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僕は、うまいものを食べるために生きているのだから

今日は少し長く、そしてちょっと重たい記事になる。

手術の後、僕はペースト状の流動食を続けている。
たとえばこんなのだ。

チンゲンサイのおひたし(左)
きんぴらごぼう(右)
照り焼きチキン(左)
白菜のおひたし(右)
具なしすまし汁

あまり美しいとはいえない見た目から、最初は抵抗もあったが、食べて(呑み込んで)みると意外とそのものの味がする。
そのものをペーストにしているから、意外ではなく当然なのだけど。
表示を見ずに呑み込んで料理を当てる一人クイズを楽しむまでになった。

問題は、なぜもう退院していいくらいにまで回復している僕がいまだにこんなものを食べているのかだ。

僕は、ふつうのものがふつうには食べられなくなった。

悲しいことにそれが現実だ。

手術箇所が口の中で、医師も唸るほど大きく欠損したからだ。
欠損部分をカバーする装具をつけているが、そのせいで噛めない。
もちろん装具なしで口にものを入れることは禁じられている。

手術前からそれは分かっていたことだし、手術を受けない選択肢もあった中で、生きるためにはやむを得ないのだと何度も自分に言い聞かせて手術に臨んだから、後悔はしていない。
生きるために必要なことより上に立つものなんてないからだ。
後悔はしていない、がしかし、悲しみは深く心に突き刺さる。

自分の口で最後にしっかり噛んで食べたのは手術前夜の病院食だった。

すき焼き、炒め煮、梅肉和え

おいしかったな。

入院前にはかみさんにお願いしてステーキを焼いてもらった。
神戸ビーフではなくオージービーフだったが、むしろひと噛みごとに歯に伝わる豪州肉の固さが交互に淋しさとおいしさとなって押し寄せた。

こんな手術、ありふれているのかもしれない。
ペーストであれ、口から食べられるなら幸せと呼ぶべきなのかもしれない。
それはそうなのだろうと思う。
術後何度か押し寄せた敗北感に対し、僕はそう思うことで自分の気持ちを奮い立たせてきた。

しかし、僕の楽しみは、このnoteで何度も書いたように食べることなのだ。

僕は、うまいものを食べるために生きているのだ。

命題1)うまいものを食べるために生きる
命題2)生きるために食べられなくなる手術を受ける
このジレンマは誰が解けようか。

その名もまさに「うまいものを食べるために生きている」という僕のマガジンには、食について書いた記事がすでに268本も入っている。

269本目に今日のこの食べられない記事が入ることになるなんて。

2月末に神戸リアル会を開いた時にはすでにこうなることは分かっていた。
とにかく手術が会より後になることを願い、実際にそう決まった時の嬉しさといったらなかった。
あちこちから集まってくれた仲間と神戸のパン、スイーツ、ジビエ、日本酒を囲んだが、ホントにおいしかったな。
手術に向けて最大限の元気をもらった一日だった。
あれが最後になるかもしれない。
食べない会、飲むだけの会ならいつでも開けるけど。

救われるのは外見上なんら変わることなくイケメンが保たれていることだ。
(この記事くらいそう書いてもどこからも苦情は出ないだろう)

それと、退院後に口腔外科で新たに作る予定の装具によっては、ある程度のものまでは食べられるようになる(かもしれない)、あるいは肉体的な適応(口の中の形状の変化)によってはふつうに食べられるようになる(かもしれない)という希望的観測もある。
実際、手術直後はうまく喋れず自分の声とは思えなかったが、それからわずか数日で多少の発音の曇りはあるものの喋れるようになっていて驚いた。
医師によれば、早くも口の中が形を変えつつあるのかもしれないということだった。
僕はもう、この生命の神秘に賭けるしかない。

さすがに退院後もずっとペーストにすることはできない。
今日から刻み食に変えてもらってリハビリを行うつもりだが、昨日までの感触でいえば、すべて丸呑みするよりほかないだろうな。
お腹、大丈夫かな。

この身に奇跡が起き、今日のこの記事なんてあげたことすら忘れ、何でもない顔をしてまたリアル会で仲間とおいしい食を囲めるよう祈るしかない。
いや、絶対そうなる、なってみせる。
だからがんばれ、僕の口。
僕は、うまいものを食べるために生きているのだから。

(2023/4/3記)

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