「やさしい日本語」は必要なのか
「やさしい日本語」と呼ばれる日本語がある。
阪神大震災で、日本語を理解しづらい外国人被災者が必要な情報を得られなかった反省から生まれた日本語の新しい表現法だ。
情報を多言語化するのがいちばんだが、全言語に対応はできない。
であれば、外国人にも分かる「やさしい日本語」を用意しようという動き。
主に行政のホームページや広報誌などで使われはじめているようだ。
いわば発祥の地のわが街・神戸も取り組みを進めている。
たとえば、次のような言い換えが推奨される。
「少々お待ちください」→「少し 待って ください」
「ご参加くださいますようお願い申し上げます」→「参加して ください」
「こちらには初めてお越しですか」→「ここに 初めて 来ましたか」
「行かないわけではないです」→「行きます」
確かに外国人にとって、敬語や婉曲表現、二重否定などは難しく、それらのない「やさしい日本語」は有用だろう。
しかし良し悪しは別として、曖昧な含みを持たせたい日本人にとってまさに必要な表現ではある。
それが「やさしい日本語」にはなく、まるで機械翻訳された文章のよう。
そんな仕上がりなら、機械翻訳で各国語に直訳するので十分と思った。
「やさしい日本語」は必要なのか。
***
先日、PCを新調し、そこに古いOfficeをインストールしようとした。
しかしなぜかライセンス認証がうまくいかず、Microsoftのサポートとオンラインでチャットをするはめに。
え? 相手は外国人?
「私は知りたい」「新しいバージョンを買う興味はないですか」などと少し変な日本語が飛んでくる。
よく見ると、それらのメッセージの下に「オリジナル」とあり、そこをクリックすると、おかしかった日本語がすべてきれいな英語に置き換わった。
サポート担当は英語で打ち込み、それが機械翻訳されて届いていたのだ。
同様に僕の日本語は英語に翻訳されて向こうに伝わる。
そうと分かってからは、できる限り正しい英語に翻訳されるよう心がけた。
「こちらでできないわけでもない」は「私ができます」に。
これはまさに「やさしい日本語」だ。
そしてそれが「I can.」になっていることを見てほっとした。
2時間の格闘ののち、無事Officeは認証され、使えるようになった。
「やさしい日本語」を推進する神戸市長の弁。
わかりやすい、相手の立場に立った日本語を使うこと。そのためにはもちろん相手の立場に立って「考える作業」がなくてはならない。
(中略)
こう考えると、「やさしい日本語」を書き、「やさしい日本語」で話すための作業は、自分自身の想像力、思考力、表現力、コミュニケーション能力を高める取り組みでもあると思う。
(職員の意識改革に「やさしい日本語」が示した威力)
Microsoftサポートとのチャットは機械翻訳の技術があってこそ成立した。
しかし、どうすれば誤訳されずに伝わるだろうと思ったとき、自然に出てきたのが「やさしい日本語」だったのだ。
「やさしい日本語」は単なる表現手法ではなく、まさに相手を思う気持ちそのものなのだと思った。
(2022/7/24記)