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今日も哲学者

「明日って本当に来るのかな?」

太陽を見送る私はふと頭で文字情報として流れた

「今日もいい日だったな」

そう言い聞かせてることでしか幸せと感じられない私は拗らせているでしょうか?

幸せは感じるもの、そうであるならば言葉を介してでしか感じられない私は幸せを感じられないのでしょうか?

言い聞かせて、言い訳を作って、思考から感情に落とし込めることで自分を納得させている

どこか違うなという違和感をもちながら

感情や直感で幸せや喜びを味わい、その理由を後付けできる方がよっぽど感情で生きていて、人間らしいと思ってしまう

だからこそ子供の無邪気さを羨むんだろうな

そんな人からみたらどうでもいいことを考えている私

「人からどう見られても関係ないやろ!」という強い言葉と、「人からどう見られてるんだろう」という不安の声が聞こえてくる

どちらの声も聞こえることが余計に悩ましい

本能に従って、無心にできることならどちらの声も聞こえないんだろうな

どうでもいいことを考えられる自分は好き

それでも何か意味をなさないといけないみたいな義務感に襲われてしまう私は好きになれない

意味は先についているものなのかな、理由と一緒で後付けでいいと思うのに

本当に何もないってことなんてない

何もないということすら何かがある

ないとかあるとかってないし、あるし

そんなことを考えてしまう私はやっぱり好き

こんなことを考えているうちにもうすぐ明日が来る

波の音は息をしている、私も息をしていることを再認識した

生きているんだ


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