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オーロラに駆けるサムライ(9)捕鯨船とパンデミックウイルス

サブタイトル

(前回)捕鯨船に3年間80ドルで売られたジェームス、1892からの3年間極寒の北極圏での捕鯨船での生活を強いられた。北極圏内で犬ぞり遠征隊を経験し大きく成長する。同僚達からきいた北極点への到達の一番乗りの可能性を胸に秘めた彼の将来は?

アラスカ沖バローへ

ハーシェル島は、6月に昇った太陽が7月までは沈むことがない白夜がつづく。 長期間の越冬を終えたジェームス・和田を乗せたバラエナ号は午前2時か3時に出発するつもりだったが、天候は好ましくない。風が強くなり、霧がでた。雪が降ってきた、おそらく2〜3インチで落ちついたようだ。

午後12時30分ごろに天候が回復した。

「(Keep her) steady!ヨーソロー!船の進路をアラスカ・バローへ」の掛け声

ノーウッド船長は笛と旗で敬礼しカナダのハーシェル島を出発した。

風向きが変わり波がやわらいだ。一日中の航海のはじまりだ。

バロー

午後6時ごろ氷が見え、午後9時頃にはかなりうねりで大きな氷が横たわる。

しばらくすると、1隻のボートが船から海に下げられた。

見ると、巨大なアザラシが流氷の上で休んでいた。ノーウッド船長は船からアザラシに向かって何発か発砲した。見事に射止めたもののセイウチの動きが遅い。ボートの男性がライフルでさいど撃った時にはアザラシは氷の下へ沈んでしまった。

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「おも~か~じ(面舵)! 再びアラスカへ向けて出港だ」と船長が号令するとともに、バラエナ号は艦首を15度右に回頭するように舵を切った。

捕鯨漁

風が西に変わった。クジラは真昼ごろに目撃された。5隻のボートが船から下げられた捕鯨の準備を開始したものの、風が強くあきらめざるを得なかった。 

翌朝、午前1時ごろクジラのためにボートが下ろされた。クジラはデッキからジェームスによって目撃された。乗組員達は午前3時45分ごろにクジラを襲い、その後他の3隻のボートが近づき、7~8発の爆弾を打ち込んだ。船長たちは、デッキから追いかけるのを見ていた。

クジラは最初に塩を噴き出したが、約1時間後に約1時間後に、血を噴き出し始め、ボートの1つの茎に黒い旗が挙げられ捕鯨漁は完了した。船上では、この間、船上でも戦いが繰り広げられていた。船長はマストヘッドで監督し、エンジニアが燃料の補給を、 ジェームスたちクックやその他の乗組員すべてが船の仕事を手伝っていた。2隻のボートが派遣され、午前10時ごろクジラは船の横に運ばれ、横一列に固定された。 

鯨の解体がはじまった。まず最初に1つのひれを取り、もう一方のひれを切り取りました。頭に約10インチの穴を通り抜け、長さ2フィートと言うチェーンで、首は切断された。

骨が目立つ唇の曲線は非常に優雅だ。クジラの骨は、狭くて長い上顎にはじまり、骨は真ん中で最も長く、鼻と喉に先細りして完全なアーチ型を形成している。このクジラは長さ約30フィートか35フィートで、最も長い場所で約10フィートの骨(平均漁獲量)だ。今年の夏の「バラエナ」が獲得した最初のクジラであった。 

ジェームスが担当した夕食は、クジラのミートボール。強くスパイスがきいていて、缶詰のソーセージ肉よりおいしいと評判だった。

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太陽が沈まない白夜の町バロー

5日目の、午後3時ごろにバロー岬を迂回し、1時間ほど後にバローの港町ケープスミス港に到着した。ここでは既に、サンフランシスコからきたばかりの米国沿岸警備船「ベアー号」が固定されていた。「バラエナ号」は「ベアー号」のすぐ近くに停泊した。

北極海に位置するバローは、アラスカで最大規模のエスキモーの定住地で、アメリカ最北の地にある。バローは5月10日に昇った太陽が8月2日までは沈むことがない白夜がつづく。 

停泊した、バラエナ号に多くの原住民が乗って来た。 鹿肉やキツネの皮の販売だ。もちろん、彼らの目的はウイスキーだ。この章の前の8章(ハーシェル島)でも説明したが、捕鯨船の存在は、毛皮や新鮮な肉を製品と交換するためにやってきたイヌイットの人々に大きな影響を与えました。船員達が持ち込んだアルコールや病気が原因でアかなりの人がなくなり、1918年にはパンデミックウイルスの影響をうけた。

特集:インフルエンザの脅威1918年の殺人ウイルスを追う                          1918~1919年,人類史上最悪のインフルエンザが世界を襲った。スペイン風邪と名付けられたこのインフルエンザによる死者は,世界で2000万~4000万人と推定される。15~35歳の若年層の死者が多かったことや,死後解剖で肺に多量の出血が認められたことなどなどから,スペイン風邪が通常では考えられないような強い毒性と感染性を持っていたことがうかがえる。                                                          このウイルスにはどんな特徴があるのか。
また,どこでどのようにして生まれたのだろうか。著者らはウイルスの性質と起源を調べるために,アラスカの凍土に埋葬された遺体から1918年のパンデミックウイルスに感染した組織片を取り出し,ゲノム情報をもとにウイルスを再現することに成功した。   (日経サイエンス  2005年3月号)

チャールズ・ブロワーとトム・ゴードンがノーウッド船長に会いに来た。

「もーかっているかい」とノーウッドが話しかける。

「まあまあだ」とブラウワーが答える。

「ジェームス、今晩はチャールズとゴードン氏と会食だ」

「チャールズさん、また面白い話を聞かせてください」とジェームスが話しかけた。

「ジェームス!元気か?またお前のうまい料理を食いに来たよ。」とゴードンが発した。

チャールズ・D・ブラウワー

1886年、チャールズ・D・ブラウワーは捕鯨船ベアー号の乗組員としてバローに到着した。ブラウワーはバローに交易所を設立し、最初の白人入植者となった。やがて彼はイヌピアック語(アラスカエスキモーの言語)を学び、2人のイヌイットの女性と結婚して14人の子供を産む。今日では、バローの白人とエスキモーのコミュニティの指導者の多くが彼の姓(ブラウワー)を名乗っている。

1893年までに、彼とパートナーのトム・ゴードンは独自の捕鯨事業を行っており。彼らのケープ・スマイス捕鯨貿易会社は、1893年にバローに最初の店を設立( ブラウワーの捕鯨所、店舗、自宅は今日でもバローで見ることができる)。 

のちにジェームス和田は、バローのブラウワーの元で働き商売の極意を習う。

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<コラム>アラスカ・バローへの行き方

アラスカ航空は、アンカレッジからフェアバンクス、プリュードーベイ(Prudhoe Bay)、バロー(Barrow)、そして再びアンカレッジに戻る便を毎日運航している。
バローまでの定期便が一人300ドル以下で買えるので、日帰りツアーよりもこの方法で北極圏を訪れると、北極海を見て、ホテルに泊まって、ツアーに参加して、500ドル以下で北極海を見ることができる。

ーアメリカの48州との大きな違いー

バローは北極海に位置し、その半島の岬であるバロー岬はアメリカ最北端。セイウチやシロイルカ、ホッキョクグマなどが生息して、ほかの州ではみれない。(笑)

ー2016年に街の名称が変更になるー

バローは、1825年に探検家のサー・ジョン・バローにちなんで英語名が付けられた。2016年に地元の人たちが、街の名前を「バロー」から本来の名前である「ウトキア・ターンヴィク」に名前を戻すことを決めた。正しい名前は、Oot-Key-og-vikのように聞こえ、ネイティブではない人には言いづらいアクセントが入っている。
しかし、町の中ではこの発音しずらい文字が書かれているのを見ることはあっても、誰一人としてユートキア・タービクと呼んでいるのを聞くことはないかもしれない。

バロー(Barrow)の楽しみ方
バローの街は歩きまわれるほどに小さいです。ホッキョクグマの危険があるため、町の外を歩くのは安全ではない。地元の人は車、ATVやスノーモービルで移動する。タクシーを呼ぶこともできる。

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