえつつさまざまなイオンに立ち寄るのは、ショッピングモールが好きだからだ。好きだから入って、そのたびうんざりして、また好きになる。Twitterがやめられない心理と一緒(笑)
精神分析の用語では、こうした心理を“代理満足”と呼んだりする。われわれが憑在論的な空間から得る快楽は明らかに真の満足からほど遠いものだが、とはいえそのむずがゆさ、手が届く寸前で真実が逃げ去る苦痛に耐え抜くことで、わたしは日々たくましく社会をサヴァイブしているのだ!という自己正当化によって、われわれはたしかにひとつの満足=代理の満足感を得ているのである。
したがって、ここで言うフェティシズムとは“都市のフェティシズム”であり、都市生活者が代理満足を真の満足と誤認し、自ら率先して信仰を深めていくためのディス・ポジションを指す。



<資本主義リアリズムは都市のフェティシズムを歓迎する>

なるほどたしかに資本主義は最良のシステムではないが少なくとも最悪のシステムではない、なぜならそれに替わるよりよいシステムの形をわれわれは想像できないから·····というネガティブな賛意がより集まってできたリアリズム(フィッシャーが“資本主義リアリズム”と名付けた概念)は、現実志向というよりむしろ現実志向の徹底した信じ込ませ=幻想化であり、こう言ってよければ、高度に発展した資本主義社会に生きるすべての者が抱える共通の病であろう。治癒不可能な症状と長く付き合う知恵として、患者は必ずそこになんらかの代理満足を見出しはじめる。
❝もちろん患者は本気で変わろうなどと思っていない!症状が発症し、患者が症状からくる行動に引き込まれるようになっているとすれば、それは大量のエネルギーがこうした症状と結びつけられるようになってしまったからだ。患者は症状をそのままの状態にするために膨大なエネルギーを費やすのである。というのも、彼らはフロイトが「代理満足」と呼んだものを症状から得ているので、その症状をおいそれと手放すわけにはいかないのである。❞
これは精神分析学者ブルース・フィンクの著書『ラカン派精神分析入門 理論と技法』からの引用だ。患者と向き合う際の分析家の心構えを説いた一節だが、その切れ味はほとんど社会全体にまで及んでいる。いわば資本主義リアリズムとは、個人の鬱症状を都市において再現する夢なのだ。そこではあらゆるトラウマが代理満足へと変えられていく。
つまり、都市生活者たちは、憑在論的な空間の堂々巡りを経験するうち、次第にその幽霊じみたあり方にフェティシズムを抱くようになるわけだ。憑在論的なメランコリーの患者として、立派に社会に迎え入れられるのである。そして、このような都市のフェティシズムが肉体にまで及んだ結果、「僕」の不安なからだが誕生する。
「血も肉も肌も透明だから」·····
二番に登場する透明人間は、われわれから遠く離れた存在なのではない。



<オートマティックなオブジェ>

終わった世界で自動演奏を繰り返すピアノ、ひとけのないスタジオでバラエティを演じる透明人間、ショッピングモールで欲望を去勢された僕ら。そして、ファミリーレストランで決意をためらう僕。
あらためて振り返ってみれば、これらすべてのからだが、スーパーに並んでいる「むすっとむくれてる」野菜や「農薬浴びた花光らせてる」フルーツとまったく同じ、不能のオブジェとして扱われている事実に気付くだろう。
もはや、現在はただひたすらに回帰するものに過ぎず、思考はあのキュルキュルと同じ機械的な作用の反復でしかない。画家が観察する目的でテーブルに据えた野菜やフルーツのように、あわれな静物たちは、あらかじめ蝶番から外れた時間のなかに置かれていたのだ。
したがって、君に触れられない僕の指、キスしても満足できない僕の唇は、ある意味で僕のからだから切り離されている。それは、たしかに僕のものでありながらコントロールできないという意味で、自動ピアノと同じオートマティックな存在なのだ。
『白鍵と黒鍵のあいだで』に漂っているうつ的なムードの原因は、登場人物たちがみずからの欲望を都市のフェティシズムによって代理し、その結果固有のからだを手放してしまったことにある。幽霊っぽいムードを身に纏いつづけるうち、“私”自身が幽霊と化してしまったのだ。




外に出ていく〜アーバンギャルドの外へ〜



<二つのショッピングモールをめぐって、アーバンギャルドとtofubeats>

なぜこんな絶望的な結末になってしまったのだろう?
それは、『白鍵と黒鍵のあいだで』という作品が、都市のフェティシズムの両義性のうちの一面=個人や集団としての“うつ”しか描き出していないからだ。われわれがそこから得ているはずの満足=患者であり続けることの快楽をめぐる視点が、すっぽりと抜け落ちてしまっているのである。
唯一の例外と言えそうなのは、三番の第一パートだろう。
「閉店間際のショッピングモール 館内放送ヒップホップ流れたら 買えないものはなにひとつないけど なんにも買いたくなくなっちゃった僕ら」
買いたいという個人の欲望は、その欲望を代理するショッピングモールによって幽霊化し、閉店“間際”の停滞した時間の中に閉じ込められる。
ここにはかろうじて挫折した快楽の痕跡が見出されるものの、「なんにも買いたくなくなっちゃった」状態そのものが「僕ら」に代理満足をもたらしている可能性は、やはり考慮されていない。
比較として、同様のテーマを扱った別の例を見てみよう。tofubeatsの、その名もズバリ『SHOPPINGMALL』。


この曲は、それまで享楽的な都市生活をオシャレに描く作家と見なされていたtofubeatsが、シンガーソングライターとしてのシニカルな側面を打ち出したアルバム『FANTASY CLUB』の中に収められている。アーバンギャルドと同じ“都市の批評家”が放った衝撃的な一作だ。歌詞を見てみよう。
「何がリアル何がリアルじゃないか そんなことだけでおもしろいか」
「何がいらなくて何が欲しいか 遊び足りないわけでもないな」
「何かあるようで何もないな ショッピングモールを歩いてみた」
どうだろう?ほとんど『白鍵と黒鍵のあいだで』と同じことを歌っていないだろうか?同様に曲も遅めのトラップビートだが、こちらは低音が強調されたゴリゴリのヒップホップ。三番の第一パートで館内放送されている「ヒップホップ」とは、きっとこの曲であるに違いない(笑)
異なるのは、ダークでメランコリックな『白鍵と黒鍵のあいだで』とは反対に、『SHOPPINGMALL』がアッパーな音像の快楽に満ちていることだろう。ところがその歌詞は、やるせない怒りを含んだボーカルによって吐き捨てるように歌われる。
「なにかあるようでなにもないー、なっ!(怒) ショッピングモールをあるいてみー、たっ!(怒)」
一見怒ることなどなにもない、ただ気ままにモールを歩いているだけの場面であるにも関わらず、だ。さらに、オートチューンの安易な使用をくさす言葉がオートチューンに乗って飛び出しもする。
「あの新譜 オートチューン意味なくかかっていた もう良し悪しとかわかんないな」
ここには、吐き気を覚えながらも容易には離れがたい憑在論的な場としてのショッピングモール、そのかりそめの快楽に対する苛立ちが見事に表現されている。
重要な点は、相反する言葉と感情の両面が、音像の快楽と結びついていること。それによって、「おいそれと手放すわけにはいかない」満足として“うつ”が立ち現れてくることだ。正体不明でつかみどころのない怒りの要因は、tofubeatsの心のうちにではなくショッピングモールにあることが、一連の矛盾を通して仄めかされているわけである。



<エコーリヴァーブ vs オートチューン>

両者のコントラストは音響効果にも及んでいる。
エコーとリヴァーブの使用が特徴的な『白鍵と黒鍵のあいだで』とは対照的に、『SHOPPINGMALL』ではそうしたエフェクトがほとんど使われておらず、ヴォーカル全体にオートチューンがかけられている。
たとえそれが夢の時間を味わわせてくれるものだとしても、やはりエコーとリヴァーブが作り出す空間はある程度まで現実の模倣である。現にわれわれは、音が構成する空間の広さや材質を想像することができるのだから。
一方オートチューンは、そもそもこの世界に存在しないフラットな空間を表象している。声や音に細かいピッチ修正を加えることで心地良い(または、不気味な)揺らぎを生み出すオートチューンは、音の質感や立体性をわれわれに意識させるものの、その印象が空間的な認識にまで高められることはほとんどない。
それはいわば、音の平面に取り憑いた幽霊のような立体なのであり、次々に生まれては消えていく“点滅する空間”なのだ。その憑在論的なあり方は、失われた未来からやって来る奇妙ななつかしさに似ている。
実際、『SHOPPINGMALL』に登場するショッピングモールは、『白鍵と黒鍵のあいだで』のそれよりさらに無時間的な、名付けようのない空間に位置しているように思える。その証拠として、tofubeatsは地元神戸のショッピングモールなどではなく、自宅の一室を使ってMVを撮影している。
真っ暗な部屋。明かりといえば、作業途中のPCモニターと窓外に映ったビルの点滅のみ。そこに一人の男性がフレームインしてき、正面に設置されたカメラと向かい合う。
「なにがリアルなにがリアルじゃないー、かっ!」
空間性が希薄な(この部屋の広さを正確に言い当てることは不可能だろう)暗がりの中で、黒いパーカーを着た彼の姿はぼんやりとしか見えない。その表情を読み取ることができるのは、ドラムブレイクに合わせて画面が点滅する瞬間だけだ。
自室というもっともわが身に愛着した場を“ショッピングモール”に見立てることによって、匿名の闇に沈んだ空間はフェティッシュな都市空間へと変貌する。その内側でtofubeatsは、一人の憂鬱な患者となって苛立ちをぶつけるしかない。
ブレイクの瞬間、幽霊のようにからだを点滅させながら。



<コン・トラスト=別の仕方で支え合う>

ここまでくれば、『SHOPPINGMALL』が憑在論的な空間のほとんど完璧な表現であることは明らかだろう。一方、『白鍵と黒鍵のあいだで』では同様のテーマが多角的に描かれているものの、われわれが依存しているフェティシズムの快楽性は捉えられていない。
これは、存在そのものが憑在論的であるオートチューンの反則的使用に伴うビハインド(笑)に加え、説明的な歌詞とも関わる問題であろう。おそらくは、ある種のドキュメントとして成立させるために類型化した状況と一般名詞の記号的氾濫が用いられたのだろうが、たとえそれが憑在論的な世界を皮肉るための戦略であったとしても、説明は快楽を削ぎ落とす。
簡潔で力強い言葉によって綴られる『SHOPPINGMALL』は、あくまで聴取の快楽を保持したまま“うつ”の異なる次元を指示している。特に説明せずとも、「ショッピングモール」という言葉とそれが表すものとの間に距離が生まれていないのだ。この曲を聴きながら気持ちよく体を揺らす時、われわれは憂鬱と快楽を同時に味わう。都市のフェティシズムをシミュレートすることによって、その矛盾に目を向けることが可能になるわけだ。
無論、こうした違いは、単純な批判としてより興味深い対比として読まれるべきである。『SHOPPINGMALL』がざっくりした“うつ”の総論だとすれば、その各論を網羅的に試みた作品が『白鍵と黒鍵のあいだで』なのだと言ってもいい。
とはいえ、僕にはどうしても、後者がわかりやすく憂鬱でありすぎるように思えてならない。われわれの生きづらさの要因はむしろ、tofubeatsが仄めかすような、わかりにくい快楽の下に潜んでいるのではないだろうか?



<幽霊バンザイ!>

つまりこういうことだ。
大衆がコロナ禍の現状に対して不満をばかり抱いているという見方は、あまりにナイーヴ過ぎる。われわれは、明らかにその不自由から満足感を受け取っている。
仮にウィルスの脅威によって見えない壁が可視化され、幽霊めいた身体性が実感を伴った不安に高まったのだとしても、その幽霊っぽさは以前からわれわれに馴染み深いものであったはずだ。コロナがもたらした生活上の不自由は、あらかじめ憑在論的な空間の隅々に書きこまれていたものであるに過ぎない。とすれば、そこには必ず憂鬱と隣り合わせの快楽が潜んでいるはずなのだ。
ひとつだけ身近な例を挙げておこう。2020年も終わりに近づいた現在、ニュースによれば100年に1度の大寒波が押し寄せているそうだが、この時期にはしょーじき、マスクは助かる。夏場にはあれほど苦痛に思われたものが、である。たぶん僕を含む多くの人が、今回の一件によって防寒具としてのマスクの有効性に気付きはじめたはずだ。コロナが終息した後でも、保温性とオシャレに特化したマウスウェア(とかなんとか呼ばれて)が流行しそうな予感がする。
こうした気付きは、たしかにひとつの自由を可能にするものではある。しかし忘れてならないのは、その自由が不自由によってもたらされている事実だ。なんらかの障害は、それが巨大で抗えないものであればあるほど、体験者の身のうちに無意識的な満足を付け加えていく。こうした側面、困難それ自体の気持ちよさを意識せずして、どうしてその障害を取り除くことができよう?



<“私たち”は手に入れているものしか手放せない>

憂鬱な言葉、憂鬱な音楽、憂鬱な歌声。それらすべてを「ひとつのポケット、ひとつの真空状態」に閉じ込める語り口。
『白鍵と黒鍵のあいだで』を貫くある種のナイーヴさ、生真面目さは、われわれが代理満足を発見する道を阻む点において、皮肉にも体制に親和的なものであると断じねばならない。
なぜならナイーヴさは、資本主義リアリズムに取ってなにより都合のいいものだからだ。自身が現に感じている快楽の存在を意識することなくして、その快楽に抵抗することはできない。“うつ”に愛着を抱いている“私たち”の憑在論的なあり方を引き受けることなくして、その憂鬱を打ち砕くことはできないのだ。
おそらく、『白鍵と黒鍵のあいだで』のすべての登場人物たちは、以下のような無意識的真理に蓋をしてしまっている。
われわれがスーパー、ショッピングモール、ファミリーレストランといった憑在論的な場から「24時間」代理満足を得ているのと同じように、見えない壁の存在は「僕」にある種の快楽を提供している。
そうでなければ、どうして「君」と「僕」が「本当に」出会えないことがあろう?明らかに僕は、「白鍵と黒鍵のあいだでまだ迷っている」状況に心地よさを感じ始めているのだ。
コロナはひとつのきっかけに過ぎない、とみなが言う。あらかじめこの社会を覆っていた見えない不自由が可視化されただけだと。しかしそうした見方は片手落ちであり、結果的に都市のフェティシズムを無傷のまま延命させてしまう。
権力がわれわれに期待しているのは、大衆が、長引く政治不安それ自体から代理満足を受け取るまでに“成長”し、しかもその矛盾に気付かないまま新たな生活様式に適応していくことなのだ。憑在論的な苦痛の日常化によって、資本主義リアリズムは、真の満足がシステムの外側に隠されている真理から目をそらす。システムを疑うことなく、いつまでも孤独と憂鬱のうちに安らっていてもらわなければ困るわけだ。
残念ながら、『白鍵と黒鍵のあいだで』は、こうした権力的な志向を無意識のうちに反復・強化してしまっている。それが語る物語は、都市のフェティシズムの負の側面にしか目を向けず、うつのポジションにこだわるあまり、登場人物たちが憂鬱さの外へと出る寸前、自らの手によってスタート地点に連れ戻してしまうのだ。“私たち”の未来は、今のところたった20秒間を前に進むことしかできない。その一歩はキュルキュルと巻き戻り、最後には巨大なノイズと化して消えていく・・・





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