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大人になるって何だろう

20歳というのは大きな節目だ。けれども急に「成人」の実感が湧くはずもなく、それからもしばらくの間、私は早く大人になりたいと思っていた。

これはそんなある日の1ページ。

都心のターミナル駅を出た電車が次第に速度を上げるにつれ、真っ暗な世界にビルの明かりが流れてゆく。高架線から眺める建物はだんだんと低くなっていき、やがて地平に降りて家々の間を抜け、真新しい地下線を進む。
二人はただ、混雑した車内で寄り添っていた。相手を守っているかのような感覚にも酔いしれつつ、彼女の頭越しに見えた、自分の通学経路でも何でもないその路線の景色さえもが愛おしく感じられていた。

列車は地下を出ると一気に高度を上げて大きな川を渡り、降りる駅に着く。住んだこともないのに不思議と親近感を感じるようになっていた駅をさっと降り、新興住宅街へ続く長い上り坂を進む、それが彼女の帰路という日常であり、私の最近の日課だった。

『買い物を頼まれていたんだった。』
帰り道の途中で彼女はそう言うとスーパーに入っていった。
スーパーでする買い物というのは、得てしていくらかの生鮮食品と、キッチンで使うような消耗品といったところで、生活感に満ちたものばかりだ。これがもし休日の、おしゃれな街でのデートであれば絶対にしないような買い物に立ち会っていた。ふと周りを見る。買い物をする人々は、きっとこのあたりに住む、幸せな家庭を持つ人たちだ。その姿が、自然と自分たちの将来像に見えた。いつかは手に入れたい幸せな生活を、この時だけは少し先取りしたような気さえしていた。
買い物した荷物を私がさっと持つ。やや緩めの坂を息が切れない程度に上っると、彼女の家はそこにあった。

私はさっき買い物したばかりの袋を渡そうとした。しかし、彼女はこちらを向いたかと思うと、手を少しも動かさずに無言で俯いた。時計で見れば10秒くらいかもしれない。この間、私は様々なことを考えた。

『もう少し歩こうか。』
その袋を下げたまま、何を言われたわけでもないのだけど、僕らはさらに丘の上まで続く住宅街を登っていくことにした。いくらかの街灯が足元を照らす以外、歩く人もほとんどなく、時折バスが横を追い抜いていく程度だった。
やがてコンビニを見つけ吸い込まれるように入っていった。鮮やかな色の缶に、意味はよく分からないが何となく高級感のある言葉が溢れていたビールが目についた。美味しそうだと思ったのか、見栄を張りたかったのか、大人ぶりたかったのか。いろいろな気持ちが、その缶を手に取らせた。

『この先に公園があるから。』
そういうと彼女は私の手を引いた。公園と呼ぶべきか広場と呼ぶべきか、そこには街灯が一つとベンチ、あと木が数本植わる程度だったが、周りの集合住宅の廊下の明かりが良く届いていて、不思議と明るかった。

『よかった。まだ冷たい。』
彼女はビールを取り出すと、一つを私に渡した。
「せーの」と小さく声を掛け合ってから同時に缶を開け、こぼれないように、垂直に立てた缶の側面を寄せ合うように乾杯をした。
家に帰れるのに、帰らない。それはまるで遠くの街に駆け落ちをして二人だけの世界を築いたような気にさえなっていた。きっと彼女は何千回とこの帰路を歩いてきた。けれども、その日だけは、新しい何かを見つけていた。これが大人になるということなのかという思いが、頭をよぎった。

他愛もない話は何時間も続いた。
2本ずつ買ったはずのビールもなくなり、ひとしきり話を終えて少し眠気を覚えはじめたころ時計を見ると、感覚的には日付を跨ぐ頃かと思っていたのだが、すでに2時を回っていた。硬いベンチに座って少し痛くなったお尻を気にするように、私はストレッチとも言えない程度に体を伸ばした。ゆっくりと公園を出て彼女の家に戻っていく。こんな時間に昼間と同じ格好で居るのだから、少しは肌寒いはずだ。しかし、そんなことは微塵も気に留めなかった。

彼女にとっては2度目の帰宅。持ち運びすぎて持ち手の部分が細くなり、やけに手に食い込むようになっていた買い物袋を渡すと、今度は素直に受け取り、少しだけ体を寄せるような仕草をしてから、家の中に消えていった。

ただ彼女を家に送るだけのつもりが、ちょっとしたデートになったことに達成感を感じつつ、もはやバスも車も通らず虫の音しか聞こえない丑三つ時の下り坂を進む。終電なんてとっくに無くなっていて、しかもこの街には朝まで時間をつぶすところもない。とりあえず座れるところを見つけて、始発まで時間をつぶすしかない。だがそんな境遇も、この時だけはただ電車を一本逃したという些細な話に思えていた。

――やがて月日が過ぎ僕らは社会人となった。
あれだけ大切に思えていたはずの関係も、社会人となるという重さを前に、あっけないほどあっさりとした最後を迎えた。

あの時飲んだビールが何であったか、どんな公園だったか、どんな服装だったか、思い出せることはもうあまりない。けれど、遅くまで寒さを微塵も感じない夏の盛りの夜にふと酔いが回ると、あの時背伸びをして買った少しお高いビールを乾杯させた姿が、あの日々が、鮮やかに蘇っては胸をチクリと刺す。

この痛みに、自分が大人になったことを実感するのだった。

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