決して上に立つのではなく
——人が人を支配するために神の存在を肯定するんですよね?
弱冠25歳の若き編集者だった僕は、これまた若き気鋭の宗教学者に訊いた。
これまで長く繰り返されてきた侵略と服従の歴史を振り返れば、そこに掲げられた一方的な正義を神と表現した側面はあると思います、という答えだったように思う。
侵略までいわずとも、隣のおっちゃんの言うことより、一段上の神的視点を持ったおじさまの言うことがもっともらしい。
そうやって人は、人の上に人を造り、人の下に人を造ってきた。
児童、生徒、学生の上に教師が立つ。
部下の上に上司が立つ。
これらは、未熟な者を成熟した者が導くという点で違和感はない。
しかしもちろん、誰だって上に立てるわけではない。
教師になるには教員免許が必要だし、上司になるには経験を積んで業務を隅々まで把握し、マネジメントの術を身につけることが必要になる。
身勝手な神を持ち出す人ではなく、上に立ってもいいよと自他ともに認めた人でなければならないのだ。
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僕はキャリアコンサルタントとして、相談者の心の中に眠る「こうしたい」を引き出すお手伝いをしている。
寄り添い、受容し、そしてともに考える。
決して人の上に立つ仕事ではない。
その一方で僕は、キャリアコンサルタントは人を評価する目も養うべきだと考えている。
これは、目の前の相談者に対して評価を下し、正しい方向に矯正して導きたいという意味ではない。
その相談者にとってベター、ベストな受容、伴走をするためには、その人の心の傾向を正確に摑む必要があるといっているのだ。
僕はそう思って半年間、人を評価する訓練を受けてきた。
身につけたのは、あなたはこんな傾向がありますよと相手に直接告げ、修正を促すようなスタイルだ。
ある意味それは、その瞬間人の上に立つことであり、それは僕のやりたいことではない。
でもしばらくはその仕事に注力してみるつもりだ。
僕のスキルとして「人を見る目」を養うために。
目の前の人を受容すること、すなわちその人と同じ場所に立つこと。
目の前の人を評価すること、すなわちその人と違う場所に立つこと。
この相反するスキルを身につけるのは至難の業だ。
まだまだ今でも、ひとつの面談の中でスイッチを切り替えるのは難しい。
だけど、それができれば、僕はきっともっとみんなの役に立つ。
相談者のすぐ横で伴走しながら、同じところにちょこんと立ってみたり、違うところにぴょんと立ってみたり。
決して上に立つのではなく。
(2024/7/6記)
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