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精神医学において生物学的であるとはどういうことか

筆者は、精神医学において自他ともに認める生物学派である。ある意味で精神科医になったことについては偶然であったとも言えるかもしれないが、生物学についていえば、振り返ってみて生物とは何かという問題から関心が離れたことは一度も無かった。個人的な体験としては、小学校の時に読んだ牧野富太郎植物記とファーブル昆虫記、そして畑正憲先生の沢山の著書が生物学との出会いだったと思う。その時々で、SF小説に凝った時期や、人文学・社会科学に興味を持った時期、数学や物理学が面白くて仕方なかった時期もあったが、なぜかピアジェの生物学的な発達心理学に興味を持って、ある意味ではそれがもとで農学部を中退して医学部に入り直した。それ以来、精神医療に従事している現在に至るまで、結局のところ自分の思考の軸は生物学によって形成されたと言わざるを得ないように思う。

そういうわけだから、今日の生物学的精神医学の隆盛に反対があろう筈がないわけだが、ある意味で逆に生物学の立場から疑問に思うことがないわけではない。というのは、最近ではあまりにも精神医学における生物学の意味が狭く考えられすぎているように思うからだ。精神医学の学術雑誌に掲載される論文を見ていると、まるで生物学というのは分子生物学・分子遺伝学や精神薬理・機能画像だけを指しているかのようだ。しかし、それらは生物学という広大な領域のほんの一部でしかない。

生物学というのは、生き物の個体としての生活史から生態系の全て、そしてその進化に至るまで、様々なスケールの現象を包み込む学問である。だから精神医学において生物学と言うときには、生きている人間の生活の全てが対象とならなければならないし、そこには社会性動物としてのヒトのあり方の全てが映し出されていなければならない理屈だと思う。

そもそも筆者がしばしば”ピアジェ派”を名乗るのは、たまたま医局で太田昌孝先生の教えをうけることができたという幸運を記念するためだけではなく、生物学者としてのピアジェに魅力を感じ、それを手本としたいと思っているからだ。ピアジェの偉大さは、生物としてのヒトの個体である赤ちゃんが、発達の過程の中で人間としての能力を発達させていく過程を見事に描き出したことにある。発達は段階か連続かなどというのは些末な論点でしかない。興味のある方は「知能の誕生」を読んでいただくとよいと思うが、わたしたちが知性として理解するそれが、先験的なものでもなければ形而上学的なものでもなく、社会の中で発達していく生物の体が獲得していく機能であるということが、生き生きとした記述の中で明らかにされていく。

わたしたちのこの生物としての身体、生きるために動く身体がわたしたちであり、それより他に何か別の主宰者がいてこの身体を動かしてるわけではない。歩いたり、食べたり、深呼吸したりするこの身体の機能が仮に”精神”と呼ばれるのであって、決してその逆ではないということが、生物学的精神医学の根本概念でなければならない。筆者自身としても、ありがたいことに自閉症の分子生物学的研究に参加させていただいた時期もあったし、また機能的脳画像研究や治療効果研究なども大いに行われるべきだと考えている。しかし、それ以前にするべきことがあるとも思う。バラバラの要素の寄せ集めではない、生きた人間の生活の全体を生物学しようとする必要がわたしたちにはあるのではないだろうか。

そのためには、科学ということを狭く考えすぎてはならない。この生きている人間の全体を参与的に観察し、記述し、意味のある伝達可能な概念を形成し、それを共有することを通じて発展させていくことが求められる。そのためには、記述精神病理学の力を借りることも必要だし、社会システムについての科学に学ぶ必要もある。まだいまのところ厳密な意味での科学として成立するには早すぎるさまざまな精神療法・心理療法の技法や知見からも学ぶことができる。それどころか武術や舞踏などの身体技法とその学習過程からヒントを得ることだってあるかも知れない。

臨床実践において、科学的であると言うことは大切なことである。しかし、科学者ではないひとたちが期待するほどには、精神に関する確立した科学が教えることは多くはないのである。わたしたちは精神と呼ばれるものの働きについて、少数の信頼性の高い情報を持っているが、それ以上に信頼性について留保せざるを得ないような多数の不確実な知識を持っており、そして全く知らないことの世界は、その両方と比較しても限りなく広大なのだ。

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