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『アスペルガーの人はなぜ生きづらいのか? 大人の発達障害を考える』を読んだ+α

 直接にお付き合いがある訳ではありませんが、精神疾患を生物学的に研究している人たちのイメージについて、これまでは誤解を恐れずに言えば「なんとかして心の理論を迂回したい」ために脳の研究をしている、というものでした。特に神経症やうつ病についての研究は、誘発的な認知、コミュニケーション、対人関係のパターンとその形成過程における環境要因という人間的過程を所与にしたものに見えて、率直にいい印象を持っていませんでした。コメディカルとしてかつて身を置いていた精神科医療の片隅では、コメディカルの支援ツールとしての「見立て」とDSM的な症状診断とがあまりに食い違うので、診断が同じというだけの多様な人たちを同じ群としてなされた臨床研究にどれほど価値を見出せばいいのか、全然ピンときていませんでした。分子生物学的な研究については今でもそう思っています。少なくとも、実態としてこれだけ知的障害が鑑別されていない診断体系から提出された症例から一意の成果を見出すことは難しいのではないでしょうか。研究ではそういうことはないのかも知れませんが…。スペクトラムや症候群といった考え方で境界線が曖昧になっている実態には、本来同じカテゴリにしてはいけない当事者たちが便宜的に留め置かれているということもあるでしょう。

 医師でもないわたしが見立てという隠れ蓑の向こう側からいかにも偉そうに精神医学に対してもの申しているのは、人間がその精神も含めて環境の相互作用の産物であり、対象者理解の源泉をクライエントの人間的過程に依っているというソーシャルワークの考え方に基づいています。医師ほどの知識も見識もありませんが、生活という相互作用の現場をともに生きている限り、あたかも脳から析出された駆動体としてしかクライエントを見ていないかのような一部の分子生物学に対して何も思わないはずがありません。

 というのが、わたしの生物学的精神医学に対する長年のイメージでした。変化のきっかけはこちらのnoteです。

 生物学的、という言葉を器質的とほぼ同じ意味で理解していたし、状況とケースによっては先天的、決定論的なニュアンスで発していたのですけれど、これはかなり興味深く読みました。 
 俄然興味が沸いてきて、紹介されていたピアジェを手に取ったもののドロップアウト、図書館にあった↓を手に取りました。前振りが長くてすみません。ここから感想です。

 こちらは非常に読みやすくて、というかグイグイくる筆致で、わたしにしては珍しく一日がかりで一気に読了しました。わたしの中にあった「心の理論」に対する反発がむくむくと動き出すような、そういう読後感でした。

 本書の内容は生物学的な説明だけに留まらず社会規範のあり方にも踏み込んだ内容で、社会を対象にするソーシャルワーカーが読んでも得るものの大きい本でした。この手の本は意図の倫理的正当性は置くにしても何かとひいきの引き倒しになりがちなところ、既レビューでも触れられている通り、そういう変な遠慮がないのがよいですね。容赦がないとも言えます。詳しくなければここまで明晰に書けないし、対象と同一化していたらここまで価値判断からフラットには書けないという意味で、通俗的な発達障害本とは一線を画します。そして、多くの場合でうまくいかないという現実をフラットに描写した上で、果たしてその規範の正統性はどうかという投げかるゆえに、問題提起が説得力を持つのでしょう。労働の持つ主観的価値についてはっきり言い切るのは小気味よかったです。以下引用します。

障害者には、少なくとも働く権利と同じ程度には、働かない権利もまた認められるべきだということを主張しておきたいと思います。そもそも、ギブアップした一人のアスペルガー者が働くために、支援は配慮のために労働者一人分の”もうけ”以上の追加コストがかかるとするなら、本人も働きたくないと言い、社会全体にとっても赤字であるということになるわけです。それでも労働を強制することは滑稽な話ですから、労働以外の人間らしい社会参加の形を作り出す方が、はるかに建設的だと思います。そのような、収入にならない積極的な社会的活動が、誰かの助けになり、誰かに感謝されるなら、それは「労働」でなくとも人間的な活動であり、現実的で具体的な社会との結びつきになっています。(強調は引用者)

p.239

 わたし自身は労働以外に自己の存在を否定しないで済む術を持たない残念な人間ですが、これは本当にそうありたいな、と思います。わたしの長年の協同作業者である統合失調症者たちがおしなべて病前に到達していた労働水準への回帰と実存とを悲しいほど重ね合わせてしまうことを思うと、ほんとうに、切に思います。この主張、被害感から出発して階級闘争史観にからめ取られた対決的な言説とは異なる功利的、帰結主義的なものとしてわたしは受け取りました。社会に対して何かを訴えかけるときに倫理道徳や社会正義を大上段から振り下ろす論法を徹底して避けるタイプのわたしとしては、こういうロジックの方が好みです。
 また、本書でも指摘されている心という概念の取り扱いについて、わたしには思い当たるところがありました。


 支援者としてのわたしのルーツというか元々の関心領域は統合失調症で今もそれは変わらないんですが、統合失調症という病に典型的な不具合は何も精神内界的なものだけではなく、防衛機制的なものだけでもなく、もっと生活に根ざした不具合、例えば億劫で家事が捗らないとかTPOに合った言葉がうまく出てこないとか、文字がスルスル読めないとか、何をするにもぎこちないとか、そういう運動的というか行動的なレイヤーの困りごとというのがいっぱい出てくるワケです。
 精神分析とか精神力動論とかは割とそのあたりの具体的な生活のしづらさにnaiveというか、葛藤を解消する過程でいわゆる症状的なものは付随的に解消するとか、そもそも現実の生活課題、困りごとの解決を標的にしない感じなので、ソーシャルワーカーの自分がそういう心の理論だけに耽溺してしまうことに、内的には抵抗があるんですよ。

 統合失調症を抱える人たちを支援していますと、寄り添い的な振る舞いは確かに重要で、言語的な交流も決して無意味ではないにしても、実際に彼らは生活をやっていかないといけないので、特に病歴が長い人ではうまくいかない気持ちに寄り添ってだけいると部屋がゴミ屋敷になったり社会活動に参加できなくなったりして生活が破綻してしまうことも少なくない。わたしがいたデイケアでは、言わば行為の完遂をサポートするという精神生活に対する支援とは趣の違うこともやっておりました。そういうのをリハビリというのかもしれません。

 そこでは功刀浩先生計見一雄先生の書いたものがわたしの助けになりました。リアクションがワンテンポ遅れて出てくることも動作が緩慢になることも、全体として何もかもがとんでもなくメンドくさくなることも、自分が思っていること、感じていることをタイムリーに表現できないことも、観念としての心よりもむしろ脳、神経、身体で起こっている事として理解することが、怠けてるとかやる気がないといった心のレイヤーでする価値判断を退ける助けになりました。
 例えば床を拭き掃除すること一つとっても、どこで何が引っかかって止まるのか、どこまで待ってどのタイミングでどういう働きかけをする/しないことが行為の完遂を助けるか、という試行錯誤につながりました。そして行為の完遂は彼らがその行為を維持再獲得することを助け、通じて不全感を抑圧し、社会的存在的な葛藤の減圧にもいくらか役に立つらしいのでした。

 かように、心という概念を言語で操作しようという試みはわたしの中では相対化されていたはずで、いわゆる生物学的精神医学とは別のレイヤーで心の理論に向こうを張っていたのでした。そういえば。本書を読んで改めて思いますが、やはりクライエントの理解、支援は生活場面を捉えながら必要に応じて作業や行為を伴って為されるべきということを忘れてはいけませんね。


 本書の主題であるアスペルガーを含む発達障害についても少しだけ書いておきます。わたしは上に書いたような見立ての考え方から、発達障害を見立てとして用いることはほとんどありませんでした。診断としての発達障害は職域からくる対象者の偏りを加味しつつも、多くが知的障害とトラウマによって説明可能だった(だと思っていた)からです。
 わたしの発達障害、特に自閉症についての理解は『言葉のない子と、明日を探したころ: 自閉児と母、思い出を語り合う』に依拠しています。この本に登場する彼は子どもであり知的障害もあるから成人のアスペルガーの理解に直接参照することは出来ないまでも、自閉症的な世界観や価値観、振る舞い、言語のパターンはわたしにとってずっと基準線になっています。だから、他者に対して自分に関心を向けるように屈託なく振る舞う(ように見える)発達障害当事者の存在にわたしは戸惑いました。そこへ来て本書に例示される架空のアスペルガー者たちの記述は、わたしにとっては「そうそう!」と膝を打つような描写でした。

 その上で、アスペルガー者についての本書の明晰な記述を見ると、自分が確実に見落としていた生きづらさがあろうとは思いました。特にトラウマとの関連では特性が重なるところが多く、明確な意図を持って鑑別しようとしないとどちらとでも取れる現象が少なくない上に、どちらも当事者が強固なアイデンディティとしがちな概念なので、キチンと特性を押さえておかないと危ういなあと痛感しました。
 例えば、虐待を生き延びてきた人はしばしば社会規範を遵守する利益を享受した経験に乏しく、したがって社会規範にコミットする動機付けが弱いかネガティブで、ふつうの人が当然守ると思い込んでいる暗黙のルールを悪意なく反故にしたりする訳ですけれど、それをアスペルガー者の情報統合の弱さだと説明されたり、本人がどちらかに強力にコミットしていてそういう自己規定でサバイブしていたりすると「なるほどそうかも」ってなってしまう気がします。また、虐待を受けてきた人はその多くで不安が強いので、緊張から来る二次的な注意欠陥や多動的な行動が見られる、という説明に対してそれは発達障害だからじゃあないの?って言われたら今のわたしは「そうかも…」ってなってしまうかもしれません。そもそもアスペルガー者が虐待的な生育環境に置かれることだって全然あり得る訳で、その困りごとは何由来の話?なんて聞かれたら、ものにもよりますが今のわたしはお手上げです。どっちも定義的というより記述的な概念ですし。もう訳がわからなくなりそうです。
 本人がトラウマだと理解している特性がアスペルガーの特性だったり、その逆だったり、近時はdimensional志向をいいことにトラウマ、ASD/ADHD、双極症なんて具合に相互に症状の重複する概念を何重にも背負わされていたりして、このままでは当事者たちが発信する(しばしば主語の大きい)ナラティブが、ある領域について一般化に堪えるのかそれともあくまで個人史として尊重すべきなのかもわからなくなってしまいます。それは当事者のナラティブを判断してやろうという上から目線の話ではなくて、守秘義務に拘束された専門家が発信できる内容よりも豊かで臨場感があり、かつ経験に裏付けられていて社会の理解に資する可能性を秘めた情報発信を、むざむざ黙殺せざるを得ないのはよくないという話です。

 今までどちらかと言えばトラウマ界隈にいたわたしですが、本書を読んでから概念の腑分けがバラバラになりかけて頭の中が混乱しています。まあでも、この混乱のなかりせば…ですね。ちょうどトラウマ界隈にもついていけなくなっていたところですし。旧Twitterから逃げ出したわたしですが、自分のアンテナにあまり感応しない分野のおいしい知見が得られるのはSNSの御利益ですね。ありがたいことです。


よだん

 思えばわたしは、統合失調症者の中に知的障害や被虐者を見出して悦に浸っている同業者を横目に、統合失調症でないと言うためには統合失調症が何かを知らねばならないのだ…!と俯きながら独り言ちていた陰気なヤツでした。当たり前ですけれど、発達障害も同じですなのね。何かを発達障害ではないと言いたいなら、では発達障害とは何か?ということをちゃんと学ばねばならないのです。億劫がらずに勉強しようと思います。はい。



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