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猫に九生④

憧れの大人がいた。忘れもしない。中学校三年生の時の担任の先生。
私は、家庭環境があまり良くなかった。学校も休みがち。積極的に生きる意味を見出せず、毎日がどうでもよかった。
「どうせ私なんか、誰からも必要とされていない。」
なんて思い、自分の殻の中に閉じこもる日々。

そんなある日、先生から『うちへいらっしゃい。』と手紙が届いた。あんまり会ったことも無かったけれど、まあ、暇だし行ってみてもいいかな、と思った。
「ここが先生の家か・・・。」
門から少し離れたところに、可愛らしい洋館が見えた。門の横には、真っ赤に熟れた実。鈴なりになっている。顔を近づけると甘酸っぱいにおい。家へ向かう道に咲く、白と淡いピンク色の薔薇もみずみずしい。まるでお伽噺に出てきそうなお家だ。少しどぎまぎしながら、呼び鈴を鳴らす。ややあって扉が開いた。
「こんにちは。よく来てくれましたね。」
笑顔で先生が迎えてくれた。
「こんにちは。」
恐る恐る中に入る。窓があけ放され、鳥の囀りが聞こえる。木の温かみを感じる部屋。テーブルの上には二人分の紅茶とクッキー。
「最近はどのように過ごしていたのかしら?」
「・・・別に、毎日つまんないです。」
「それなら、もっと沢山の世界や言葉を知るために本を読むといいわ。この家に来た時、庭の植物に目を留めていたでしょう?きっとあなたは感受性が豊かよ。本を読めば、あなたの感じたことを自由に表現できるようになる。それって素敵じゃない?」
と言いながら、先生は何冊か本を持ってきてくれた。黙って一緒に本を読む。
「どうかしら?」
「どれも面白いです。」
「学校に来て私の国語の授業を受けたら、もっと色々な作品について知れるわよ。」
いたずらっぽく微笑んできた先生。

『先生に会いたい。』という目的ができて、私は学校に行くようになった。本から得た価値観や知識、言葉によって、心の澱を言語化できるようにもなった。自分の辛さを言葉にすると、助けてくれる優しい人も案外多いのだと知った。あのままだったら私は、狭い世界の中で、自分の不幸を一つ一つ数えながら沈んでいっただろう。状況を変える術も、助けを求める言葉も知らずに。最悪、命を絶つなんてこともあったかもしれない。私は先生に命を繋いでもらった。
「子どもたちを未来へ繋いでいけるような教師になりたい。」
という夢がそこからの私の人生の原動力になった。
そして遂に、その夢を叶えた。
「先生に、伝えたい。」
はやる気持ちを便箋にしたためた。
『是非、いらっしゃってください。私もお会いしたいです。』
先生らしい丁寧な言葉。柔和な表情が目に浮かぶようだった。


約束の日、期待で胸を膨らませながら先生の家の門をくぐる、あの頃と同じように、庭では植物たちが生き生きと咲き誇っていた。最近知ったが、あの赤い実はスモモの実というらしい。
チリン、呼び鈴を鳴らした。・・・長らく待ったが、反応がない。
「あれ?おかしいなあ。」
扉の握りに手をかける。キイと音をたてて開く。鍵はかかっていないようだ。
「先生・・・?」
何かあったのかもしれない。幾ばくかの不安がよぎる。恐る恐る中に入った。
先生の姿はどこにも見えなかった。リビングの窓があけ放されていて、桜の花びらがはらはらと舞い込む。まぶしい午後。
「先生、どこに行ったんだろう。」
ふとテーブルの上を見ると、二人分の紅茶とクッキー。そして、一枚の紙が置かれていた。手に取って見ると、懐かしい先生の流麗な字。手紙のようだ。

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