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古本を通して会話をしている

「9/26 古本市 11:00~16:00」

昨日、Twitterを眺めていたら情報が入ってきた。「あ、行ってみたい」そう思って、昨日の私はウキウキした状態でベッドに入った。

最近、ある本を読んでから古本の沼に浸かりそうになっている。もう沼が見えている時点で他人から見たら沼に浸かっているように見えるのであろう。私は目の前に沼は見えるけど、足を突っ込む手前で立ち止まっている状態。

そのある本とは、「漱石全集を買った日」という本。古書店主とお客さんとの対談集であり、本についての熱量が文面上でもひしひしと伝わってくる。私の好きな本屋さんのエピソードもあったり、私が行ってみたい本屋のことが書かれていたりと行動をせずにはいられないような本だった。まさに麻薬本とも言える。そして、「その世界に浸かってみたい!」とまで思ってしまった。ひとまず、古本市に行ってみたいと思っていたところだった。それが昨日情報として流れてきたのだ。

その場を訪れた私には小さな本屋がたくさん並んでいるように見えた。そしてその小さな本屋の店主が本についての魅力を存分に来客に対して伝えているように見えた。その小さな本屋の店主と私の距離は極端に近い。本をじっくり見たいけど、それと同時に店主に見られているという感覚が芽生えてしまい、見るのが怖いと思ってしまった。一言「見せてもらいます!」と伝えたら、楽に見れるのにその一言が言えない私は…と少しモヤモヤが残ったりもした。

それでもじっくり見ていた私に店主さんが声をかけてくれた。そこからはお話が始まってしまう。なんせ、本好き同士の会話なのだから。ジェンダー、マイノリティー、積読や本屋についてなど本という共通言語が存在しているが故にできる会話がそこにはあった。そして、おすすめ本についての話を聞いてはそのストーリーが載った本が欲しいと伝え、お金と本との交換を行った。対価以上のものを受け取っている気がして、「この金額でいいの?」と錯覚してしまうくらい。

店主さんにも色々いる。ノンストップでお話しする店主や、お客からの声がかかってから接客する店主。お店によって様々。それでも小さな本屋同士での繋がりがあるからか、「私、読書会とか行ったことないんですよー」って店主に言うと、「あ、向こうの人が読書会主催しているから紹介するよ」と言ってもらい、紹介までしてもらえた。

「こんな世界があるのか」と気づけた瞬間でもあった。独立書店が好きになってから、おそらく無意識下では気づいていたのだろう。本が欲しいだけなら、どの手段を使ってでも本を所有できたらいい。私はそれでは満足できないみたい笑。本を通して、誰かと会話することを欲していたみたいだ。本が好きでもあるが、本について話せる、好きなものについて話せるということが欲していることなんだと気づけた。その会話のために本を読むという1人の時間を楽しんでいるのかなとすら思えてきた。

何気なく、直感的に「参加したい」と思ったことを実行してまた別の未来が見える。見通しが少し立つ。そしてまた足を運びたいとすら思える。貴重な機会だった。もはや沼には浸かっているみたいだと自覚した。

古本市での会話で、「衝動的に本を買っては本を積み、そしてまた衝動的に本を買う。というループを繰り返して、本に対して申し訳ない気持ち、自責の念に駆られるんですよねー」と悩みを伝えたら、「積読は積徳ですよ」という返しや、「まだ若いから積読って言っても、まだまだよ。だって床抜けてないでしょ?」という私の積読のレベルを遥かに超える話まで聞けた。その悩みを行きつけの店で話すと「変なものにお金使ってないから健全!、それで感情が落ち着くならいいでしょ?」というアドバイスまでもらった。

もはやこれらのアドバイスは「もっと本買え!」と言っているようにも聞こえる。そう聞こえてしまう私は…。と思っているようでその自分が嫌いではない。好きと言い切れない私は難しい人間みたい。

徳を積めているなら本に対して感謝しないといけないねと話を聞いてて思った私。そしてその本に関わっているすべての方へ感謝しないといけないとすら思える。私の手元まで届けてくださりありがとうございます。

積読は積徳。



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